001 呪文の王
落ちた先は銀河だった。
「へ? え、ええええええ!?」
真っ黒に塗りつぶされた空間の中に塵のような輝きをバラまいたような光景。その空間を、俺は真っ直ぐに落ちていた。宇宙だ。そう思ったけれど、だとしたら俺の息が続くはずもない。落ちているのに空気抵抗は感じないけれど、代わりに息苦しいわけでもない。空気で満たされている訳でも真空でもない空間なのだとわかるけれど、それが何を意味するのかまでは理解できない。というより知識にない。
銀河は無数に、俺の視界の下から上へ、落ちる先から空へ、流れていく。
「こ、これはなんだ? なんで? どこから落ちた? CG!? 必要以上にハイテクなドッキリ!?」
家出したはずだった。
父親にも母親にも堪え兼ねて一人暮らしの姉を頼ることもなく、自分の力で生活しようと思って家を出た。財産と呼べるものはバイトでなんとか支払いを続けていたスマートフォンと、それから財布と護身用の特殊警棒だけ。高校の教科書なんかは全部綾瀬の家に置いてもらってるし、荷物をたくさん持って家を出ると親父に怪しまれる。コンビニに出かける風を装って玄関を出てそのまま家出するつもりだったから、鞄もなにも持っていない。
親父はリビングで酒を飲んで騒いでいて、母さんは親父にされるがままだ。あの人たちはある意味あれで良いんだろうけど、俺はこの家にいる必要もないし、居たくもない。だから家を出る。それだけのつもりだった。
なのに、今俺は銀河の海を落ちている。
「お、落ち着け、俺。落ち着くんだ。クールになれ。大丈夫、まだ慌てる時間じゃない」
そうだ、冷静になれ。これは夢だ。いや、玄関を出た瞬間に何かの予兆を感じていた父親に殴り倒されて、俺は生死の境を彷徨っているのかもしれない。また病院送りだ。だとすると、これが夢だとすると——
「夢、なら、まあいいか」
夢だとしたら悪くない。眼前に広がる光景は美しく、まるで宇宙にいるみたいだ。そう思って改めて周囲を観察する。赤い銀河、青い銀河、金色の銀河。さまざまな色に光る星のような粒は、どうやら惑星というわけではないらしい。すいすいと泳ぐように空に登っていく。本当に小さな光の粒が、この空間に散らばっているみたいだ。
「どう、この場所は。気に入った?」
「ん?」
声のした方を振り向くと、俺の隣を逆さまに落ちている子供がいた。十歳くらいの。男の子……に見える服装だけど、ボーイッシュな女の子にも見える。美形だけど、日本人離れもしていない。なんというか、曖昧な印象だった。
「お前、誰?」
「僕? いやー、誰って聞かれても困るんだよね。答るのが難しくてね。頑張って答えようとしても、説明が長くなっちゃうんだよ」
困ったように笑う子供。
「まあ僕のことはおいといてさ、とりあえず、今ここにある君という魂は、その魂が持つ情報の由来となった世界とは異なる場所にいってしまうことになっているんだよね」
「あ? いや、ちょっと言い回しが難しすぎるんだけど。噛み砕いて説明しろよ」
情報の由来になった世界ってなんだ。魂の情報? そっちもわかんね。何こいつ。電波?
「失礼なことを考えたね」
「心を読むな!」
「この場では、考えることと話すことは似ているんだよ。致命的に異なってもいるけれど、だいたいの意思は伝わるからね」
電波だ。こいつは電波。百パーセント危ない人だ! 関わっちゃいけないたぐいの人だ! 夢なら覚めろ!
「……いろいろツッコミたいところだけど、話を進めるよ?」
「いや、もうお腹いっぱいだから?」
「君の都合は知らないね」
にべもない。
「で、まあ先ほどの要望通り噛み砕いて説明するのならば、君の主観において、君は要するに異世界に召喚されることになる」
「あー、あれか。ファンタジーでよくあるやつ。ラノベとかで」
「そうそう、そういうの。情報量が妥当だったから君になったんだけどさ、まあ、僕の趣味みたいなものだし。それにほら、君って家出するところだったんだろ?」
にこにこと笑いながら俺の境遇を言い当てた子供に、そら寒いものを覚える。何でこいつ、俺のこと知ってんだ? いや、そもそもこいつが俺を異世界に召喚したなら、俺の境遇を知ってても別に良いのか?
「受け入れる必要はないよ。どこかの段階で君は現実を現実だと確信するだろうし」
「……ま、なんというか幸先のいい夢だね」
「ん? 幸先が良いって、なんのことだい?」
首を傾げる子供に、俺は笑ってみせる。そして、夢の中だからと思って、思ったことを口に出す。
「いや、要するに家出する先が異世界ってことだろ? だったらもう、絶対に親父とも母さんとも会わないからな。未練がないワケじゃないけど、それでも面白そうじゃん?」
綾乃や良太に会えないのは、まあ、悲しいか。寂しいな。うん。想像しただけで。でも、俺はそれを口には出さない。どうせ夢の中だし、強がって良いだろ。
「ポジティヴだね!」
子供は笑う。
「前向きにならなければ生きて来れなかった人間だからな」
「ネガティヴだね!」
またも子供は笑う。俺もつられて笑う。銀河の海に落ちながら、俺と子供は笑った。ひとしきり笑い終えたところで、子供が切り出す。
「じゃあ、そろそろ時間だ。どうしても説明しておかないといけないことがある」
「ん? なんだよ。夢から覚める前に聞いてやるぜ」
「君の魂には《呪文の王》の権能を持たせてある。これはまあ、君に取っての生きる手段だと思ってくれたまえ?」
「おー、あれか、召喚チートってやつか」
俺は子供の言うことを正しく理解する。そういう小説を何度か読んだことがある。異世界に召喚されるとき、主人公は途方もない力を得る。異世界の側の召喚者は、その召喚された人間の途方もない力を求めて召喚術をつかったりするわけだ。そういう種類の何か、ってことだろう。
「正しい認識だね。世界をゲームに例えるなら、一人だけ攻略本を読めるようなものだから」
「そりゃあいいな。もう無双ゲーになるんじゃねえの? 何、行き先は呪文のある、ファンタジーな世界だったりするわけ? そしたらおれ、チート使って億万長者にでも王様にでもなれるじゃん!」
「問題ないでしょ。君は財宝も権力も求めないような魂だ」
見透かすような透明な瞳が、まっすぐに俺を見る。俺もだまってその瞳を見返す。まるで俺の深層心理を言い当てられたような錯覚に陥ってしまう。けれど、その感覚の正体をつかみきる前に、——時間切れだ。
光が、俺を包んだ。目を合わせていたはずの子供は、もういない。眩しくて思わず目を瞑る。
「お、おおおおおおお!?」
思わす叫び声を上げて、そこで一度、俺の意識は真っ白になった。