第6話 月隠れの夜
その夜は、闇夜だった。
しかし、ここ、辺境の流刑囚の街プランクスでは、夜の賑やかさはいつもと変わることはなかった。
罪人の烙印を押され、辺境のこの街に送られて来る男達は、昼は暗い鉱山の穴の中で働き、夜は明るい花街でうさを晴らす。
そんな訳で、小さな街にたった一軒の安酒場は、いつもの様に大勢の男達でごった返していた。
若い小柄な男が一人、人目に付かぬように辺りの様子を気にしながら、という風情で、その酒場に入って来たのは、まだ宵の口のことである。彼は、店の様子に、ちょっとためらうように足を止めて、辺りの気配を探るように視線を店の中に流した。
やがて、自分がバーテンに見られているのに気付いた彼は、そそくさとカウンターへやってきて、目立たないようにその一番隅に座った。
彼は安酒を注文して、バーテンの注意を反らすと、そこで軽い溜め息を漏らした。彼が、バーテンの注意を引いてしまったのは、その顔の上半分を、金属製の仮面で隠していたせいだ。酒場の雰囲気にそぐわないその秘密めいた仮面は、彼が貴族であることの証となる。この国では、貴族は仮面を付けることが義務付けられている。自分より身分の低いものに、その顔を見せてはいけないというのが、その理由だ。
もっとも、彼が仮面を付けていたのは、貴族だからではなく、別の理由からだった。言ってしまえば、顔を晒せば、色々と不都合なことがあったせいである。だから、世紀の悪法といわれる仮面法も、彼にとっては便利な法律だと言えた。だが、一つ誤算だったのは、華やかな装飾を凝らした仮面を付けた人々が行き交っている都と違って、この辺境のプランクスでは、仮面を付けている者を見る事自体が珍しいのだということだ。悪目立ちすること甚だしい。
そもそも、この街は、プランクスの鉱山で働く人々の街であったが、ここに来る労働者というのは、ほとんどが流刑囚なのである。大抵は、街を守るための城壁も、ここでは、囚人を入れておく監獄の檻に過ぎない。プランクスは無法者の街なのだ。
バーテンは、その若者を貴族階級の者であると認識したようで、グラスを渡ししな、慇懃な物腰で話しかけた。
「旦那様、何か、お困りの様ですな」
その若者――マーシュ・クラインは、話しかけた人物の風体を確認するように、仮面の小さな目の穴から、その顔をしばらく見ていた。そして、自分に話しかけたのが、善良そうな男であるのを確認して、ようやく、聞き取りにくい掠れた声で、ぼそぼそと言った。
「……人を捜している」
低く押えたその声は、明らかに作り声の様で、バーテンはそれに興味を引かれて、若者をしげしげと観察した。
仮面から出ている顔の肌の色艶を間近に見れば、この男はかなり若いのではないかと思われた。体つきも、マントに隠されてはいるが、それでも華奢であることは分かる。まだ、少年と言っても良いかも知れない。
「アステリオン・ラスタークという者を知らないだろうか……」
「アステリオン?」
聞いた記憶はあった。バーテンは、少し考える様に目を宙にさ迷わせる。と、側にいた別の男が口を挟んだ。
「お前、そいつは、アスティのことだろう?」
「ああ、あのアスティか。はは、すみませんな、どうも……ここじゃ皆、本名なんぞで呼ばないもんですから……」
バーテンは、そう言いながら、馴染みの下級役人の顔を探して、酒場の雑踏を見回した。
「いつもなら、その辺にいるんですがね……おい、サフィ。お前、アスティを見なかったかね?」
ジョッキを乗せたトレイを片手に、テーブルの間を縫って歩いていた若い男が、呼ばれて足を止めた。
「今日は見てないっすよ。ここに居なきゃ、大方、カラんとこでしょう。さっきも、奴の居場所、聞きに来た御方が居たけど、そう答えときましたよ」
「アステリオンの消息を聞きに来たというのは?」
マーシュが尋ねると、サフィと呼ばれた若者は、同じように仮面で顔を隠した、同じように若い男が、少し前に来て同じ事を聞いていったと答えた。
「それで、そのカラというのは……」
「ああ、そこの通りを北へ少し行ったとこにある娼家の売れっ子でねぇ……アスティは、彼女に入れ上げてるんで。一晩と置かず通ってるって、もっぱらの噂なんですよ。そりゃぁ、カラはいい女には違いないんですがねぇ……へへへ」
バ-テンとカウンターの男が、互いに顔を見合わせて下卑た笑いを浮かべた。
「……邪魔をした」
マーシュは、半ば赤面した顔を隠すように俯いて、懐から取り出した金貨を一枚、カウンターに投げ捨てると、そのまま席を立った。
「メっ、メルブール金貨っ?」
滅多にお目に掛かれない都の高額硬貨に、男達が目を奪われている隙に、その少年、マーシュの姿は店から消えていた。
神官達の言う暦の上では、この夜は満月である。だが、空を覆った厚い雲が、月光を遮って、地上は闇夜である。
――月隠れの夜。
満月の闇夜をこの国では、そう呼ぶ。もちろん、あまりいい意味ではない。月を女神に見立てた信仰がある国柄である。女神が不在の月隠れの夜は、魔王の下僕が空を飛ぶという。月隠れの夜を歩く者は、悪魔に魂を奪われる――そういう話である。
王都リブランテでは、月隠れの夜に外出する者などいなかったが、ここでは、信仰心が希薄な様で、道端に酔っ払いが眠り込んでいたり、酔った者同士の喧嘩もある。花街は、昼のように明るく賑やかで、もとより、天に月の有る無しなど気にかけもしないという風情である。
マーシュは教えられた娼家の側まで来て、足を止めると、煌々と光を放つ娼家の明かりを見上げて、途方に暮れた。
「どうやって、アステリオン様を捜せばいいんだろう……」
彼にとって、娼家という場所は、未知の場所であった。年齢の事を言ってしまえば、実はまだ十五である。
大人のふりをして旅をしていても、知らないことは、まだまだ多い。
「苦労して、三年も大陸中を捜し回ったっていうのに、よりによって、こんな所にいるとか……も~アステリオン様って、信じらんない……も~何なの……これ、どうしろって……」
他のことなら、大抵は躊躇などしない。今までだって、向こう見ずな事は、山程やってきたのだ。だが、こういう事となると……
「……娼家になんか入れるか、汚らわしい……」
……ということである。
結局、彼はアステリオンが出てくるまで待つ、という事にした。待つと決めて、人目に付かぬように、娼家の横の路地に足を踏み入れた所で、仮面の男と鉢合わせた。
「……あ」
相手の男の顔を纏っている白い仮面は、顔を全て覆うもので、その男が、かなり高位の貴族であることを示している。これが、酒場のボーイが言っていた輩かと思う。マーシュが、そんなことを考えていると、いきなり容赦のない当身を食らった。
……ちょっ……危機管理能力~っ……
こんなことでは、ダークブランカ様に呆れられる。残念な自分を哂いながら、彼の意識は遠のいていく。薄らぐ意識の中で、顔の仮面が外されたのが分かった。顔に当たる風が気持ちいい、そう思ったところで、マーシュの意識は完全に途切れた。
「……お前は、母上の……何だって、こんなところに」
白い仮面の主――リシスの声は、もう彼には聞こえていない。
気絶させた相手の仮面を剥いでみれば、知った顔だった。自分の母親の使いとして、何度か修道院に来たことがある。はじめての外出で、極限まで緊張していたせいで、反射的に打倒してしまったことを申し訳なく思う。
「マーシュ……おい、マーシュ」
リシスは傍らにしゃがみこんで、意識を戻させるべく、気の毒な少年の頬を叩こうとした。だが、手を翻したところで、彼は動作を止めた。こんな所で、母親と繋がりのある者と出くわす。まさかとは思うが、自分が修道院を抜け出してきたことが、露見したのだろうか。
少し思案してから、リシスはおもむろに少年の腰に下がっていた袋に手を伸ばし、そこから金貨の詰まった袋と、通行証を抜き取った。
「後で、迎えを寄越してやるから、悪く思うなよ、マーシュ」
リシスは少年の顔にそっと仮面を乗せると、手にしたものを自分の懐に収めて立ち上がり、そのまま暗がりに消えた。