第14話 枢機卿と公爵夫人
窓の外は鬱陶しいばかりの、曇り空である。この季節には珍しく、ここ数日、雨風の多い天気だった。とりわけ今日の天気は、濃灰色の重々しい雲が幾重にも空を覆い、昼間だというのに薄暗い。
ヴィランド枢機卿は、元々さして良くもなかった気分が、ますます悪くなった様な気がして、眉をひそめてカーテンを引いた。つい先刻、書記官が天候不順による今年の葡萄の不作についての報告書を置いていったところである。メルブランカのワインといえば、大陸中の王侯貴族達の御用達品として知られる一級品である。
遠く、大陸は東の果ての大帝国、ファーズの皇帝も、メルブランカ産のワインの愛好家であると言われている。ワインの製造は、王室の重要な財源の一つであった。
“畑に葡萄落ち、王国に禍落ち”――という言葉がある。
葡萄の出来の悪い年は、禍事が多いという。戦や国王の崩御など、年代記を引っくり返せば、確かにそういう年に多い。迷信じみた話だが、要するに、葡萄による収入が減れば、王家の財政が苦しくなって、国の経営がやりにくくなる。そういう事らしい。
新国王が即位してから、二年。昨年に続く不作である。その上、先の国王ランバルトの、晩年の贅沢三昧が生んだ借金の利子も馬鹿にならない。
それに近頃、この王都で黒衣に黒い仮面を被った者が、人を殺めるという事件が頻発しているのも気掛かりな事である。真紅の矢羽の矢に毒を仕込み、たったの一矢で、相手を葬るのだという。街の警護兵を増やしてはいるが、まだ捕らえるには至らない。山積する問題に、頭の痛まない日はない。
「死してからも、なお、私に復讐しようと言うのか……ランバルト王は」
そう呟いて、ヴィランドは自嘲めいた笑いを漏らす。
「復讐か……恨んで当然だな。お前に咎のあった訳ではなかったのだから……」
全ては、このメルブランカ王家の為。
この体に流れる王家の血脈を絶やさぬが為なのだ。
「失礼いたします、猊下」
秘書官が、控えの間からヴィランドを呼んだ。
「何だ?」
「マリアーナ公爵夫人様、お出でにございます」
「お通ししろ」
……また、この頭の痛い時に……アランシアの、あばずれ女めが……
ヴィランドが心の中で悪態をつく間に、一人の女が、不機嫌そうな顔をして部屋に入って来た。
深い海の碧の瞳に、黄金の髪。意思の強そうな輝きを持つその瞳は、誇り高いアランシア人のものである。
「カザリン様。宮廷内では、仮面をご着用いただかなくては困りますな」
艶やかな紅を引いた唇が僅かに動いて、女はそこに、侮蔑を込めた笑みを浮かべた。
「ヴィランド殿。あの様な下らない法律、さっさと止めになさいませ。今や、メルブランカは、大陸中の笑い物にございますわ」
「先の陛下の、お決めになられた事でございますぞ。ライディアス陛下にも、変えられるつもりはございませぬ故……」
「あの子も、ランバルト様と私の子なら、さぞかし美丈夫であろうに。無粋な仮面などで顔を隠ざずとも……それとも、顔を見せたくない理由が、他におありなのかしら?ねぇ……猊下」
カザリンが針のように目を細めて、ヴィランドを横目で見た。
「私は宰相とはいえ、陛下の補佐役にすぎぬ身。陛下のお心の内までは、存知上げませぬな」
ヴィランドは、表情を読む様なカザリンの視線から逃れて、先刻閉めたばかりのカーテンを、再び開けに窓辺へ行った。
マリアーナ公爵夫人は、先王の妃である。
ランバルト王亡き後、王宮を出て、南のマリアリリアの湖畔にある山荘に暮らしている。宮殿には滅多に姿を見せないが、現国王の母親であるから、メルブランカ宮廷の一番の権力者と言っていい。ヴィランド枢機卿にとっては、“目の上のたんこぶ”といった存在である。
「そうそう、リンドバルト公爵の件では、猊下にお骨折り頂き、ありがとうございます」
背後から聞こえたカザリンの言葉に、ヴィランドは一瞬答えに詰まる。
「……わざわざ、念押しにいらっしゃったのですか。今更ながら、私めは、カザリン様にはご信頼が薄い様ですな」
ヴィランドの言い様に、カザリンが笑う。
「ほほほ……宰相殿はお忙しいお身の上故、雑事に紛れて、つい、お忘れになる事もございましょうから」
「……ご心配いただかなくても、覚えております。遠路わざわざのお越しは、その御用件で……?」
ヴィランドは話題を変えるように、カザリンに尋ねた。
「辺境に参っておりました、私の使いの者が、予定を過ぎても戻りませんの」
「ほう」
「何か、ご存じなのではないか、と思いましてね」
「私がですか?」
「ご子息のラスフォンテ伯殿が、あちらの方へ参られているとか……」
「アルベールが?」
「そういうお話、お耳に入っておりませんこと?」
「いえ、それは初耳ですな。あれは、放蕩息子で、ふらふらと遊び歩いてばかりおりましてな。親の私にさえ、居所が定かではございませんので……それより、辺境に何か気掛かりな事でもございましたか?」
「大事ではございませんわ。しばらく、こちらに逗留いたします。陛下に、その様にお取り次ぎ下さいませ。では、失礼いたします。後程また……」
「すぐに、お部屋のご用意をさせます」
ヴィランドは、カザリンを戸口まで見送って言った。
「お気遣い感謝するわ……猊下」
カザリンは、猊下という言葉にわざとアクセントを付けるように言い返して、そのまま退出していった。
年若いライディアス王には、政治的な手腕というものが、まだ見られなかった。宰相であるヴィランド枢機卿が、実際には政治的な実権を握っている。
ライディアス王は、ヴィランド枢機卿の作成する書面に国璽をつくだけである。年齢的には、もう十九であるから、さほど若すぎる国王という訳ではないのだが、政治向きの事には、あまり関心を示さないのだ。
夜な夜な、舞踏会や音楽会を催しての派手な暮らしぶりで、こういう所ばかりは、父王ランバルトに似ていると、陰口も聞かれる。音楽家、画家、彫刻家……など、メルブランカ宮廷お抱えの芸術家達の数は、数百人といわれている。おまけに、つい先だっては、新宮殿建築のために、大陸中から名のある建築家を集めていた。
財務大臣のミュラーから、辞表と共に、方々からの請求書の山が届いたのは、三日前の事である。これも、ヴィランド枢機卿の現在の頭痛の種の一つであった。
国内のごたごたは、いつまでも隠しきれるものではない。そろそろ、周辺の国にも国王の放蕩ぶりは伝わり始めた様で、不穏な動きを見せている国もある。
「猊下。クロード殿、お見えにございます」
秘書官が、再びヴィランドを呼んだ。
「クロードか。すぐに通せ。待ちかねていたぞ」
枢機卿が応えると、すぐに、一人の若者が入ってきた。枢機卿は、仮面を付けて、男の方へ向きなおった。
「何だ、あまり良い知らせではない様だな、クロード。お前も、私の頭痛の種を増やしに来たのか?」
枢機卿は、うんざりしたような口調で言ったが、クロードと呼ばれた若者は、さして動じる風でもなく、ただ単調な口調でそれに答えた。
「リシアーナ姫様が、姿を消されました」
大それたことを、平然と言う奴だ。枢機卿は半ば呆れながら、溜め息をついた。
「エルシアの修道院を抜け出して、一体、どこへ行ったというのだ?」
「ただいま、捜索中でございます」
「行方が分からぬでは、話にならぬ」
「姿を消された日、ラスフォンテ伯爵様が、エルシアにいらっしゃっていたらしいという話が」
「まさか、あれが連れ出したのではあるまいな?」
「あるいは……」
「……あの痴れ者めが、兄弟揃って……」
「……」
「クロード、事が表沙汰にならぬうちに始末をつけよ。籠の鳥に、野で囀ずられては、面倒なことになる」
「……およろしいので?」
「元々あれは、いないはずの姫だ。籠の中で、大人しくしていれば良かったものを……私も、さほど寛容ではないのでな」
「では、その様に……御前失礼いたします」
クロ-ドは、表情一つ変えずに部屋を出ていった。
……そういえばあれも、黒衣の者だったか……
その後ろ姿を見送りながら、ヴィランドはクロードに初めて会った時の事を思い起こす。
半年ほど前のことだ。
お忍びでエルシアへ出掛けた帰り道、街道筋でクロードが黒衣に黒い仮面の者と剣を交えていた所に出くわした。
一見して技量の差は歴然としていた。クロードもそれなりに剣を扱う様だったが、如何せん、相手が強すぎる。あれよという間に利き手に刀傷を負って、剣を取り落とした。
ヴィランドは護衛の者を差し向けて、加勢に入った。黒衣の者はそのまま逃走し、その後の消息は定かではない。クロードに事情を問いただしてみたが、突然襲われて、その理由に心当たりもなく、ただ狼狽していると言った。
ヴィランドがクロードを助けたのは、親切心や興味本位からではない。ちょうどその時、彼の抱えていた問題を解決するために、クロードが役に立つと考えたからである。
――リシアーナ姫が、ランバルト王の子で、現国王ライディアスの『弟』であるという事実。
それは、この十九年間、ヴィランドの心をさいなみ続けている棘であった。
もし、その存在が公の事となれば、ライディアスが、まだ妃を持っておらず、子供もいない現在においては、彼が、次期王位継承者ということになる。
ヴィランドにとっては、それは、許しがたい事であった。修道院に入れたリシアーナに、何も起こらずに、ただ時が過ぎていくのであれば、そのまま捨て置くつもりでいた。だが、ランバルト王の死によって、止まっていた時が動き出すかの様に、事態は回り始めた。
ランバルト王亡き後、リシアーナの処遇に不安を抱いたマリアーナ公爵夫人が、リシアーナにリンドバルトの公爵位を与えて欲しいと、ヴィランドに願い出たのである。出自を伏せ、臣下としてライディアス王に仕えさせる。王位継承者であることは、決して表沙汰にはしないからと。しつこく食い下がられて、遂には、こちらが譲歩する羽目になったのだ。
リシアーナの存在は、ヴィランドにとって、厄介なもの以外の何ものでもなかった。リシアーナは紛れも無く、『彼の犯した罪の証』なのだ。その存在を消せるものなら、消してしまいたい。心の奥で、ずっとそう願い続けていた存在だった。
もしも、事が穏便に済むのなら……この心の重荷を捨てられるのなら……そう考えて、彼は半年前、密かにエルシアの修道院にいるリシアーナの様子を見に行ったのだ。
――だが、運命は彼に楽な道を用意してはくれなかった。
ヴィランドは、ため息をつき、机の引き出しに潜ませてあった、一枚の細密画を取り出した。
「血とは、厭わしきものだな……」
そこに描かれている人物は、もうこの世にはいない。それは、彼の従兄弟であった、ランバルト王の若い頃の細密画である。
リシアーナ姫の面座しは、父王に良く似ていた。女の格好をしていても、見るものが見れば、そうと分かる程に。
……似すぎていたのだ。せめて、リシアーナが母親似であったなら……
いずれ始末をしなければならない。
ヴィランドはそう決心せざるをえなかった。
立身を願って都へ来たという、クロードの様な男が、そんな時には役に立つ。事が済んだ後に、全てを闇に葬ってしまうためには……
果たして、ヴィランドから密偵の誘いを受けたクロードは、相手がこの国の宰相であると知ると、二つ返事で、その危険な仕事を受けたのである。
「仮面は、ランバルトの呪いなのかも知れぬな。しかし、もう後には引けぬ事。この身滅びる時は、この王国を冥府のお前への土産にしてやるよ……」
ヴィランド枢機卿は、鈍天の空を見上げて、冷めた笑いを浮かべた。