ドクロとハチとプール
俺はキムラと呼ばれている。
あだ名だ。
ちなみに、俺の本名のどこにもキムラという単語はない。
ゆえに初対面の人物に「木村さん、下の名前はなんと言うのですか?」と聞かれたり、大学の出席を取るときに「木村さん、代弁ですか?」なんて勘違いされたりする。
あだ名がついたのは小学生の時で、理由は俺がとある漫画に出てきたキムラというキャラによく似ていたから。くだらない理由だが、あだ名なんてそんなものだろう。
俺の広くも狭くもない大学の交友関係で、俺の本名がキムラでないと知っている人物はごく僅か、両手で数えられる程度しかいない。あるいは交友関係で結ばれていない人物のほうが、俺の本名を知っているかもしれない。
サークルの後輩であるハチも、知らないうちの一人だった。
「キムラ先輩、知ってました?」
ハチは主語の抜けた会話をするイマドキの女子大生で、理工学系の一年。リスを思わせるクリクリした黒瞳と低い背、肩口まである茶色のポニーテールが特徴。サークルが週に三度借り切っている温水プールに浮き輪を持って入る豪胆な女で、今日もスクール水着によく似た黒いワンピースの水着に包まれた肢体を、花柄の浮き輪にすっぽりと収めている。
あだ名の由来は、スズメバチを素手で掴んで瞬時に羽を毟るという特技から。
俺は彼女の本名を知らない。
お互い様だ。
「何を?」
「うちのサークル、たまに紛れ込んでるらしいですよ」
水泳サークル、兎泳会。
半分は競泳目的で、半分は遊泳目的。夏になればサークルメンバーをかき集めて海に行ったり川に行ったり、冬になれば寒中水泳をしてみたり、過去には有志で金を出し合ってフロリダまで海水浴に行ったりもしたそうだ。
波が俺の体を揺らした。
俺とハチがぷかぷかと浮いている隣で、何十往復もしている男が立てた波だ。
俺はそちらを見ず、ハチとの会話を続ける。
「紛れ込んでるって、何が?」
「付属の高校生」
「ああ……それなら知ってる」
俺たちの場所の隣のレーンで泳いでいる男は、ドクロと呼ばれている。
あだ名の由来は本名から。宍戸九朗、シシドクロウ、ドクロウ、ドクロ。安直だ。
こいつはただひたすら泳ぐことに快感を覚える変態で、寝る時間を含まなければ陸上にいる時間より水中にいる時間の方が長いと豪語している。豪語するだけあって陸上でのスポーツは苦手で、水泳では十キロ泳ぎ続けてもケロっとしているくせに、ランニングは一キロでバテる。もしかすると本当はエラ呼吸なのかもしれない。
水泳好きにはこういった水棲系生物がごく稀に存在する。
「でも今に限ったことじゃないよ。俺が高校ん時からやってたことだ」
「悪しき伝統ってやつですね」
「悪くないさ。付属の高校生は五十メートルプールにタダで入れてマル。居心地がよければこの大学に入学してそのままサークルに入り、サークルとしてはマル、あわせて二重マル。ハナマルまでもう少しだ」
「そっかなー?」
ザブザブとドクロが波を立てて通り過ぎ、波によって浮き輪が回転し、俺に背を向けてしまったハチは手をぱちゃぱちゃさせて振り返り、ドクロを見て一言。
「何週目?」
俺はそれに答える。
「まだ五十二、あと八往復で一息入れるんじゃない?」
「よく泳ぐよね。あいつ。真面目だし、気に食わないんじゃないかな?」
主語の抜けた言葉に対し、俺は的確な判断で疑問文を挟む。
「部外者が泳ぐのが?」
「うん」
「聞いてみる?」
そう利くと、ハチは首を振った。
「まだ泳いでますよ? 泳ぎ終わっても、またすぐ泳ぐし」
「大丈夫大丈夫、あいつがインハイいけなかったのって、他人にペース乱されるのが苦手だから……見てな」
そう言って俺は泳ぎ始めた。俺はドクロほど水棲生物してないが、高校時代に水泳部だったという事もあり、泳ぎにはそれなりに自信がある。
ゆっくりと泳いでいたドクロに追いつき、追い抜く。やや前に位置した状態で速度をあわせる。本来このままの速度で泳げばペースメーカーとなるが、端にたどり着き、ターンすると同時に少しだけペースを上げる。俺に引っ張られるようにしてドクロの速度も上がる。それをターンするたびに繰り返し、ドクロにとっての六十往復目、最終的な速度は結構なペースになっていた。
ペースを乱されつつも三キロを泳ぎ終えたドクロは吐きそうなぐらい青い顔で肩を揺らしていた。
「ぜっ、ぜあ……キムラせんぱ……はっ、はっ……」
「悪い悪い、ちょっとハチちゃんがお前に聞きたいことあるんだってさ」
「はぁ……はい……ハチちゃんって、はぁ、語呂わるいですね……ハッちゃんで、いいんじゃないですか……」
それから、ドクロはたっぷり一分ほどで息を整えて、潜水した。
十秒ほど後、端の方にいるハチの浮き輪がひっくり返った。
「キャァアがぼぼ!」
唐突にひっくり返され、悲鳴を上げつつ水にスケキヨのようになったハチ。
その彼女に、ドクロがうれしそうに笑いながら襲い掛かり、水中に引きずり込む。
「うえへへへははガボガボ……!」
二人が水中に沈み、水面は二人が吐き出した気泡でぼこぼこと波打つ。
やがて、ドクロがブリッジ状態で水上に上がってきた。
アルゼンチンバックブリーカー。
キン肉マンのごとく情けない表情で技を掛けられているのがドクロで、ロ○ンマスクのごとき勇猛な表情で技を掛けているのがハチだ。
有名な技を掛けられドクロは虫の息。いや技の苦痛以上に、ハチの背が低いせいで顔だけ水中に取り残されたまま。仰向けなのだ。鼻から容赦なく塩素臭のする水が流れこんでいるだろう。見ているだけで鼻の奥がツンとした。
たっぷり数秒。ハチに投げ捨てられた時、ドクロは半泣きになっていた。別にいじめられて泣いたわけではない、プールの水が鼻の奥に入ると自然と涙が溢れるのだ。
ドクロをにらみつけて、ハチが自分の胸をかき抱くようなポーズをとり、一言。
「セクハラ」
すると、ドクロはフンと鼻を鳴らした。
「自分、泳げるくせに浮き輪使うやつが許せないんスよ」
「なんでよ?」
不思議そうに聞くハチに、ドクロは語り始める。
「遥か昔、幼少のみぎり、家族でプールにいく事になったんすが、自分は当時、まだ水に浮くことすら出来ない陸上生物。当然ながら浮き輪を必要とする年齢でした。しかしながら、貧乏であった宍戸家には浮き輪は一つしか存在しなかったんすよ。対して宍戸家は自分を含めて五人兄弟、上に三人、下に一人、上の連中は誰もが泳ぎ達者だったんすが、小さい頃って、例え使わなくてもアソビのドーグを手放しませんからね、必然的に自分のような弱い立場の人間は浮き輪を使えなかったんすよ。あとはまぁ、話のスジから分かると思うんすけど、その時誓ったんすよ、泳げるくせに浮き輪を使うやつを許さないって。それからというもの自分は……」
それは長い、屈辱の歴史であった……。
ドクロが語り終わった頃、プールサイドに腰掛けた俺とハチはとある教授の悪口に熱中していた。
「スーガーの実技、マジありえなくないっすか!?」
「須加教授の実技は嫌がらせみたいなものだからね、筆記は筆記で関係ない部分ばっかり出てくるし。俺も苦労したよ」
「てゆーか! キムラ先輩、授業とってたんですか? コピってくださいよ」
「ノート? いいよ、一ページ百円ね」
「サークルのよしみ!」
「良美さんなんてウチのサークルにいたっけ?」
ドクロはむっとした顔でこっちに近づいてくると、手を祈るように組み合わせて水鉄砲を作り、ハチの顔に噴射した。
ハチは「わぶっ」と情けない声をあげると、顔をぬぐってドクロをにらみつけた。
「なにすんの!」
「話あったんじゃないんすか?」
おおそうだったとばかりにハチの顔が明るくなった。
「そうそう、ドクロさ、高校生気に食わなくない?」
「は?」
首をかしげたドクロに対し、俺は通訳に入った。
「このプールを部外者が使ってるのが気に食わないんじゃないかって」
すると、ドクロはドキッとした顔になった。
「え! い、いや、別にいいんじゃないっすか? 部外者のせいで込み合って使えないとかならまだしも、ガラガラですし。自分が言える立場じゃないっすけど」
「えー?」
ハチは不満げな声を上げた。
ま、ドクロの立場なら、そう言うしかないだろう。
ハチはどうやら知らないようだが、俺は知っている。
実は彼、インターハイを間近に控えた水泳部。現役の高校三年生なのだ。
自分を批難することはできまい。
ま、ドクロの性格を考えるに、大学に入って一年もすれば今と間逆のセリフを言っているだろうけど。いや、大学生になって精神が成長すればその程度のことを許容する余裕も生まれてくるだろうか。
「ドクロなら反対すると思ったのにー」
さて、ハチは高校生排斥派だが、これにはワケがある。
彼女は一度、いつものように浮き輪でプールのど真ん中にプカプカ浮いている所、高校生に邪魔もの扱いされて追い出されたことがある。その高校生たちは特に水泳が目的だったわけでもなく、人づてに、大学のプールは誰でも自由に利用できるらしいと聞き、勘違いして遊びにきた連中だ。
俺はその現場に居合わせていないが、べそをかきながらプールから出てきたハチを目撃したドクロが肩を怒らせてプールに乱入し、高校生たちをたたき出したのだという。
「ここは自分ちじゃないっすからね。昔っからのローカルルールが決まってるんなら、なるたけそれに従いたいと思います」
「ローカルルールを作っていくのはあたしたちでしょ! 他の人なんてたまにしか見ないしさ!」
ハチは足で水面をばちゃばちゃ蹴って抗議する。
水しぶきがドクロの顔に掛かるが、ドクロは目を細めただけで怒ったりはしない。
「たしかに自分ら以外のサークルの人は、たまにしか見ませんけどね」
ドクロの言葉には少しばかり語弊がある。
ハチと俺とドクロは用事が無ければ週三回、必ずこのプールにやってくる。ドクロはマグロのように黙々と何キロも泳ぐし、ハチは閉館される時間までぷかぷか浮いている。俺は日によってハチとダベったり、ドクロのペースメーカーをしたり。
それ以外の参加者はまちまちだが、サークルに名を連ねている者なら月に一度はほぼ顔を出している。会長ですら週に一度しかいないので、ハチやドクロがが「他の人はたまにしかこない」と言ってしまうのも、しょうがない。
無論、ハチやドクロが入り浸りすぎなだけなのだが。
ちなみに、ドクロは「自分ら以外」なんて言っていたが、高校生であるため、まだ正式なサークル員ではない。
と、そんなドクロが会話の流れを無視し、口を開く。
「そういえば、話は変わるっすけど、キムラ先輩が来たぐらいから泳いでるあの人って誰なんすか? 見た事ないすけど。サークルの人すか?」
ドクロの視線の先に目をやれば、そこには不恰好なフォームで泳ぐ女の姿があった。
彼女は五十メートルをなんとか泳ぎきると、肩で息をついてプールサイドに寄りかかり、たっぷり一分ほどの時間を置いてまた五十メートルを泳ぐ、という行為を繰り返していた。
「さっき泳いでるときにちらっと見たんすけど、あの人ぜんぜん筋肉ついてないんすよね。それなのにあれじゃ、肉離れ起こしますよ?」
俺はそれを見ながら、そっけなく言った。
「いいんだよ、放っておけば」
「知り合い? あ、カノジョですか!?」
と、ハチが興味津々に聞いてくる。
俺は首を振って答える。
「いいや、彼女はアルファケンタウリから宇宙亀を倒すためにやってきた宇宙人だ。ウチに居候してて、俺を含めた家族に自分が昔から家族の一員だって記憶を植えつけてる。設定上は俺の双子の姉ってことになってる」
設定上というより、俺の中でそういうことになった。
電波なことを言う子は、ウチの姉さんじゃありません。
「双子のお姉さんかー」
ハチは、最後の部分だけをうまいこと拾い、比較的事実と正しい認識をしたらしい。
「宇宙と言えば、キムラ先輩、聞きました?」
俺は何かピンと来て、こう聞いた。
「亀か?」
ハチがこくこくと頷く、正解だったらしい。
「星を食べるんですって!」
空に浮いた亀。
それは世界中を恐怖のどんぞこに叩き落した。
九十年代末期には空から大魔王が降ってくる、なんて話もあり、どこそこでは前世の記憶を持つ光の戦士たちが集まったりなんかもしてたりしたそうだが、実際に空に現れると人は興奮より、不安を覚えるものらしい。
日本はまだいいが、宗教色の強い国では暴動も起こっている。
「こないだ聞いたよ。なんでそんな説がでてんの?」
「あたしらが生まれたくらいに消えたんですって」
主語のない言葉。なれたものだ。俺はあせることなく会話を続ける。
「何が消えたって?」
「ピーコック。って、知りません」
少し思い出した。
二十年前、イギリスの学生が最初に発見した。
否、正確には発見できなかった、というべきか。
くじゃく座のアルファ星『ピーコック』が本来あるべき所からこつぜんと姿を消してしまった。世界の天文学者は騒然とし、日本でもニュースになったらしい。
生まれたときから無いものに関してのニュースなんて覚えるも何も無いが、高校時代に水泳部の合宿で顧問が夜空を見上げ、ピーコックがどうのと言っていたのは覚えている。
ドクロも何か思い出したらしい。
「あ、それ聞いた事あるっすよ。ピーコックだけじゃなくて、なんか専門家でしかわかんないぐらいの星も何個か消えてて、消えた順番に軌跡を延ばしてみると、今度は太陽なんじゃないかって言われてるヤツっすよね」
俺はその言葉で、姉の言葉があながち妄想でもないのだなと関心し、姉の方を見た。
体力をつけるために必要なのは水泳がいいらしいからプールに連れて行け、と今朝になって唐突に言い出した姉は、インターバルの途中だった。
目が合った。
姉はだるそうにプールサイドに手をかけ、お世辞にも優雅とはいえない緩慢な動作で、ズルズルとプールサイドへ這い上がる。そして水を滴らせながらぺたぺたとこちらに歩いてきた。
「わ、わ、こっち来ますよ、先輩のお姉さん」
ハチが慌てているとも、はしゃいでいるとも取れる口調で俺のひじをつんつん突く。
姉が身に纏うのは濃紺のスクール水着だ。
名札がついていないので中学校の時のものではない。ネットで買っておいたものだろう。買った目的は知らないし知りたくもないが。
姉はプールサイドに座る俺の背中にべたりと抱きついた。
今まで運動していた人間とは思えないほど冷たい。
「兄さんの背中、あったかいナリ」
「姉さん、早く上がってそこの自販機でコーンポタージュでも飲んだほうがいいよ」
倒れるから。
「うん、だるいからもう終わる。次は?」
「二日後。でも多分筋肉痛で動けないだろうから、泳がない」
「泳がないでいいの?」
「泳がないほうがいいの」
「ふぅん……言われたとおりに適当に疲れるまで泳いだけど、あれでよかったの? もっと色々あるんじゃないの? ナントカナンメートルナンセットとか」
バタ足一〇〇メートル五セットとか。
「姉さんは五年も身体動かしてなかったんだから、最初にそんなのやっても意味ないよ。まずは限界まで動かして体に『明日から動く』ってことを教えないと」
「兄さんがそういうなら、そなんだろねー」
姉さんとそんな会話をしていると、ハチが俺の太ももをぺちぺちと叩いた。
「プレイですか!」
俺はその言葉の意味を一瞬考え、答える。
「プレイじゃないよ。これ俺の双子の姉さん」
姉がぺこりと頭を下げた。もしスイミングキャップをつけていなければ呪いのビデオに出てくる井戸の人になってしまったことだろう。
「どもども、双子の姉です。いつも双子の兄がお世話になっております」
個人サイトの掲示板のようなノリで、姉がにこやかに挨拶をする。五年も引きこもっていたとは思えないコミニュケーション能力だ。
「やっ、うちら、後輩なんで」
「あら、兄がお世話している方でしたか、そちらのマッチョさんは?」
ドクロはマッチョといわれて、慌ててラットスプレッド。
背筋を強調させる有名なポージングのまま、ググッと水中から浮き上がってくる。臍が見えるまで。流石水泳バカだ。足の水力だけで体をここまで持ち上げる事ができるとは恐れ入る。俺にはできない。
水泳バカであるドクロの広背筋と僧帽筋、大胸筋は以上なまでに発達しており、プールの端に、三次元的立体感を持つ綺麗な逆三角形の花が咲く。
「宍戸九朗っす! 二年前からキムラ先輩の後輩っす! ちょりっす!」
俺はそれに補足説明を加える。
「アレはドクロ。甘い青春汁を垂れ流して可憐な蝶を捕食する一輪のマッスルフラワー。暑苦しいのが移っちゃうから近寄っちゃダメ」
「わあ、近寄らないでくださいね」
「そりゃないっすよ、せんぱ~い!」
にっこり笑って拒絶され意気消沈したドクロはポージングしたままプールの底へと沈んでいった。暑苦しいものが顔だけになる。
「ところでキムラ先輩、自分はもう二年も先輩の後輩をしていますけれど、先輩が双子だったとは知りませんでした」
「世の中には知らないほうがいいことがあるんだ」
ちょうどその時、ウーウーというサイレンが遠くから聞こえてくる。
「ほらね、存在を知ったきみらを警察が黙っちゃいない」
「先輩、あれ消防車のサイレンですよ」
と、ふと背中から冷たい感触が消えた。
姉が立ち上がっていた。
「兄さん楽しそうだから先帰るね」
「了解。でも帰る前にちゃんとストレッチ」
「はーい」
姉は素直に頷いてその場にペタンと座り込んでストレッチを始めた。
ストレッチのやり方はプールに入る前にしっかりと教えておいた、問題はないだろう。
「で、そのピーコックのことなんだけど……」
話を戻そうとして、ふと正面にいるドクロの視線がある一点に注がれている事に気づいた。俺とハチの間、その奥。
ハチも気付いたらしい。
俺たちは背後を振り向くと、姉が股割ストレッチをしていた。
「えっち!」
ハチがドロップキックを放った。ドクロめがけて。
水しぶきが飛ぶ。暴れまわる二人。
ドクロは悪くない。いい年した高校生なら、目の前にそんな光景があれば、誰だって視界の右上に赤字で『●REC』という文字が出る。悪くない。俺だって昔はそうだった。
「二人とも若いなぁ……」
俺もそう年は違わないが、年上の義務感としてそう言って、二人を眺める。
そうこうしているうちに元凶である姉は、ストレッチを終えてスタスタとシャワールームの方へと歩き去っていった。
それを確認してから振り返ると、ドクロがカナディアンバックブリーカーを仕掛けられていた。世界三大バックブリーカーの一つ。パワーファイター向けの技。非力なハチに一騎当千の力を与えてくれるのは、超人強度ではなく浮力だ。
もちろん、ドクロはわざとやられているのだが。
ドクロの高校は共学だが、ドクロのクラスは男子クラスだ。水泳部は女子部と完全に隔離されていて、マネージャーも男。単純に女の子との接触が嬉しい年頃。
ハチの言う通り、エッチな悪ガキなのだ、ドクロは。
スキンシップと称して水着の女の子の体に接触したいエロガキ。それがドクロだ。
ドクロをプール底に沈めると、ハチはプールサイドに上がってきた。
「あれ? お姉さん、もう帰ったんですか?」
「うん」
すると、ハチははぁとため息をついた。
「薄情ですねー」
「俺が? 姉さんが?」
「どっちもですよ」
「肉親の情なんて人それぞれだろ?」
「あたし兄弟いないんで、そういうの、よくわかりませんけど……」
「歳を取るにつれてそっけなくなるんだよ。家の外でまで一緒にいなくてもいいってね」
ハチは脇に置いてあった浮き輪を膝の上に置き、うーんと唸った。
「よく聞く理屈ですけど、でもキムラ先輩のは演技くさい」
「そうかもな」
「そうかもなって、嫌いなんですか?」
「いやー、別に嫌いってわけでもないんだけど、ちょっとウチの事情で何年も会ってなくて、最近再開したもんだから、なんか距離感がつかめなくてさ」
本当のところを言うと、俺の中でまだ五年前の『告白』が再生される時もあり、ゆえに仲良くしすぎると一線を越えてしまう可能性もあるのでは、と危惧している。
正直、姉の顔は好みではない。
ナルシストでもない限り自分と似通った顔を好きになるやつはいない。
でも万が一はありうる。格闘ゲームにおいてゲージが溜まってしまった時に気軽に出せる必殺技があれば出してしまうように、まぁいいやと軽い気持ちでゲージを消費してしまう可能性もなきにしもあらずなのだ。
「小さい頃ってさ、男も女も関係なく遊んでたじゃん。小学校の低学年ぐらいから男は男、女は女でつるみだして、小学校高学年か中学ぐらいで二次性徴始まってお互いにそわそわしだして、高校ぐらいにかけて子供時代とは別物と化した異性との邂逅を果たして、大学で合コンとかして、三十前後で結婚したりして。そういう流れの無いヤツもいるんだろうけど」
唐突にそんな話をしだした俺に、ハチは合わせてくれた。
「ドクロとか、なさそうですよね、ずっと泳いでそう」
ふと見れば、ドクロはまた五十メートルの横断作業に戻っていた。総泳距離で地球を一周してやると豪語するだけのことはある。赤道周りの距離が約四万キロだから、毎日十キロ泳いだとしても十年以上かかるが、ドクロなら出来そうだ。
あれで本人が上がり症でなかったら、インハイでもかなりいい線行ったのだろうが、残念ながら県大会ベスト4で盛大なフライングをかまして失格。高校の同級生の中では早漏の汚名を被っていると風の噂で聞き及んだ。
早漏か……高校卒業するまでドクロに彼女はできまい。
「高校時代に、女家族という位置の人物が恋愛の対象から外れていくものであるはずなんだけど、俺らはその時期がスッポリ抜けててさ。なんつーか、中学時代の特にすきでもなかった女友達と大学で再会した感じに似てるね。ちょっとした仕種にドキっとするっていうか……」
「でも、好きって人は結構いるみたいですよ」
「好きって実の姉妹が?」
「うん」
「や、や、たぶんそういうヤツラは実在する兄妹・姉弟の一割未満だよ。家族愛以外でのアレなアレだと、その一割の中のさらに一割ぐらいで、理性のブレーキがハイドロプレーニング現象でズルズルいっちゃったりしたのは、更に一割ぐらい、だと思う」
で、世間にばれちゃったのはそれのさらに一割。一万組に一組。
俺の説でも結構多いな。
「あたしは、別にいいと思いますけど」
ハチは浮き輪をプールに浮かべ、その上に滑らせるように腰を下ろした。浮き輪の穴に小さなお尻がかぽっと嵌り、いつものくつろぎスタイルへ。
俺もそれに釣られて水に入る。
水の中は落ち着く。
ベッドで寝ているのと似ているが、背中が熱くなったりしないし、変な息苦しさを感じたりもしない。腕がしびれることもない。えら呼吸が出来るなら水の中に住みたい。
海が汚れているとかなんとか言われているけど、地上だって大気は年々汚れていっているし、砂漠化だって進んでいる。温暖化で氷が解けて水かさが増すなら、逆に水の中で暮らせるように進化すればいいのだ。
「本能って、兄妹でしちゃうのが悪いって、決められる前からあったわけですし」
「そうかもしれないけど、今の人の社会で禁忌ってされてるならやっぱりマズイんだよ。後付けルールでも、皆が納得してるのに一人だけ知らん振りして自分勝手してたら、仲間ハズレにされる」
日本に限らず、どこの国でも声のデカイヤツは強い。そんなヤツラが勝手に決めたルールでも、従わなければ弾かれる。
人間社会とは、かくも理不尽。
もちろん、姉さんとどうにかなりたいわけじゃない。法律に文句があるわけでもない。一般論の話。
「でも、そゆの気にしないタイプに見えましたね」
「……誰が?」
「先輩のお姉さん」
ハチが引き締まった素足でちゃぷちゃぷと水を混ぜる。普通、あの格好で浮き輪にハマっていたらひっくり返された亀のごとく何もできず、トイレットペーパーのように水に流されるが、彼女は隣のレーンでマッチョが泳いでいるのに初期位置から動かない。
体重移動と僅かな手足の動きだけで波を無効化しているのだ。
こうした制御は、きっと、宇宙飛行士にでもなったら役立つだろう。
「だって先輩のお姉さん、あたしとドクロのこと眼中になかったですもん」
「………」
「たまにいるんですよね。女の子でも、グループに属さない子。お姉さん、そういうタイプに見えましたよ」
「そうかもね」
そうでなければ、五年間もたった一人で部屋に篭るなどできはしまい。
俺なら発狂するか、もしくは人恋しさを覚えて夜な夜な窓から抜け出してゲームセンターにでも行ってしまうかもしれない。
孤独は辛い。
小さい頃から友達がいなくて一人というならまだしも、一度でも人の輪の中という場所に慣れてしまえば、なおさらに。
「先輩はそうじゃないですよね」
「そうだね。俺は姉さんとそういう関係になるのも嫌なら、それで世間から後ろ指差されるのも嫌だ」
「そうですよね……」
俺は水中に横たえた身体を立てなおし、ハチの方を見た。
彼女はいつものくつろぎポーズのままで天井を見上げていた。
そのままポツリと言う。
「キムラ先輩。好きな人とか、いませんよね?」
「今はね」
「そ、ですか……」
ハチは何かを考えているようだった。
主語をよく抜いてしまう彼女はあまり会話が得意ではなく、高校時代もクラスで浮いた存在だったらしいが、べつに頭が悪いわけではない。よく考えるし、考えればまともな答えを導き出せる普通の子だ。
ただ頭を使うと身体が停止する傾向があり、今回も手足の動きが止まってドクロの作る波によって除々に流されていった。
やがて、彼女はドクロと接触した。
ドクロの泳ぎが止まる。
「どしたんすか? ハチさん」
「ねー、ドクロ。あたしのこと、好き?」
「なな、何を聞くんすかいきなり、あ、罰ゲームっすか? キムラ先輩!」
ドクロはキツイ顔で俺の方をにらんでくるが、俺にもよくわからない。
普通の子と思っていたが、やはりスズメバチを素手で捕まえる女の考えることは、よくわからない。
「………よし」
ハチは身体をエビかザリガニのように折り曲げて浮き輪から抜け出た。水中をくぐり、浮き輪の隣で立ち泳ぎ。
そして、親指で背後にある飛び込み台を指した。
「ドクロ、勝負しよう」
「勝負?」
「うん、一〇〇メートル、フリー一本」
唐突の提案にドクロは目を白黒させていた。ように見えるが、実際はゴーグルをつけていたので目の変化なんてわからない。ただ、長い付き合いだ、混乱していることはわかる。
ハチは浮き輪を持って飛び込み台の下まで戻ると、浮き輪を飛び込み台の上に置き、俺の方を見て、聞いた。
「先輩もやります?」
俺は首を振った。
「俺が参加したら誰が判定出すんだよ」
「あ、それじゃ、それ、お願いします」
俺はプールから上がり、そのまま更衣室まで戻ると、サークルの備品であるストップウォッチと、シリコン製のスイムキャップ、ゴーグル、そして笛を取ってくる。
浮き輪をどかして飛び込み台にどっかり座る。斜め下、隣のレーンにはドクロが困惑顔でゴーグルをはずしてこっちを見ていた。なんともいえない顔だ。
「なんだよ、その顔」
「いや、別に……なに話してたんすか?」
「俺の姉さんの話、だったはずなんだけど」
見れば、ハチが泳いでいた。ウォームアップだろう。
綺麗なフォームだった。
クロールという泳法が開発され、自由形といえばクロールのことを指すようになり数百年。最も速くにはいかなるフォームがよいのかと考え続けられてきた。
俺はその昔、参考のためオリンピックの自由形種目のビデオを見て思ったものだ。
最も速いフォームと、最も美しく見えるフォームは別物なのだと。
俺にはオリンピック選手が全力で泳ぐ時のフォームが美しいものだとは思えなかった。それは俺が競泳を引退した理由の一つだ。コーチに美しいフォーム、正しいフォームと教えられて育ったからこそ、現在最も速いとされている男のフォームを美しいと感じられなかった時、競泳に絶望を感じてしまった。
ハチのフォームは美しかった。
イルカのように美しかった。
もし、俺があのようなフォームで記録を出せていたら、今でもドクロの隣で何キロも泳いでいたことだろう。
ハチはファッションショーのモデルのようにしなやかにターンし、変わらぬ美しい泳ぎで戻って来た。
「ふぅ、ドクロ、準備おっけー?」
「いっすよ。ハチさんこそ、アップそれでいいんすか?」
「いいよ」
ハチは俺からスイムキャップとゴーグルを受け取ると、手馴れた様子でそれを装着した。
慣れているのだろう。泳ぎを見ればわかるというわけではないが、ハチの泳ぎ方は一朝一夕で出来るようになるものではない。毎日のようにフォームをチェックしながら、ひたすら毎日何キロも泳いだ結果だろう。
二人は並んでスタート位置につく。
飛び込み台を使用しないスタート、水の中からのスタートだ。
俺は、二人を飛び込み台の上から見下ろす形になる。
ふとハチが思い出したかのように口を開いた。
「賞品だけど」
「……は? なんすか?」
「負けた方は勝った方のいう事をひとつ、なんでも聞く。で、いい?」
「何を……」
「エッチぃのも、してあげる」
「は? いや、ちょっとまっ……」
「キムラ先輩」
ハチに促され、俺はフエを持ち、片手を挙げた。
「用意!」
長年泳いできた反射ゆえか、ドクロはゴーグルを素早く着用し、手を合わせ、静止する。
俺はハチを見て一瞬、目を疑った。
彼女は背泳ぎのスタートを切ろうとしていた。
それはドクロの目にも映っただろう。
「――ピッ!」
誰もいないプールに涼やかな笛の音が響き渡る。
案の定、ドクロのスタートは遅れた。本番の緊張に弱い男は、こんな些細なことでも気を取られる。
メドレー形式でなければ、自由形とはクロールでなくとも好きなスタイルで泳いでいい種目だが、ドクロには先入観があったのだろう。自由形と言えばクロールだ、という。
それに、今回は水中からのスタートだ。背泳ぎのスタートは頭と肩が完全に水から出ているため、水の抵抗を受けにくい。ドクロの得意種目は自由形だろうが、恐らく水中からのスタートはそれほど練習していない。現に、スタートが遅れたことも相まって、十メートル地点で身体一つ分以上の差が出来ていた。
綺麗なバサロから、水上へ。
奇策を打って、クロールに対して背泳ぎのスタートでアドバンテージを得たとはいえ、俺の見立てでは筋力のあるドクロの方がまだまだ有利だ。毎日十キロ近く泳いでいるドクロは体力もあるし、今回は一〇〇メートルの勝負だ。挽回のチャンスはある。
そう思った直後、俺はまた驚くことになる。
なんと、水上に浮いたハチの身体が裏返ったのだ。
つまり、背泳ぎからクロールへと、一瞬のうちに変化したのだ。
綺麗な変化だった。減速もほとんどない。練習したのだろうか、何のために?
六ビートで息継ぎをするハチを、四ビートのドクロが追う。
一〇〇なら、息継ぎのペースは六ビートの方が理想か。それでも差は詰まっていく。男と女、筋力と瞬発力の差だろう。世界記録の自由形一〇〇メートルでも男子と女子では五秒以上の差がある。女子の世界記録と男子高校生の日本記録を比べてみても、まだ男子の方が二秒以上速い。
絶望的な差だ。
だが、それはあくまでも世界記録。男子の最強と女子の最強の差でしかない。
その遥か下に位置する有象無象であるハチとドクロにとって、さしたる意味のない差でしかなく、スタートが水中から始まった事も、ドクロのスタートが遅れた事も、さらに、ドクロが長距離の選手である事も相まって、勝負の行方はわからない。
五〇メートルの折り返し直前で、ドクロのハチとの差は身体半分まで追いついていた。
このままいけば、八〇メートルあたりで追いつかれるだろう。
ハチがターンする。遠目だったが、完璧なタイミングで行われたターンだった。オリンピックの水泳種目にターンの技術を競う競技があるなら、出場していてもおかしくない。
対するドクロのターンはやや遅れた。
理由は分かった。また動揺だ。
遠目でわからなかったが、おそらくハチは変則的なターンをしていたのだ。水中をバサロ泳法で突っ切り、仰向けの状態で水上へと上がってくる。水上へ上がり、また反転してクロールに戻る。身体一つ分の差に戻っていた。俺にはその変則ターンやバサロで速度や距離を稼げるとは思えなかったが、距離を取り戻したのは事実だ。
勝負はこれでわからない。ドクロはターン直後にペースを速めた。八ビートという、息継ぎを無視するようなスパート。
七五メートル地点で丁度身体半分の差。
残り二五メートル。体力差の出てくるか。ここからが正念場。
ラストスパート。
体力はドクロが圧倒的に上だが、俺はハチが勝つと思った。なにしろドクロは既に四キロ近い運動をこなした後だ。たかだか一〇〇メートルとはいえ、疲れは終盤に重くのしかかってくる。
八〇メートルで異変が起きた。
ドクロが失速し、隣のレーンへと動いた。
俺はそれを一目見るやいなや、即座にキャップをかぶるとプールに飛び込んだ。
ハチが沈んでいた。
足を釣ったのだ。
●● ●
ハチは何も言わず帰っていった。
ドクロはハチの忘れていった浮き輪を抱えて、プールサイドでうな垂れていた。
特別饒舌な男というわけではないが、口数も少なく、目も虚ろだった。
ショックを受けていた。
俺はプールサイドに胡坐をかいて座り、ぽつぽつと呟くように声をかける。
「相手が足つって退水したなら、ドクロの勝ちだよ」
「………そっすかね」
「あとまだ二〇もあった。あのまま泳いでても、ドクロが勝ったさ」
「………そっすかね」
ドクロにしてみれば、毎日努力していた自分が、毎日なまけてだらけて何もしていなかった相手、それも女に負けた、ということになるのだろうか。
色々と変則的な部分もあったし、突然の勝負だったため公平でない部分もあった。実際に、日を改めてもう一度やればドクロが圧勝するだろう。
バックからのスタートにしても、変則的なターンにしても、それほど有効な手というわけではないのだから。今の勝負だってドクロが動揺しなければあんな接戦になることはなかった。
油断、と一言で切り捨てるのは簡単だ。ドクロの心は弱い。有効な手だった。
ただ、それだけではなさそうだった。
「もちろん、結果は引き分けだけどな」
「………そっすかね」
ドクロは勝負に対して前向きでなかった。
足を釣ったハチを真っ先に助けたのはドクロで、そのせいでゴールすらしていない。
言うなれば、横向き。
「ドクロ、おまえさぁ」
相手がどんなスタートを切ろうが、どんなターンで回ろうが、前を向いてただゴールだけを目指して泳げば、失速したりはしない。
まして相手が足を釣ったのなら、なおさら。
「ハチのこと好きなの?」
「………好きっすよ」
俺はドクロを慰めていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。
なんのことはない。
ドクロはショックなんて受けていなかった。
見れば、呆けたような目は若干にやけており、手もなにやらわきわきと、いやらしくうごめいていた。
先ほど、足がつって溺れかけたハチを助けたとき、普段触れないようなヤラシイ所でも触ったのだろう。
現金なエロガキだ。
「そっか……」
とはいえ、ドクロも別に手加減したわけではないのだろう。
ハチは想像以上に速かった。俺は水泳女子に関して興味を持っていなかったので知らないが、もしかすると高校時代は名のある選手だったのかもしれない。
「先輩、ハチさんの本名って知ってますか?」
「いや、スズメバチの巣を素手で制圧する、生まれながらのギャングってことぐらいしか知らないよ」
「佐藤志穂って、聞いたことありません?」
「小学校四年ぐらいの時にそんな子が同じクラスにいたかも」
「……中学女子、五〇Mと一〇〇M自由形の日本記録」
いや、もちろん知っている。
佐藤志穂。聞いた事がある。
四歳から競泳を始め、中学二年の時に日本記録を樹立し、中学三年でその記録を塗り替え、高校一年で高校の日本記録を樹立。将来はオリンピック確実とまで言われた天才。
「ふぅん、それがハチだって?」
「そっす」
だが、高校に入りしばらくして天才は馬脚を現した。
記録が伸びなかった。
成長が止まってしまったのだ。身長は一五四センチで止まり、手の大きさも、足のサイズも変わらなかった。
それでも驚異的な記録なのだが、高校になると、昨年のオリンピック出場選手である新田真琴という人物が驚異的な伸びを見せ、天才佐藤の高校記録をたった二年で塗り替えた。
やがて天才は競泳から自然消滅した。
「自分、中学二年の時の大会でハチさん見て、一言だけ話した事あるんすけど、イッパツで憧れましたね。背は小さいのに、誰よりも綺麗なフォームで誰よりも速く泳ぐ。自分もこうなりたいって心の底からおもったんすよ」
気持ちはわかる。あれだけ美しい泳ぎ。魅せる泳ぎ。
俺だって、中学二年の時に彼女を見ていたら、ファンになっていたかもしれない。
「高校に入って、ぜんぜん噂も聞かなくなって。競泳やめちゃったって聞いて、自分の中で何かもやもやしてたんすけど、今年に入って、ハチさんがこのプールに来るようになって、なって、なんかよくわかんないっすけど、あー、なんなんすかね」
ドクロは頭をガシガシとかきむしった。
俺はしったような口ぶりだと思いつつも、考えた事を口に出した。
「だから、そりゃ恋だろ。って、ああそうか、お前が今年に入って、いきなり五キロもノルマを増やしたのはそういうワケか」
ハチを長時間みていたかったと、そういうワケか。
「同じ空間に一秒でも長くいたいんすよ」
「同じ空間っていうけどな、五十メートルプールは結構広いぞ?」
「そんなこと無いっすよ。端からでも姿が見つけられるし、走っても泳いでもすぐにたどり着くじゃないっすか。近いっすよ」
五十メートルは近い。
最高速度一〇〇ノットを誇るマグロならそう感じるだろうが、人間にとっては新説だ。
「走らなくても泳がなくても、すぐにたどり着ける位置を近いって言うんだよ」
「それ、近すぎるんすよ。そんな位置でもぐってお尻見たら嫌われるじゃないすか」
俺も男だから、そういった考えが理解できないとは言わないが、その中学生並みの思考回路をもう少しなんとかすれば、より幸せな結果が待っているのではないだろうか。
「プールと言えば、キムラ先輩は疑問に思ったことないっすか? なんで陸上はトラックで、水泳は直線なのかって」
「いや、無いな」
「水泳はターンが必要なのに陸上は必要ないっておかしくないっすかね」
「そんなにおかしい事はないだろ。トラックは広場に線引けば作れるけど、プールは施設と水がいるんだからさ。それに、別にお前だって水泳と陸上のルールを同じにしたいってわけでもないだろ?」
「でも競馬と競艇と競輪は似たようなルールじゃないっすか」
「そういわれりゃ、まぁ確かにおかしいかもなぁ……」
「おかしいっすよねぇ……」
ハチの話はどこへやら、脱線した俺たちは何を話していたのかわからなくなり、しばらく無言でいた。
が、どちらからともなく立ち上がりスタート台に上がった。
アップもしていない俺だったがそこは、今さっき全力で泳いでいたドクロへのハンデ。
「ドクロ、お前が勝ったら『元就』でチャーシューメン奢ってやるよ」
「ギョーザとライスつけますよ?」
「……ギョーザは半分こな」
各自の口で言われるヨーイドンの声、曖昧なスタート。
距離も決めていない曖昧なレース。
遊びのレース。
勝っても負けてもいい、気軽なレース。
俺とドクロは同時に水に飛び込んだ。
● ● ●
着替えて外に出ると姉が座っていた。
なぜか、ハチも一緒だった。
「あはは、ごめん兄さん、家への道がわかんなくて」
俺は頭に手を当てた。謝られたが、失念していた俺が悪かった。
「………ハチ、悪いけどさ、これからドクロに『元就』でラーメン奢ることになってたんだけど、そういう事だから代わりに行ってやってくれない?」
ハチに手を合わせてそう頼むと、ドクロがすっとんきょうな声を出した。
「あれキムラ先輩。みんなで一緒に行けばいいじゃないっすか」
こいつ、空気読めないのか。
「姉さんはこれから人生の岐路を決める重要な用事があるんだよ。時間も押してるし。そんじゃハチ、悪いけど、な?」
ハチは頬を掻きながら、いいですけど、と了承の意を示した。
「ドクロに奢れるほどお金もってないですよ」
「じゃあ先輩からのお小遣いだ」
俺はそう言ってハチに千円札を握らせた。
ハチはなんとも微妙な顔をしていたが、やがて千円札をサイフに仕舞うと、「いこ」とドクロに声を掛けて歩き始めた。
ドクロはなんとも曖昧な顔をして、こちらをちらちらと振り返りながらも、彼女についていった。
俺と姉はそれを見届けることなく自宅へと歩き始める。
「『元就』ってラーメン屋?」
「そ、安くて量があって大人気、主に運動部に」
「おいしいの?」
「量は多いけど薄味だから運動の後にもすんなり入る」
「ふぅん、今度つれてってね」
「今度ね」
元就。ラーメン屋。
大学から歩いて五分。客層は体育会系の学生。
深夜まで営業しているため教員にも人気である。
メニューはスタンダードに醤油・味噌・塩の三種類。
鶏がらでダシを取ったあっさりスープが特徴で、食べている最中は格別においしいと感じるわけではないが、日数が経過するとまた食べたくなるという魔法がかかっている。
もしかすると麻薬でも混入しているのかもしれない。
ふと見ると、姉がにやにやと笑いながらこっちを見ていた。
「兄さんもおせっかいだよね」
「何が?」
「ハチちゃんとドクロ君だっけ?」
「あぁ……」
確かに少々強引で、おせっかいだったかもしれない。
「けど、何事もきっかけだよ。ハチがなんでドクロと勝負したのかは分からないけどね」
思えばおかしな話だ。今まで浮き輪で浮かぶだけで何もしようとしてこなかった奴が、突然あんな風に本気で泳ぐなんて。
姉はニヤニヤと気持ち悪い笑みで俺の顔を覗きこんだ。
「んー、わからないかな?」
俺が不思議に思っている事だが、どうやら姉には心当たりがあるらしい。
「ハチちゃんはね、兄さんに色恋について色々言いたかったんだと思うよ。けど自分が経験ないのにそれを言っちゃうのと信憑性無いと思って、まず彼氏を作りにいったのよ」
なるほど、つまり。
「勝負に勝てば、ドクロに付き合えって言うつもりだったと?」
「つもりだったし、彼女自身、ドクロ君に好かれてるの気付いてたから、キッカケさえ上げれば、なし崩しにでもそういう方向に行くと思ってたんじゃないかな。結果は引き分けで、どっちにも転ばなくて、それが自分のせいだったから変にショック受けちゃってたみたいだけど」
何かを言いかけて結局何もいえなかったのは、自分がどれだけ言っても棚上げになると思ったからか。
彼女らしくもない。
「俺に意見を言うためだけにそんなことをしたって?」
「いや、ハチちゃんはドクロ君のこと、ずっと好きだったみたいよ。中学三年、日本記録を作ったときに、一人だけ「泳ぐ姿がすっげぇ綺麗だったっす」って褒めてくれてから。で、高校もこっちの方に入ってきたんだけど見つからなくて、大学に入ってようやく見つけたんだって」
ほぼ一目ぼれの相手を追って進学は遠くの学校へ。しかし、実は同級生ではなく一年年下だったから見つからなかった、という感じか。
「それはまた、ドラマみたいな……てか姉さん、なんでそんな詳しいわけ?」
「さっきまで本人の愚痴に付き合ってたから」
「あっ、そう」
姉は俺と似たような顔をしているから、話しやすかったのだろう。
それにしても初対面の相手の悩みをいとも簡単に聞きだすとは。
姉は友達が多く、いわゆるリーダー的存在であったが、なるほど、容姿や性格よりも他人を惹き付ける話術のようなものが巧みだったのか。
「ん、どったの?」
「なんでもないよ。……なんか食べて帰る?」
「久しぶりにハンバーガー食べたい」
俺たちは兄姉で仲良く買い食いをして家路についた。
翌々日。
筋肉痛の納まらぬ姉を連れてプールに訪れると、ハチの格好がおかしかった。
様子ではなく格好。
いつもの色気のない無地の黒いワンピースタイプではなく、なんか向日葵っぽい模様が入ったビキニタイプの水着だった。
起伏に乏しいハチに似合っているとはお世辞にも言えないが、少なくとも黒のワンピースよりは、花柄の浮き輪に合っている。
彼女は浮き輪に身体を通した状態でプールサイドに腰掛け、足だけ水に浸からせて、泳ぐドクロをニタニタと見ていた。
俺が近づくと、首だけこちらに向け、ニヤけて言った。
「キムラ先輩、あたしたち、付き会うことになります」
「そう、おめでとう」
「ありがとうございました」
俺はプールサイドに立ったまま、唐突に居心地が悪くなった。
いつもなら隣に座って他愛無い話なんかをする所だが、後輩の彼女となると、それだけの行為が危うい意味を持つような気がしてくる。ドクロの放つ嫉妬の炎に焼かれたりはしたくないものだ。
でも座った。
普段の行動まで変えることはない。
「小さい頃って、泳げても使いたいんですよね」
一瞬、ハチの日本語を疑ったが、頭を捻って答えを探し出した。
「えっと………浮き輪を?」
「そです」
ドクロがザバッと水を掻き分け、本日何度目になるかわからないターンをした。
何時にも増して動きにキレがあるように見える。
「あたしは、浮き輪を使ったことなかったんですよ。ママが競泳に専念させるから、遊ぶためのプールっていうのにも入ったことなくて、CMでスパリゾートとかやってても、そこにある施設とか、綺麗な水着とか、浮き輪とか、全然知らなかったんですよね」
「ふぅん……」
幼い頃から競泳を始めたというハチならありうる話だ。
実際、そういうエリート志向の親は多い。小さい頃から強制的に勉強やらスポーツをさせる親をバカ親とは思わないが、遊ぶ暇も与えないというのは、子供の気持ちを無視しすぎている。
「大学に入って、始めてなんですよ。浮き輪を使ったの。いいものですよね、浮き輪」
「そうだな」
俺はかつて浮き輪が無いと泳げない子だったため、その気持ちはわからない。ぞんざいに返事をしておいた。
「……という話をしたら謝られた挙句、コクられました、ドクロに」
珍しく、主語があった。倒置法だったが。
「あ、そう。ドクロも意外と唐突だね」
「顔、すっごい真っ赤でしたよ」
ハチはにひひと笑いながら水面をぱしゃぱしゃ叩いた。
上機嫌だ。
ドクロは何食わぬ顔で五十メートルプールを行き来しているように見えるが、俺の知るドクロは何食わぬ顔の出来る男ではない。今も泳ぎながら俺とハチの会話が気になって仕方が無いだろう。後二〇〇も泳がないうちに我慢できなくなってこっちにくるはずだ。
あれでいて我慢の足りない男だから。
「いいじゃん。過程はどうあれ、付き合うことになったんだから」
と言うと、ハチは首を振った。
「いえ、返事をしてないからまだわかんないんですけど」
俺は数秒の沈黙の末、先ほどのハチの言葉が『付き会う事になります』という未来系であった事に気付いた。
「でもオーケーするつもりなんだろ?」
「返事する頃に、気が変わってるかもしれないじゃないですか」
「じゃあ速く返事しろよ」
俺はウンザリしながら返事をして、筋肉痛のため適当なストレッチをしてしまい、結果として足を釣っておぼれている姉を助けるため、プールへ飛び込んだ。
こうして、ハチとドクロは俺のお陰で付き合うこととなった。
俺には、それが後にどんな結果を招くのか、想像することなどできなかった。
できるはずもなかった。