第9話 月下の薔薇
リシスは、カ-テンの隙間から外の様子を伺っていた。少し前から、往来の人々の中に、仮面の男達が出没している。その数が、次第に増えていくところを見ると、どうやら、彼らは、リシスの居場所の当たりを付けたらしかった。
「……見付かるのは、時間の問題というところか」
「お前さんの言う、追っ手ってのは、あいつらのことか?」
何時の間にか、着替えを済ませたアステリオンが後ろに立っていた。
「何者か、見当はついてるのか?」
「ええ……まぁ。ラスフォンテ伯爵という人らしいのですが……」
「ラスフォンテ伯爵?何でまた、あの伯爵が……」
「伯爵を、知ってるんですか?」
「知ってるって、枢機卿のご子息だろ。リブランテじゃ、有名人じゃないか」
「そうなんですか……」
「知らないのか?」
アステリオンが、訝しげな顔をした。
「その月下の薔薇、伊達じゃないんだろうな」
「え?」
アステリオンは、リシスの下げていた剣の柄に描かれている紋章を指差した。
「月下の薔薇……これって、ムーンローズの紋章、だろ?」
「ムーンローズ?」
「はっ?まさか知らないとか言わないよな?それって、メルブランカ王家の紋章だろう」
「おっ……」
……王家の紋章って……キャルはそんなこと一言も……
その紋章入りの剣を持っているという自分、という存在とは、一体何なのか。背筋を冷たいものが落ちる。
……まさか、王家に所縁があるとか……言わないでくれ。頼むから……
臣下が戦功で下賜される、ということだって皆無って訳じゃない。今は、そちらの可能性の方を信じ……たい。
「わ、私は、その……長く、メルブランカを離れていたので……世情に疎くて」
訝しむようなアステリオンに、ようよう言葉を返す。
「まぁいい。そういうことにしておいてやる」
そう言って、にんまりと笑う。何というか、この者の細かいところを気にしない、そういう大らかな所は、ありがたいと思う。その点では、キャルの人選に感謝したいところだ。
……というか……
キャルが、アステリオンという男について説明した時のことを思い起こす。その言葉の端々から、隠しきれない好意のようなものが感じられた。
「おっ、サンキュ」
カラが、アステリオンの肩にマントを掛けた。
「一雨くるな」
マントの止め具を止めながら、窓の外に眼を遣って、アステリオンが呟く。
「追っかけっこには、もってこいの夜だな」
「呆れた。月隠れの夜に、出発だなんて。全く、あなたらしいわね、アスティ」
カラが、アステリオンの首に名残惜しそうに両腕を回す。そこには、単に、娼婦と客というだけではない、そんな空気が漂っていた。
……それってつまり、そういう……関係なんだろうか……
だとしたら、キャルは片想いってことになるのか。そんなことを考えながら、カラがアステリオンに抱き付いたまま、泣きそうになる顔を隠すようにその肩に顔を埋めたのを、ぼんやりと見ている。
「俺は、異教徒だからな。そういうの、気にしないんだ。じゃ、出掛けっか」
言いしな、アステリオンが軽々とカラを抱き上げた。
「えっ?」
驚いたカラが顔を上げる。
「あたしも、一緒?」
「当然だろ。お前がいなきゃ、俺の夜は明けないよ」
「だって……あたしは」
アステリオンは、リシスがテーブルの上に置いた金貨の袋に目をやって言う。
「それ、貰って構わないんだろう?」
「ええ、まぁ……」
「こんだけ置いてきゃ、誰も文句は言わないさ。納得?お嬢様」
「アスティ……」
カラが、嬉し気にアステリオンの首に抱き付く。その様子を見て、
「本当に、彼女を連れていくのか?」
と、リシスは思わず確認していた。
この思わぬ連れに、キャルはどういう反応をするのだろうか。とっさに頭に浮かんだのは、そのことである。大好きなキャルが悲しむ顔は、出来れば見たくない……と思う。
「言ったろ?カラは俺の女だって」
「そう……なんですね」
「大丈夫、こいつひとり増えたぐらいで、お前さんの護衛が疎かになることはないから」
「はあ。まあ……そういうことならば」
……いいんだよな?……
キャルから与えられた課題は、アステリオンをこの場所から連れ出すことなのだから。それ以上の話は、リシスの関知することではないのかも知れない。後は当人同士の問題というか。そういう話で。
「じゃ、問題なし。行くぞ」
アステリオンは、部屋の窓を開くと、カラを抱いたまま、屋根の上へ出た。リシスもその後に続く。
屋根伝いに、三つの影が、街を横断する。丁度、振り始めた雨のせいで、頭上を気にする者もいない。その影は、通りの袋小路に建つ教会の屋根から、鐘楼へと登った。そこから教会のすぐ裏には街を囲む城壁が見える。そして、その向こうには、暗闇が続いていた。
「ここから、ぽんぽんと飛んで出れば、すぐ外だ」
事も無げに言ったアステリオンを、残りの二人が、両脇から見る。
「カラは、俺にくっついてれば問題ないし、リシスは、身が軽そうだから、多分、行けるだろ」
「行けるって……まさか」
「ここから、あっちへ綱を張って、渡る」
城壁と鐘楼の高さは、ほぼ同じである。理論的には、不可能ではない。ではないが、
……これは、なかなか貴重な経験をさせて貰っている、というか……だよなー……
アステリオンは足元の屋根瓦を一枚はがすと、用意してあった縄に手慣れたようすで結び付け、それを勢いよく塀に向かって投げた。強風の中、幾度かの試みの後で縄は城壁へ届き、そこに、頼りない道筋を示した。
風に煽られて、縄は大きく揺れる。距離にして、五レイリア(一レイリア=約二メ-トル)程であるが、この風雨の中を伝っていくのは、簡単なことではない。呆気にとられているリシスを尻目に、アステリオンは、カラを背負ってその身体を縄で縛ると、もう渡した縄に手をかけている。
「ほ、本当に、ここ、渡るんですか?」
「なんだ、恐いのか?」
「いえ……そういう訳では……」
「なんなら、カラを向こうに下ろしてから、迎えに来てやろうか?」
アステリオンが、からかう様な口調で言う。
「いいえ、結構ですっ」
アステリオンは、そんなリシスを面白そうに薄笑いを浮かべて一瞥して、そのまま綱渡りを始めた。カラが、女で身が軽いとは言っても、人一人を背負っての、この嵐の中での綱渡りである。普通の人間なら、悪戦苦闘するところだ。しかし、心配そうな目で彼らを追うリシスの予想を外れて、アステリオンは、実に簡単にするすると綱を渡っていく。
「キャルの言っていた、アステリオンはアランシアの海賊だったって話……満更、嘘という訳ではないのかもしれないな……」
アステリオンという男。なかなか謎の多い人物である。でも何故だろうか。何時の間にか、彼を信じてしまっている。リシスはアステリオンの持つ、不思議な引力に魅かれ始めている自分に気付いて、微笑した。
……アステリオンは、何ものにも支配されない。自由で強い人。だから、私達、みんな彼に魅かれるの。あなただって、会えばきっとそう。アステリオンを好きになるわ……
「全く、お前の言う通りだな、キャル。恋する乙女のひいき目を差し引いても、彼は、魅力的な男だよ」
リシスは、アステリオンが、無事に綱を渡り切ったのを確認してから、大きく深呼吸すると自分も綱を渡り始めた。
腰に下げた剣が揺れる。
王家の紋章、ム-ンロ-ズの剣である。
自分が王家の紋章のムーンローズの剣を持っている、その本当の理由。それを母上に確かめなくてはならない。ムーンローズに付いている地位や権力が欲しい訳ではないのだ。自分はこのムーンローズを捨てる理由が欲しい。この紋章と共に過ごした、十九年という忌まわしい歳月の、その理由が知りたかった。そうでなければ……
……私が、過去を捨てられなければ、私達は、未来の扉を開けられないのだから……私にリシアーナを消すことができなければ……私達は、幸せにはなれない……
雨に濡れた手が綱を掴む感覚が、次第に麻痺していく様な気がする。滑らないように手に力を込めても、それが、とても頼りなく感じられる。闇の中に浮かぶ城壁が、果てしなく遠い。
「ルイーシャ……」
時が止まってしまったような錯覚の中で、不意に、手首を掴まれて、リシスは、我に返った。
アステリオンの手が、リシスの手首を捕まえていた。
「何やってんだ、早く上がってこないと、落ちるぞ……」
リシスは、慌てて爪先を石垣の隙間に引っ掛けて、体を支えた。何時、綱を放してしまったのか、間一髪で、アステリオンに助けられた様だった。
「すみません……」
「お姫様、迎えに行くんだろ?しゃんとしろよな」
「は……い」
アステリオンに引き揚げてもらって、城壁の上に辿り着いたリシスは、両膝をついて、肩で大きく息をした。
リシスは、自分の無力さが、腹立たしかった。一人では何一つ出来ない。それでも、都へ行くと決心したときから、もう、後戻りの出来ない道を歩き出しているのだ。
「……ルイーシャ……私に勇気を与えてくれ……」
途中で挫けたりしない様に……立ち止まってしまわない様に……
「行くぞ。立てるか?」
アステリオンの手が、リシスの肩を軽く叩く。
「はい」
城壁の向こうに続く闇。
その彼方に、王都リブランテがある。
リシスは、もう一度、大きく息をして立ち上がった。