第15話 両手に花を
一台の馬車が街道を東へ向かう。
王都リブランテを指して、車輪は休みなく回り続けていた。
馬車の中には、華やかなドレスの女達と、一人の少年がいた。重苦しい沈黙が車中の空気を支配している。少年は、女達の顔を順繰りに見回すうちに、その一人と目が合うと、気まずそうに窓の外に視線を反らした。
アステリオンは、彼の向かい合わせに隣り合って座っている二人の女が、先刻から、一言も口をきかず、不機嫌な面持ちであるのに閉口していた。
カラとキャル――キャロリーヌ・フォン・メルリーゼ。
生まれも育ちも、容姿や性格にいたるまで、対称的な二人である。唯一、アステリオンという男に好意を持っているという点で、この二人に共通項を見出すことが出来る。しかし、その事が逆に、二人の対立を決定的なものにしているのは、誰の目にも明らかなことであった。
儚げだが、芯の強いカラ。
お転婆で勝気だが、寂しがり屋なキャル。
ありていに言えば、どちらも魅力的な女だと、アステリオンは思う。どちらもいい女だ。リブランテで、プランクスで、それぞれに閨の枕べでささやいた事は、嘘ではない。
――愛している。
という、呪文のような言葉。
単純な言葉だが、その持つ意味は、結構、広くて深くてそして曖昧なのである。
二人とも愛している。ただ、愛し方が違う。そういう事である。どちらかが本当で、どちらかが嘘というものではない。アステリオンにとっては、どちらも本当である。
昔、『夏姫、冬姫、離れれば恋し』と歌った詩人がいた。アステリオンの心境とは、やや異なるが、理屈としては、そんなところだろう。夏には、冬が恋しいし、冬になれば、今度は、夏が恋しくなる。そういう意味あいの歌である。
ただ単に、気が多いだけだろうと言われれば、反論する言葉はない。アステリオンとは、そういう男である。一言でいえば、女好きとも言う。
「ルイーシャ……」
隣に座っているリシスの口から、吐息のような微かな呟きがアステリオンの耳に届いた。アステリオンが横目でそちらを見ると、リシスは深刻そうな表情で、固く握り締めた自身の両手を見詰めていた。
無意識のうちにそう呟いたらしい。アステリオンの視線にも気付かず、リシスは心ここにあらずという風情で、何か思い詰めたような顔をしていた。
不意に、何の前触れもなく腰を抱きよせられて、リシスは混迷した思考の中から、現実に意識を引き戻した。
「え?」
瞳が、アステリオンの顔を至近距離に捕えて、リシスは絶句した。
「ア、アス……テ……リオンっ。何……?」
「あんまり、くよくよするもんじゃないぜ。ルイーシャの行き先は、分かってるんだ。この俺が、すぐに助け出してやるよ。お姫様」
「あ、ありがとう……ござい……ます」
リシスが、そのまま迫ってきそうな勢いのアステリオンから、精一杯、体を離してようやく答える。だが、狭い馬車の中である。逃げるといっても、限界がある。
リシスとアステリオンの遣り取りを見て、向かいの席の二人の女は、互いに、何気なく視線を交した後で、どちらからともなく笑い出した。
「何なんだ、一体?」
その笑いの意味が分からなくて、アステリオンは、きょとんとしている。
「見境もなくつまみ食いをなさっていると、お腹をこわしましてよ」
カラが、子供に諭す様な大袈裟な口調で言う。
「リシス様、くれぐれも、こういう大人になってはなりませんよ」
キャルが更に、畳み掛けるように付け加える。
「はぁ……」
リシスは、答えに窮して、曖昧に返す。
「残念でした。俺はまだ十七なんだぜ」
「え、十七なんですかっ?……えぇっ~年下?……」
リシスが軽く衝撃を受けた顔をすると、それに続いて、
「あらっ、私に初めて会ったときも、十七でしたけど?」
カラが、何気なく注釈を付ける。
「私と会ったのも、十七の時だったわね、アスティ坊や」
キャルもしれっとした顔で言う。
「お前らなぁ……」
「ホントに、年、取らないんですか?呪われてるって……うわ~本当なんだ……」
リシスがアステリオンの顔をまじまじと見る。
「魔女にちょっかい出したしっぺ返しなのよね?」
と、キャル。
「あら、そうなの?」
カラが興味津々という風に身を乗り出す。
「ある時は、鉱山の監督官。ある時は、傭兵隊の隊長さん。ある時は、南海の海賊で、またある時は、キャラバンの伊達男。果たして、その実体は……」
「よく調べたなぁ……お前」
「行方をくらましたあなたを探して、大陸中から情報を集めたんですから。プランクスを探し当てるのに、三年かかったわ」
「相変わらずだよなぁ。そういう一途な所は」
「女の執念を甘く見ていると、痛い目を見ましてよ」
「はは……それは、恐いね」
アステリオンは、キャルの瞳から逃れるように、天井を仰いだ。
「あなたも、色々とご苦労なさったんですね」
カラが、男の経歴を聞いて、冗談なのか本気なのか分からない感想を漏らした。
「だめよ、カラ、こういうのは甘やかしちゃ」
キャラがきっぱりと言う。
「ええ、そうね」
カラは、口許に微笑を浮かべて答える。
「……でもまあ、昔のことはね……私もあまり、人に自慢できるようなものではありませんから。おあいこですわ」
真っ当な暮らしをしていたのなら、娼家になどいない。だが、アステリオンは、彼女がどういう経緯でそこに迷い込んでしまったのかということを、問いはしなかった。気にはならないのかと、一度、問うたことがある。すると、カラの中で心のわだかまりが消えて、いつかそれを話せる時が来るまで待つ、と、そう言ってくれた。そんな包容力の大きな部分も、カラのお気に入りだ。
その時の嬉しかった記憶を思い出し、意味ありげにふふふと笑ったカラに、キャルは、
「かなわないわね」
と、ため息交じりに一言呟いて、窓の外へ視線を移した。
リブランテのメルリーゼ家の屋敷は、街から少し離れた丘の斜面に建っている。リブランテという街は、四方を丘陵に囲まれた低地を流れる、リブリア川を中心にして発達した街である。
街の中央をリブリア川が横切り、川から幾つもの水路が街を縦横に走っている。川沿いに商業地が広がる繁華街があり、そこがメルブランカの王都、リブランテの中心地であった。貴族達は込み入った市街地を嫌い、大抵は、メルリーゼ家の様に閑静な丘陵地に居を構えていた。
屋敷のテラスへ出ると、リブランテの街が一望に見渡せる。アステリオンは、目でその様子を一通り追って、街を挟んだ反対側の丘陵地にある王宮を瞳に収めた。彼がこの街に来るのは、新王の御代になってから初めてのことだ。
「……まぁ……叔母上がいらっしゃらなくて、良かったよな……」
彼が、この王都で会いたくない人物は、もうここにはいない。
「お一つ如何?」
キャルがワイングラスを両手に、アステリオンに声を掛けた。グラスの中で、淡い琥珀色のワインが揺れ、雲間からわずかに差し込んだ夕陽を反射してきらめいた。
「うちの荘園のものよ。今年は雨が多すぎて、少し味が薄い様だけれど……どう?」
「メルリーゼのワインには、おいそれと文句はつけられないよ。メルブランカでも、逸品だからね」
そう言ったアステリオンを瞳に捕えながら、キャルはワインを口に含む。
「……それでも、あなたには、気に入ってもらえないのよねぇ……このワインとメルブランカの侯爵位に、こんな素敵なお姫様までついてくるっていうのに。そんなに、メルリーゼはお嫌?」
キャルの視線を外して、アステリオンは、冗談めかして答える。
「俺は、侯爵様なんて柄じゃない。それだけのことだよ。メルリーゼが嫌いな訳じゃないさ」
その答えが、三年前のものと全く同じだった事に、キャルは溜め息をついた。
「天高く飛ぶ大鷲だって、どこかで翼を休めるんでしょうに……癪だけど、きっと帰る場所は、もう決まっているのね」
「……帰る場所?」
アステリオンの顔を、キャルが覗き込む。
「とぼけたって、駄目よ。帰る場所がなくて、そんなに天高く飛べるものじゃないわ。帰る場所も、待ってる人もいる。だから、あなたは、強くて、自由でいられるの」
「そうなのか?」
アステリオンが大袈裟に驚いた様な顔で聞き返した。
三年前はまだ、自分は何も知らない世間知らずだった。自分で言うのもなんだが、彼の言葉を、そのまま信じてしまうような、純真な乙女だったのだ。
……三年前、あなたがちゃんとサヨナラって、言ってくれていたら……
この男が、自分の前からいきなり姿を消したことが、どうしても納得いかずに、大陸中から情報を集めた。そのお陰で、この男が大ウソつきだと知ることになった訳だが、それが良かったのか悪かったのか……
……言ってくれてたら、こんなに擦れた女になんかならなかったのよ……
思えば、宮廷で大貴族の才色兼備な令嬢として、全方位からちやほやされていた自分が振られるとか、プライドが許さなかったのかも知れない。その恋によって、自分の価値観は変わった。まさに、頂点からどん底に叩き落されたのだ。その強烈な経験は女を鋼のように強く、強く、したのだ。
それでも、目の前にいる彼に、もしかしたら手が届くんじゃないかしらって……そんな誘惑を感じるほど、悔しいぐらいに、三年前の思いはまだ燻っている。
キャルの瞳の中で、アステリオンの像が揺れる。
「メルリーゼ侯爵様は、何でもよくお見通しなんだな。俺にも分からない事をよく知っている」
「そうやって、何も分からない子供みたいに、ごまかして……」
「まあ、十七から年をとっていないからね。まだ、子供のままなんだ」
「ずるい人。……不公平だわ、私だけ年を取ってしまった感じ……」
キャルは、ワインで濡れた唇をそっと、アステリオンの唇に重ねた。その口づけは、それ以上深くはならずに、そっと離れていく。それは、恋人同士のキスというより、母親が子供にしてやるキスだった。
キャルがアステリオンの手から、空になったグラスを取り上げた時には、彼女は、もういつもの快活な彼女に戻っていた。
「リシス様を連れて、王宮へ行ってくるわ」
「……お前が首を突っ込んでると思ったら、やっぱ王室絡みか。あまり危ない橋を渡るような真似はするなよ?」
「……私は、国を守るべき貴族の責務を、果たしているだけだわ」
「すっかり侯爵さまだな」
そう言われて、キャルは複雑な顔をする。
アステリオンが愛したのは、キャルという女であって、メルリーゼ侯爵という女ではなかったのだ。今更ながら、それを思い知らされる。だが、侯爵位を継いで、メルリーゼ家の当主となった自分も、かつて、アステリオンと愛を語らった自分も、どちらもキャロリーヌ・フォン・メルリーゼなのだ。片方だけを消してしまう事など、出来はしない。
……結局、捨てられないものが多すぎるんだわ……
カラの世界には、多分、アステリオンしか住んでいない。余計なものがない分、カラの方が、アステリオンをより近くに感じられるのだろう。
「ルイーシャの方は、頼んだわよ。あの子は、リシス様にとってかけがいのない存在なんだから」
「了解。あ、そうだ、結晶石の件、帰ったらちゃんと聞かせてもらうからな」
「はいはい……鼻先のニンジンはなくなったりしないから、安心して行ってらっしゃいな」
そう言い残して、キャルはテラスを後にした。