第29話 巫女狩り
アルベールは、はやる気持ちを押さえて、ファラシアの家の扉を叩いた。だが、中からは、返事がない。二度、三度と苛立った風に乱暴に扉を叩く。するとようやく、男が顔を見せた。
アルベールの顔を見た途端、男は驚いた顔をした。男の手にしていた酒瓶が床に落ち、派手な音を立てて割れた。
「……ご勘弁下さい、貴族さま」
男がその場にひれ伏す様子に、アルベールは自分が仮面を付けていなかった事に初めて気づいた。自分はそれほど気が急いていたのかと思う。
「前に、一度会っている。私だ、アルベール・フォン・ラスフォンテだ」
「……伯爵さまで?」
「仮面のことは気にしなくていいから、顔を上げてくれ」
男が、恐る恐るといった様子で顔を上げる。
「ファラシアは、どうした?居ないのか?」
アルベールの言葉に、男の顔がこわばる。戸の隙間から室内に目をやったアルベールは、その様子に何か只ならぬものを感じた。
部屋には灯りも点いておらず、暖炉には火の気もない。その薄暗い部屋の床には、幾本もの酒瓶が転がっていた。
「ファラシアは、もうここには居りません」
そう言って男は、おぼつかない足取りで部屋に入っていき、崩れるように椅子に座り込んだ。
「……一体何があった」
アルベールは、テーブルに手を付いて男と向かい合い、問い詰める。
「出て行ったんでさ……もう戻っては来ないです」
「どうして……」
「それが、運命だからです」
「運命?」
男は息を付くように、深いため息をついた。
「……黒い闇に追いつかれる。ファラシアは、自分の運命を、そう予知したのです」
「予知……?」
「あれの本当の名は、ファラシア・リィーシャと言います。リィーシャは、シャディアの巫女の血を引いている女でした」
「シャディアの巫女……」
突然出てきた言葉に、アルベールはその言葉の持つ意味を記憶の中に探した。
シャディア……というと、その昔、大陸の中央に広がる、緑草海と呼ばれる大平原にあった古王国の名だ。戦に破れ、滅んだ国である。その折には、国を失って多くのシャディアの民が、大陸中へ散っていったという。
新たにその地を支配したのはグラスファラオンという名の国だった。グラスファラオンがシャディアを滅ぼし、代わって大陸の交易路を支配する様になって、まだ百年は経っていない。
グラスファラオンは、シャディアの民を一人たりとも生かしておくことを許さなかったという。その国では、多くのシャディアの民が、虐殺されたと聞いているが、しかし、それはアルベールが生まれるよりもずっと前の事ではなかったのか。
アルベールは嫌な予感を覚えて、男に問い正した。
「……黒い闇に追いつかれる、というのはどういう事だ?ファラシアは、何から逃げているんだ?まさか……」
「グラスファラオンの刺客は、今でも大陸中で、シャディアの巫女を狩っているのです」
「馬鹿な……今更、何故そのような蛮行がまかり通るんだ」
憤るアルベールを、男が悲しげな顔をして見る。
「……予言があるのだそうです。グラスファラオンの神官の予言が……シャディアの巫女の血を受け継いだ者が、グラスファラオンを滅ぼすという予言なのだそうです。だから、グラスファラオンはシャディアの血を絶やすまで、巫女を狩り続けるのだ。どこに逃げても、刺客が追ってくるのだと……」
シャディアは、女王の国だったと聞く。女王は国を守る神であり、シャディアの女達は、その神に仕える巫女だった。シャディアの巫女は、ランドメイアの魔法近いに匹敵するほどの異能の力を持っていたという。
それほどの力を持ちながら、どういう経緯で滅んだものか、詳しいことはアルベールには分からない。しかし、それは、滅んでからもなお、侵略者を恐れさせる程の力だったということなのか。今や大陸屈指の大国に成長したグラスファラオンを、未だに怯えさせるほどの力だというのか。
アルベールは釈然としない思いを抱えて、ファラシアが向かったという方向へ馬を走らせた。
……闇に追いつかれる。でも、小さな希望の星。あなただけでも……わずかでも、望みがあるのなら……まだ、間に合うのなら……
ファラシアは幼い娘を抱いて、大通りを南へ向かっていた。もう少し行けば、街道を通ってアランシアへ向かう辻馬車がある。そこから海路で、ランドメイアへ渡るつもりだ。
ランドメイアは、ファラシアの故郷だった。そこは特別な魔法結界に守られた島。巫女狩りの手の及ばない、安全な地。そこには、多くのシャディアの民が逃げ込んでいた。ファラシアは身近に闇の気配を感じるまで、そこがいかに安全な場所だったのか、気付いていなかった。外に出るということの恐ろしさを。祖父母の時代から伝えられていた、伝承を軽く考えていた。
かつて仕えていた主、ジュリアが結婚してメルブランカに来たのに従い、どこか閉塞的な故郷から出られたのを、嬉しいとさえ思ったのだ。一度も帰ることのなかった場所。これまで、そんなに懐かしいと思いもしなかったのに、今になって、無性に帰りたいという思いに取り付かれている。
……そこまで辿り着けるとは思わないけれど……あなただけでも、逃がしてあげられたら……
心で呟いて、思わず子供を抱きしめる。巫女の血を引くがゆえに、もう自分には、時間がないのだと、痛いほどに実感する。その闇を間近に感じた。
ファラシアは抱えていた子供を下ろすと、その子の傍らに屈み、自分の首にかけていたペンダントを外して、娘の首にかけなおした。ペンダントの先に綺麗な薄紫の石を見つけて、その美しさに娘が瞳を輝かせてはしゃぎ声を上げる。
「これ、かあさまの宝物……貰っていいの?」
「これは、あなたを守ってくれる守護石。だから、失くさないように大切に持っていて」
言って、娘を再び抱きしめる。自分が同じように母から受け継いだ守護石。どうかそれが、この子を守るものであるように、と。ファラシアは石をぎゅっと握り、そこに願いを込めた。
ファラシアが再び立ち上がり、娘を抱き上げて歩き出そうとした時、後方から馬の蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。反射的に、道の脇に避けた彼女は、その馬が、自分の目の前で止まったのに驚いて顔を上げた。
騎乗の人物を見て、ファラシア・リリィシュは、困惑した表情を浮かべた。
「エリンネーゼの若様……」
ファラシアが抱いていた娘を下ろすと、幼い娘は怯えた様に、ファラシアの足にしがみついた。
「ファラシア、事情は聞いた」
アルベールが馬から下りて言った。
「どうか、こちらへ……」
ファラシアは低い声でそう言うと、アルベールを伴って細い路地の物陰に入った。
「何か、私に出来ることがあったら……」
「若様、もう私とは、かかわりにならぬ様にと申し上げたはずです」
アルベールを見上げるファラシアの表情は、険しいものになっている。それは、かつて、ヴィランドの密偵を務めたことのある女の顔でもあった。
「済まない。だが、どうしても、お前に確かめたい事があって……」
「お話する事など、もう何もございません」
敢然としたファラシアの言葉は、アルベールに取り付くしまを与えない。
「ファラシア。お前なら、兄上の居場所を知っているはずだ」
「いいえ。何も存じません」
「頼む、ファラシア。兄上の命が危ないのかも知れないのだ」
「若様、お願いですから。もうお帰り下さいまし」
「ファラシア……」
アルベールの声を遮って、突然、馬がいなないた。アルベールの耳元で、ヒュッと空気が鳴った。そして、彼の目の前で、ファラシアが小さな呻き声を上げた。
「ファラシア!」
崩れ落ちるファラシアを、アルベールが抱き止める。ファラシアの肩には、矢が刺さっていた。反射的に、辺りの気配を伺ったアルベールの視界の端に、黒い仮面の男が引っ掛かったが、瞬く間にその男は姿を消した。
「……もう、時が来てしまったのね……」
ファラシアの弱々しい声が、アルベールの耳に届いた。
「しっかりしろ、ファラシア……そんなに深い傷じゃない」
「若様は……闇の世界の事を……ご存じない。これは、“戒めの矢”。確実に相手を殺す為に矢尻に毒が……若様……アイーシャを……お願い……どうか、この子をランドメイアへ……」
「ファラシアっ……」
「それから……」
「もういいから。喋るな」
「……シャルル様は……王宮に……」
腕に抱き抱えていたファラシアの体が、急に重くなった。
「ファラシアっ」
ファラシアは、目を閉じて、もうアルベールの呼び掛けには、答えなかった。
「おかあさん……ねちゃったの?」
アイーシャがぽつりと言う。
「……」
アルベールは、その問いに答えることができなかった。ただ、跪いてその場にファラシアを横たえると、アイーシャを無言のまま抱きしめた。
少女が窮屈そうに、身じろぎをする。こんな運命があっていいのか。やりきれない思いに、アルベールは唇を噛んだ。
……シャルル様は王宮に……
ファラシアの遺してくれた言葉が、甦る。王宮にいるとは、どういうことなのか。
国王ライディアスの幼名がシャルルであるという事は、アルベールでも知っていた。そのシャルルと、自分の探しているシャルルが同一人物だということなのか。
……まさか、本当にそうなのか……
信じられない思いを抱きながら、アルベールはアイーシャ抱き上げて馬に乗せ、そのまま王宮へ馬を向けた。




