005
「まあ、あまり油断しないことね。そのうち死に物狂いで襲いかかってくるわよ。ほら」
ドロシーがいうのが早いか、ワイバーンが復帰するのが早いか。今この瞬間までぐるぐると苦しそうにもがいていたワイバーンが、急に翼を広げて鎌首をもたげ、ばくりと口を開いて嘶いた。甲高い爆音。耳が痛い。
ワイバーンは地上にいる俺たちを睨みつけると、再び急行下してくる。風を切る音。血走った目と、少しだけ生彩を欠いた動き。けれど、多分俺をひき殺すくらいはまだ余裕だ。
「アブねッ!」
俺は必死で回避する。いや、回避できるもんだ。突風が肌を撫でる。振り返るとドロシーも無事に回避していた、というか防御していた。なんか半透明の膜みたいなものが円形に彼女を包んでいる。なんだあれ。防御魔法みたいな? ずるくね? というか俺は守ってくれないのかよ。
ワイバーンは空中には戻らず、地表すれすれを滑空して後ろ足でドロシーを包む膜に攻撃する。馬鹿でかい爪の一撃だ。ものすごく鈍くて不安感を煽る音が聞こえるが、ドロシーは悠然と構えたままで、慌てる様子はない。余裕、ということだろう。
むしろまずいのは俺だ。慌てて適当な岩陰に隠れて、ため息をつく。
「ふう。いや、しかし魔法ってすげーな」
《岩の槍》に、あの防御結界。そして、《屍族の心臓毒》だったか。石の魔法に防御魔法に毒魔法。いろいろあるな。
魔法をどうやって習得するのかはわからないけど、才能の問題とかいってたし、よくあるファンタジー小説よろしく魔力操作の練習とかそういったところから始めるんだろうか。始めるんだろうなあ。努力しないと才能は磨けないわけだし。うーむ。めんどい。《呪文の王》なんてチート持ってるんだし、なんとかショートカットできないものだろうか。
というか、《呪文の王》ってのが要するになんなのかって説明はないんだろうか。あのガキ、不親切だな。
……さっき見えた解説が、《呪文の王》のチートによるものってところ、なんだろうか。だとしたら、思ったより使えない能力かもしれない。ナイフや翼のメカニズムが分かった所で、どうすれば良いんだよ。……ああ、あの子供に言わせればこれは能力じゃなく、権能だったか。
そういえば、こういう微妙な言葉の違いってどうなってんだ? 能力も権能も似たような意味だったよな。権能は、なんだっけ、法律で認められてる能力だっけ? この場合の法律って何だ?
世界か?
「ん? あ、あれはヤバいかも」
そうとりとめもないことを考えていた俺は、遠くの空に影を見つけた。遠目にも巨大な翼を持っていることがわかる、細いシルエット。多分あれは、もう一匹のワイバーンだ。どっちが雄でどっちが雌か知らないが、まだ一頭目を倒していない。最初は二頭同時に相手するはずだったけど、二頭同時より一頭ずつのほうがやりやすいに決まってる。
どうするか。岩陰からドロシーとワイバーンの方を伺うと、どうやらまだ気づいてはいないらしい。ドロシーの防御魔法は破られたのかすでに消え去っていたが、《岩の槍》やなんかがこって地面を捲って対処してる。地面が捲れてるよ。なんだあれ。こわい。いや、ともかく。
遠くの竜影に視線を戻す。まだ少し距離があるからか、悠々と旋回しながらこちらに近づいてくる。悠長なことだ。恋人が死にかけてるっていうのに。なんかそう思うととたんにかわいそうなことしてる気になるな……。うーむ、どっちにしろ俺には対処できないし、なんとかドロシーにこのことを伝えたい。
何か方法はないだろうか。魔法や呪文のある世界だ。例えば、俺の声をドロシーの耳元まで届ける方法とか?
そう思った瞬間。
再び、眼前に白いホログラムが広がる。幾何学模様と奇妙な文字の羅列されたそのウィンドウに、俺は目を見開く。ルーン文字のような直線的な文字に、無数の記号や図形を組み合わせた、文章と数式の中間のような羅列。知らない言語。そして、俺にはそこに書かれていることを理解できた。
「はは、これが《呪文の王》か」
まるで最初から知っていたみたいに、俺にはその記号の羅列が理解できた。いや、今また理解させられた、と言うべきだろうか。
呪文言語。呪文を記述するために用いられたこの言語によって、呪文は形作られる。
眼前に広がる模様。それが俺に教えてくれる。この世界における声の意味を、この世界における音の意味を、この世界における伝達の意味を、そしてそれらを操る無数の言葉たちを。
「《我が声、我が意図、指示し紡がれた聞き手、微風の乙女の名の下に、伝令せよ》」
呪文を唱えて、岩陰から乗り出してドロシーを指差す。こちらに気づいたドロシーが怪訝な表情をしつつも、ワイバーンの相手をやめない。こちらに来るわけでも、必要以上に注意を払うわけでもない。そこまでの余裕がないのかもしれなかった。
「ドロシー、もう一匹が近づいてきてる」
俺がなるべく小さな声で言うと、ドロシーがぎょっとした顔で再びこちらを向いた。そこにワイバーンの体当たりが入って、土煙が舞う。大丈夫か……? そう思っているとドロシーは俺の目の前に唐突に現れた。
移動が早い。走ってきたのか、あるいは飛んできたのかもしれない。
「ちょっと、あんた。今の《囁き声の呪文》でしょ。なんで使えるの? 呪文は使ったことがないんじゃなかった?」
「それ、今はいいじゃん。とりあえず、あっち」
遠くを飛ぶワイバーンの影を指差すと、ドロシーは苦虫をかみつぶしたような表情になった。
「仕方ないわね。だいたい、《屍族の心臓毒》は即死毒なんだから、まだ死んでないのがおかしいのよ……」
「ん? あれ、じゃあ、なんであいつ元気なんだ? あと、《屍族の心臓毒》ってどういう毒?」
「さあね? 《屍族の心臓毒》は、心臓に到達した瞬間に心臓の鼓動を止めるっていう魔法の毒。ワイバーンみたいな強い生物ほど心臓は強いし血液の流れも早いから、よく効くと思ったんだけどね。なにかの魔法器官があるって聞いてはいたけど、それが毒を阻害してるのかも」
「なるほど?」
ドロシーを見失ってきょろきょろと辺りを見回していたワイバーンは、岩陰から顔を出していた俺を見つけて方向転換し、こちらに向かってきた。岩ごと体当たりで破壊する気だろうか。できそうなのが恐ろしい。
ワイバーンの下あごの辺りを凝視する。白いウィンドウが現れて、ワイバーンの魔法器官について俺に教えてくれる。魔法器官。生物が持つ呪文を使うための構造体。生物による魔法陣のようなものだ。
血液の循環とそれらを制御する魔法器官。小さき輪廻を使った死の要因を遠ざける、半不死の呪文。その器官が、短剣が刺さってる部分の血の循環を止めている。だから毒は心臓に到達しないのか。
なら、それを上書きすれば良い。必要なのは一瞬。
「《我が立つ場、我が或る域、我が相対する彼の者、小さき輪廻の指は届かず、踊る明滅の声は尊ぶ》」
「呪文……? そんな呪文、聞いたことない」
驚くドロシーを無視して、俺はワイバーンを意識する。
迫り来るワイバーンが、力を失って突然地面に落ちる。突進していた勢いのまま地面を引きずって、転がりながら俺の目の前で止まった。翼膜はぼろぼろで、翼の骨は折れているのがわかる。土塗れで、俺が感じた生命の存在感は美しさはもう残っていなかった。
魔法器官が効果を失った瞬間、《屍族の心臓毒》が心臓に届き、そしてワイバーンは死んだ。俺が唱えたのは、一瞬だけワイバーンの魔法器官を止めるという、ただそれだけの呪文だ。