隣の不思議喫茶店の店主様
彼女はその日も、住宅街のはずれにひっそりと存在する喫茶店へと足を踏み入れた。
ラストオーダーは勤め人にはうれしい25時。
閉店時間は26時。
ケーキや焼き菓子はもちろん、軽い食事もでき、飲み物は店主手作りのフレッシュジュースから酒までそろっている、かゆいところに手が届くような店。
女性に人気が出そうなものであるが、彼女はあまり女性客と出会ったことが無かった。
というよりも、あまり人間を見かけることが無い店なのである。
彼女が23時過ぎに店内に入ると、今日も人間は誰一人としていなかった。
カウンターの中にいたのは、やわらかい笑みを浮かべた男 ――― 店主一人のみ。
店主はいつもどおりにシンプルなシャツを肘まで捲くり上げ、濃い紺色のエプロンを身に着けている。
前髪が邪魔になったのだろうか、栗色の髪を黒の細いヘアバンドでまとめて後ろに流している。
アルバイトがつい最近やめてしまったと店主が嘆いていたのを彼女は思い出したが、まあ、それほど忙しいところも見たことが無いし、問題ないのだろうな、と、一人納得してカウンター席に腰掛けた。
「やあ、いらっしゃい、アコさん。今日も遅かったようですね」
「こんにちは。そうなんですよ。突然支社から施策の変更のメールが入って。しかも明日から変更って! ええと、紅茶とケーキを……今日のおすすめで。それと、ホットサンドください」
「それで残業ですか。お疲れ様です。夕食も食べていないでしょうに、先にデザートから注文するんですね」
「疲れたときには甘いものが食べたいんです」
「たいていの女性はそうおっしゃいますね。あまりものでよければサラダもお出しできますが、どうですか?」
「いただきます。食物繊維、食物繊維!」
「すぐお出ししますね」
店内にはオルゴールのBGMが静かに流れている。
照明はやわらかいオレンジ色で光量自体は多くなく、全体的に薄暗い。
ほとんどの調度品が、長年丁寧に使われてきたかのように濃い飴色をした木製のものでそろえられている。輸入家具の見た目でありながら、日本人として長年過ごしている彼女にもどこか懐かしさを感じさせてくれる暖かい雰囲気がある。
過剰な装飾などは無く、品のよい内装でまとめられた店内は店主の雰囲気そのままであった。
彼女から見て、店主はさほど『美男子』であるとか、『イケメン』であるとか、そういうカテゴリに分類される男性ではなかった。
とはいえ、親類縁者に『イケメン男子』や『美女』とカテゴライズされるような人物が数人居たため、目が肥えてしまっていると自負もある彼女から見て、というだけである。
店主の実年齢を聞いたことは無いながらも実は結構な年齢であるはず、と当たりをつけている彼女は、しかし見た目30程度にしか見えない若作り(仮)の店主を、そこそこモテる容姿と評している。
なによりも、昨今では珍しい、品を感じさせる所作があるのである。
なよなよとしているわけではない。
むしろ、きびきびとした所作である中に、余裕を感じさせる格がある。
彼女は、そんな珍しささえ感じる店主を好ましく思い、カウンター席でその姿を眺めるひと時を気に入っていた。
恋愛感情があるわけではない。
そんなものがあったとするなら、彼女はカウンター席を選ぼうとはしない。
彼女は奥手な女性なのである。
遅い時間だというのに、彼女が食べているサラダの野菜はシャクシャクとみずみずしい歯ごたえを伝えている。
続いて出されたホットサンドも、さく、と歯を立てたそばからトロリと熱いチーズが零れ落ちる。
彼女は、ああ、もったいない、とつぶやきながら皿に落ちたチーズを指でつまんで口の中へと放り込む。
この、何の種類なのかすら彼女にはわからないおいしいチーズが固まらないうちに、と、一心不乱にホットサンドを頬張る。そうして、満たされていく胃袋が幸せだと実感しながら、彼女は知らずに肩の力を抜いていく。
そんな彼女をカウンターの中から見つめる店主も、幸せそうに目を細めて笑う。
店主は、こうして自分の店の中で幸せな気分になってくれる者のために、いろいろと試行錯誤することを何よりも幸せだと感じているのだ。
まさしく、需要と供給のバランスが見事にとられている店である。
そのとき、そんなほのぼのとした空気を壊すように、店内のBGMを打ち消す大音量の声が響き渡った。
声、というよりも、吠え声といった方が適当かもしれない。
人というよりは獣、それも大型の獣の吠え声のようだった。
『おおい、店主! その人間のお嬢ちゃんにばかりかまってないで、こっちに酒ー!』
アコ、と、自分の名を呼ばれて顔を上げた彼女は、険しい表情の店主を仰いでから、店の奥へと視線を転じた。
この店に通ってから少しだけ覚えた異国の言葉。
『うるさいですよ。アコさんがびっくりするような声を上げないでください』
店主が険しい表情を浮かべ、庭へと向かってたしなめる為の異国の言葉を口にする。
庭の声が「酒」といっていたのを聞き取った彼女は、好奇心で瞳を輝かせて店主を振り仰いで言った。
「今、お酒って言ってましたよね?」
「ええ、よく聞き取れましたね。酔いで呂律が回っていませんでしたのに」
「最近、簡単な会話なら聞き取れるようになったんですよー! この声は、ムギさんですよね」
「ええ、そうです。お仲間を連れてきて酒宴をするんだと張り切っていて……酒場ではないんですけれどね」
「でも、ここのご飯はおいしいし、店主さんの選んだお酒はどれもおいしいから、きっと他の人に自慢したかったんだと思いますよ」
「ほめていただいてうれしいのですが……もろ手を挙げて喜べる内容ではないですしね……」
ため息をつく店主を彼女は笑った。
そして、店の奥、今は夜風が冷えるからと閉じられた、大きなガラスのアコーディオン型の扉の先、中庭に続くテラスへと視線を転じる。
テラスの先には住宅街の面影も無い、篝火が焚かれた古城の庭園の風景が広がっていた。
おおよそ、住宅街に存在するとは思えない、遺跡の中にあるかのような庭園。
手入れはされているものの、石壁がところどころ崩れかけた、どう見ても築何百年と言っていいだろう東屋。
そこに、大きな大きな黒い影と、小さな角を生やした影がいくつか、さらに、小さな蛍のような光がいくつも踊っていた。
ああ、なんて楽しそうに踊っているのだろう、と、彼女は思った。
あんなに楽しい酒宴ならば、自分も飛び込んで行きたい、とも思った。
とはいえ、彼女はそれを実行するだけの勇気を持ち合わせてはいなかったので、いつだってガラスの向こうに見える風景を眺めるだけだった。
それを不満に思うこともない。
彼女はただそれだけでも楽しいひと時であった。
「今日のオススメです」
「わー! モンブラン!」
窓の外に広がる、日常ではない風景に気を取られていた彼女に差し出されたケーキは、渋い色合いのモンブラン。
秋の木肌のような色合いのモンブランに、彼女は勢いよく銀色のフォークをつきたてた。
そのままゆっくりと割ると、真っ白なクリームと、ふんわりと柔らかい黄金色のスポンジ、そして、それらがさっくりとした感触のパイ生地の上に乗っているのがわかった。
口に含めば、声も出ないほどの素敵な味わい。
「ずっと食べ続けていたい……」
つい数秒前まで、窓の外に意識が囚われていたことなど忘れてしまった彼女は、即座に訪れた幸せに身を震わせた。
「嬉しいですね。そういっていただけると」
思わずこぼされた呟きを耳聡く拾った店主が、また嬉しそうに笑った。
それを見て、彼女も嬉しくなって笑う。
ふ、と、彼女がモンブランに視線を落とすと、ちかり、と、視界に光が映った。
正体はと言えば、ティーカップに隠れるほどの小ささの男の子であった。
男の子の身体は淡く光っており、その背中には小さく震える蜻蛉のような羽が2対。
そんな彼が、彼女に向かって何かを言っている。
けれど、身体に見合って声がとても小さい。
彼女は、心得た、と言わんばかりに微笑んで見せ、怖がらせないようにゆっくりと耳を近づけた。
男の子は、ぱっと表情を明るくして、彼女の耳に近づこうとカップの後ろから飛び出すと、精一杯伸び上がって彼女の耳に向かって唇を寄せた。
『アコの持っている、花をちょうだい』
『花?』
澄んだ声で紡がれたのは異国の言葉。それを何とか聞き取った彼女は首を傾げた。
花なんて持っていただろうか。
彼女は、男の子を間違えて転ばせてしまわないように、ゆっくりと顔を上げて思案した。
花の形の装飾品も無いし、花を買った覚えもない。
何のことを言われているのかわからず、思わず助けを求めるように店主を振り仰いだ。
すると、店主はじっと彼女を見つめてから、表情を緩めた。
カウンター越しに、失礼、と一言声をかけてから彼女の肩に手を伸ばす。
彼女の肩から店主がさらっていったのは、夜目には白にも見える、薄桃色の桜の花びらだった。
小さな男の子は、ぴょん、と飛び上がってカウンターの上を駆け、店主の前でぴょんぴょんと両手を広げて何度も跳ねた。
「どこかで風に乗って、アコさんについてきたようですね」
「ああ、そういえば、桜がたくさん咲いていた公園を通ってきたんだった。街灯でライトアップされたようになっていて、すごく綺麗な夜桜って感じで……! ええと、他にもあるかな? あ、鞄にもついてる」
彼女は、鞄の隙間にひっそりと忍んでいた桜の花びらを2枚、指先で拾い上げてカウンターの上に置いた。
小さな男の子は、更に飛び上がって、またカウンターの上を駆けた。
そして、花びらをじっと見つめて、彼女を見上げて、また、花びらを見る。
そわそわと落ち着きが無い様子だった。
「アコさん。彼に、花を渡してもいいですか?」
「もちろん。私には使い道がないですから」
「なら、彼に花を渡してあげてください」
渡す、と告げなければ、小さな男の子はその花を受け取れないのだ、と、店主が言う。
ああ、そういうものなんですね、と、理解した彼女は、ゆっくりと、たどたどしく聞こえるだろう言葉をつむいだ。
『これは君のものです。どうぞ、持って行ってください』
その言葉を聴いた途端に、ありがとう! と、小さな男の子は大事そうに花びらを両腕に抱えて飛び上がった。
羽を震わせて、彼女の目の前を横切っていく。
店主が差し出したもう一枚の花びらも空中で危なげなく受け取ると、小さな男の子は光になって中庭の方へと飛び去っていった。
小さな光が中庭に飛び込んだその時、薄紅色の花吹雪が中庭を舞った。
薄紅色の花びらたちが寄り集まって、人の形を作るのが見えた。
見送っていた彼女には、それが着物を着た女性の立ち姿に見えたが、瞬きした次の瞬間にはまた、いつもの中庭に戻っていた。
光も無い。
「なんだか、あちらはいつも楽しそうですよね」
しばし、ぼーっと窓の外を眺めていた彼女が、ぽつり、と、呟く。
いつも、羨望を抱くのは自分の方だ、と、彼女は胸中で付け加えた。いつも、何かを羨ましいと思いこそすれ、羨ましがられるような人生を歩んでは来なかった。そんな後ろ向きな気持ちを押し込め、蓋をする。
「まあ、退屈はしていないようですよ、あちらの方々は」
店主の微苦笑がその複雑な心情を表しているようだった。
普通ならば出会えないような不思議な世界をそっと覗き見する。
それが彼女の近頃の楽しみの一つ。
角の生えた馬が窓の外を走り回っていることも、鬼のような姿の男たちが窓の外で取っ組み合いをしていることも、美しい妖精が窓すれすれの空間を飛び回っていることも、この店では当たり前のことだった。
しかし、それは単なる会社勤めの普通の女である彼女にとっては、全くもって当たり前のことであるはずがなく、しかし、当たり前であるかのように振る舞えるこの店が好きだった。
「私、あちらの方へ行ってみたいって思うこともあるんです。仕事でつらいことがあった時なんかに」
非日常に逃げてしまえば、自分の日常のつらいことをなかったことにしてしまえるだろう。そんな気持ちで、何度思ったか知れない、と、彼女は言う。
しかし、実際に彼女がそうすることはなかった。
それは、店主が一番よく知っている。今もこうしてカウンターに腰かけて、おいしそうにケーキを頬張る彼女がいるのだから。
彼女が実際にそうしてしまっていたなら、それはなんとも味気ない日々になるのではないか、と、店主は誰もいないカウンターを想像して情けなく顔をゆがめた。
彼女は、なんといっても、お金で雇ったアルバイトが逃げ出すような店に足しげく通う稀有な女性なのだ。
だから、店主は言う。
そうしないでいてくれてよかった、と。
「ただ、自分が変わってしまうのが怖いだけだと思うんですけどね。こうして、おいしいものが食べられて、ちょっと不思議なことを見ることができるだけで満足しちゃうような小さい人間なんですよ、私は」
たいそうな人間にもなれず、変わりばえのしない人生を精一杯生きる。勇気をもって何かをしようなんて思えない、小心者なんです、と、いじけるように彼女は言った。
店主は、そんな彼女に笑いかけた。
「でも、あちらの方々は、どうやらアコさんに会うためにこの店に来ているようなんですよね」
向こうからしてみれば、窓のこちら側の方がよほど非日常な世界である。そこで、いつも必死に頑張って生きている生き物を、興味をもって見ているのはあちらも同じ。
全く異なった生き物が、何でもないように、しかし、隠しきれない興味でもって言葉をこっそり覚え、全身で楽しんでいる様を窓越しに見るのが、異形の者たちの娯楽の一つになっていた。
お互いがお互いに、非日常同士。
そうか、そういう考えは無かった、と、彼女は唸った。
言われてみれば、こちらがあちらをめずらしいと思うなら、逆もそうであっておかしくない。
なるほど、と、やがて納得した彼女は、にんまりと笑った。
「そうか、私があちらの方々を楽しませているんだ。ふーん、そっかぁ……」
ふふふふふ、と、低く笑った彼女は、仕事疲れなど吹っ飛んだかのようにご機嫌な様子である。
もっと、何か面白いことをするべきでしょうか? と、店主にキラキラとした目を向ける彼女に、店主は肩をすくめて告げる。
それ、あちらの方々も同じこと言ってましたよ、と。
「負けないように頑張りますね!」
「……ほどほどにお願いしますね、アコさん」
アコはその日も、住宅街のはずれにひっそりと存在する喫茶店へと足を踏み入れた。
ラストオーダーは勤め人にはうれしい25時。
閉店時間は26時。
ケーキや焼き菓子はもちろん、軽い食事もでき、飲み物は店主手作りのフレッシュジュースから酒までそろっている、かゆいところに手が届くような店。
女性に人気が出そうなものであるが、アコはあまり女性客と出会ったことが無かった。
というよりも、あまり人間を見かけることが無い店なのである。
代わりに、人間なのか別のものなのか定かではない店主が優しい微笑み付きで出迎えてくれ、あまつ、妖精や鬼やユニコーンが跋扈する異世界に通じる不思議な喫茶店なのであった。
end
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アコ(人間)
>>会社勤めの女性。
>>ひっそり見つけた喫茶店がお気に入り。
>>異世界の言葉を勉強中。
>>店主さん超いいひと、と思っている。
店主(志波姫 湧)
>>隣の魔剣様の主人公が、やっと帰ってきた数年後の姿。
>>もう、異世界とかおなか一杯。でも、身内の魔剣のせいでいまだにファンタジーから逃れられない。
>>会社勤めを諦めて自営業。
>>アコさん、超癒し系、と思っている。