前篇
神良一は不治の病におかされた薄幸の少年だった。彼の長期入院が決まったとき、額の重く垂れた老先生は、少年が辿るだろう儚い未来について、別室で両親に宣告した。ゼロではない希望のほのめかしと、慎重な前置きを重ねながら、次第に冷厳な客観的事実をあきらかにしていく、老先生の巧妙な語り口は、世の不条理を十二分に演出し、絶望のクライマックスで見事に両親の心を打ち砕いた。彼らは涙をこらえきれなかった。
入院してからというもの、親たちはいつもよりやさしいし、学校の勉強なんかからも解放されて、良一はのんきにかまえていた。とはいえ、だいたい暇だったので結局勉強した。もしかしたら元気だった時よりも勉強しているかもしれない。退院する頃にはクラスの奴らよりもずっと頭がよくなっていて、学校生活に復帰するとともに、いきなり定期テストで上位に入る、そういう想像も愉快だった。
悩みといえばテニスができないことだった。友人に引っぱられて去年からはじめたテニスは、いつの間にか彼の心をとらえていた。努力と成長の味をしめた彼は、うずうずしていた。走りたかったし、打ちたかったし、勝ちたかった。ストロークが完璧に決まったときの、ラケットを通して全身の力がボールに伝わったような手ごたえが恋しくてならず、いてもたってもいられなかった。
夜、ベッドの中で目をつむると、はじめて参加した夏の大会の思い出が脳裏によみがえる。真っ青な空に浮きたつ雲の塊、熱い空気、いつもより広く感じられるコート、応援してくれる仲間たち。そして、一回線の勝利と二回戦の敗北。どうしたら負けずにすんだろうか。どうすれば次は勝てるだろうか。一日でも早くあの場所に帰りたかった。
良一の身に巣食う病にとって、若く健康的な彼の身体は、死を植え育てるには概して不向きな土地だった。なるほど、病は耕し、種を撒きはした。けれどもそれは、軽いたちくらみや翌日にはなくなる軽い痺れにすぎなかった。食べた物をもどすことがあっても、次の日にはもとの調子だった。
しかし、気まめな農夫である病は、日照りや嵐にも負けず、こやみなく働いた。より深く耕し、肥料をやり、水をやった。どんな不毛の土地も開くたくましい一族の誇りにかけて、決してあきらめなかった。こうして、死の一群が芽吹き、立ち枯れことなくしっかり根を下ろした。青々と生い茂った畑を見下ろして、病は、みのりの季節を思い描き、満足げにほほえんだ。
口を通してものを食べられなくなった良一は、すっかりやせ細り、点滴が外せなかった。遅まきながら自分のゆく末にに気づいた彼は、人知れず涙した。なぜ自分だけがこんな目にあわなければならないのか、呪わしい気持ちになりはしたものの、今さらその苦痛を親たちに当たり散らしたりはしなかった。彼らの優しさも理解できたから。
一日の多くをベッドですごすようになった良一は、勉強も、ひそかに続けていたダンベル運動もやめてしまった。そんなことをして、いったいなんになるだろう? 今の最大の気晴らしは、流行りの携帯ゲームだった。
それは、近世ヨーロッパを思わせなくもない異世界の魔法学園を舞台にしたRPGで、シリーズを重ねて三作目に至っており、なおかつ分岐する表シナリオと裏シナリオ、肩すかしのエンディングと真のエンディングがそれぞれ用意された、暇を持て余した人間向きの傑作だった。良一はそのすべてを制覇した。彼は、あるときは一見平凡だが実は伝説的な魔法使いの血を引く天才児で、あるときは劣等生ながら努力のすえ最高成績で学園を卒業する少女で、またべつのときは旺盛な正義感と冒険心をもって、学園設立の歴史に秘められた謎をあばく青年だった。
こうして彼は、冬の病院にいながら、異世界の魔法学園での入学と卒業をくり返した。どれもこれも美しい姿形をしたキャラクター達のなかで、とくべつ気に入ったのは、マチルドという名の先生だった。シリーズの全てに登場する彼女は、魔法学園の教師陣のなかでも個性派で通っていて、魔法使い同士の契約関係よりも親しい者同士の友情を優先し、なおかつ魔法が暴走した時には身を呈して生徒たちを守る、柔和な世界観が印象ぶかい当シリーズの象徴的なキャラクターだった。第一作目のエンディングでは、マチルド先生のもとを巣立っていく、主人公ら生徒たちに向けて、「あなたは私の誇りです」と彼女が言うシーンでは多くのファンたちが涙したものだ。だから、彼女は後のシリーズにも顔を出すことになった。もちろん、良一もその卒業シーンは大好きだった。
やがて春がやってきた。やわらかく明るい陽ざしが屋根々々を照らし、風に揺られる樹木の新緑が、咲きほこる花々が、生命のエッセンスを青い空へとまき散らしていた。輝くような、かぐわしい空気が、建物の四方八方を取り囲み、壁を通り抜けて室内にも充満し、喜ぶべき新しい季節の到来を告げてまわった。病院の窓からは桜の木が見え、ジャージ姿のランナーが、そのそばを足取り軽く走り抜けていった。
良一はカーテンを閉めると、ベッドに横たわり、目をつむった。入院してから一度も学校に行かないまま学年が上がった彼は、ぶちのめされたような、もう諦めたような、陰惨な気分だった。衰弱しきった胸をあえがせ、ひからびた目をますますかたく閉じて、闇の中でただひとり、もう何も考えたくなかった。そしてまもなく、彼のその願いはかなうはずだった。
その時だった。
自分のすぐ近くに、誰かがいることに、良一は気づいた。医者か親であったなら、このまま寝たふりをしていた方が、わずらわしい気持ちにならずに済む。けれども、なんとなく、そういう気配ではなかった。彼は目を開いた。宿命の予感に満ちた良一の視界にあらわれた女性は、その長い髪も華奢なすがたも、どこかで見たようでありながらどこで見たのか思い出せず、記憶を失ったような戸惑いにとらわれたので、一見して天然とわかる金髪と青い目をした彼女が、裾の長い黒のローブを羽織り、先に赤い宝石のはまった身の丈ほどもある大きな杖を両手で支え持っている、いささか現実離れした映像への当然感じてしかるべき驚きは、すこし遅れてやってきた。彼女は、マチルド先生だった。
「『コスプレイヤーの方ですか?』なんて、まさか言わないだろうね?」
魔法学園教師の第一声だった。
良一は何か言おうとしたがうまく返事ができなかった。
「今日はあんなにも私を好きになってくれたジンくんに会いに、はるか遠い魔法の国からやって来たんだ」彼女は自分の姿を見せるように腕を広げ軽く口角を上げた。「ちなみにメーカーのM社からやってきたわけでもないよ」
「ハハハ……」良一は愛想笑いをしてみた。
「子どもは笑顔が一番だね。ジンくんが笑ったのは久々じゃないかい? ――ちなみに、ここ、『さすが魔法使いの先生だ。なんでも知ってるな』って驚くところだからね」
さっきから呆気にとられていた良一は、なんとか思うところを口にした。「でも先生、ゲームの中とは、ちょっと口調が違いませんか?」
「君の気のせいだよ。二次元が三次元になったからちょっと変な気がするだけさ」
「じゃあ……何も言わないことにしておきますよ」
「聞きわけのいい子は先生も好きだよ」それから思い出したように付け足した。「アナタハ私ノ誇リデス」
「ありがとうございます……」
マチルド先生は軽く杖を振った。すると、カーテンがいっせいに開き、陽光がふたたび部屋にさしこんできた。光はただよう塵の粒をうきあがらせる。彼女はまぶしそうに目を細め、外の景色を一望した。
「いい天気だね。春。輝く、花咲く、心躍る季節。再生の季節。ほら、色とりどりの花壇のあいだをつがいの蝶が飛んでいく――最高だね。まぁ、もっとも花粉症に会ったりしなければだけどね」
「ハハハ」
「こんな日に外で思いきり身体を動かしたら気持ちいいだろうな」彼女はそう言って良一を見た。「それなのにキミは薄暗い部屋でいじけていて、死にかかっている。かわいそうに」
「先生は俺をいじめに来たんですか?」
「いや、助けに来たんだよ」
「助けに?」
「そうさ」
彼女はもう一度杖を振った。こんどは窓がいったん真っ暗になり、一瞬の後、テレビの画面のように、あきらかに病院近辺ではない、別の場所を映しだした。良一は気づいた。彼にとってはすっかり懐かしくなった学校、人々が行き交うその校庭、ラケットを手に壁打ちやラリーをしているのは、テニス部の面々だった。
「キミが入院してから、時を見ては考えていたのは、これだろ? 死ぬ前に一度見せてあげようと思ってね。チンケに思うかもしれないが、こんな魔法でも、けっこう疲れるんだよ?」マチルド先生は得意顔だった。
テニス部員たちが、走り、ラケット振り、汗をかきかつ息を切らせる様子は良一が失った活力に満ちていた。飛び跳ねるボールさえ、彼らに打たれて喜んでいるかのようだ。ふと、彼をテニスに誘った星野航太が首にタオルをかけた姿で女子マネージャーと談笑しているのを見つけた。良一の意志に反応したのか窓は2人をアップで映し出した。女子マネージャーは、おだやかな瞳とひかえめな口をした茶髪のショートカットで、いかにも良一のタイプで、じじつ彼が以前ひそかに思いを寄せていた娘だった。2人は付き合っているのだろうか? 良一は苛々してきた。
映像が消えた。
窓の外にはふだんの風景が戻ってきた。マチルド先生は深くため息をつき、額をぬぐった。それから良一の方を見て、どうだい? と尋ねた。
「これだけ……?」
「というと?」
「先生は、俺を助けてくれるんじゃないんですか?」
「死ぬ前に愛する者を見て、幸せな死に目を迎えてもらえれば、さまよう亡霊にならずに済む。私なりに助けてあげてるつもりなんだ」
「魔法で病気を治してくれるとかは……?」
「やだなぁ、回復魔法は私の専門じゃないよ。設定にもあっただろう?」
「そんな……」良一は、あらためて我が身儚さを思い知らされ、しばらく耐えていたものの、涙をこらえきれなかった。彼は嗚咽をあげた。
「やれやれ」マチルド先生は困り顔だ。「でもまぁ、そういうのをお望みなら、他のやり方でキミの魂を救うことが、絶対にできないというわけでもない。ちょっと高級な魔法になるけどね」
「なんでもいいですよ、俺は助かりたい!」
「ふふん。その言葉を忘れないでほしいな」彼女は言った。「で、その魔法って言うのはね、つまり、魂を交換してしまうわけさ。キミと誰かの魂を入れ換えて、キミはそいつとして生きる。チェンジリングって言うんだけど、この魔法なら私にも使える。ただし、誰の魂でもいいってわけじゃない。キミに似た魂でなければならない。これは、そうだなぁ、さっきのテニスの少年(ホシノくんだっけ?)とかいいんじゃないかな」
「そうしたら、俺になったあいつは、どうなるんです? 死ぬんじゃないですか?」
「死ぬね。自分に何が起ったのかもわからずに死ぬだろうね。でも考えようによっちゃそれって幸せなことなんじゃないかな。ともかく、キミに相手のことをよくよく考えてる時間は残されてないし、さっきも言ったけれども、チェンジリングは高級な魔法なんだ。キミにもそれなりの協力をしてもらわなければならない。支払うべきものを支払ってもらわなければならない。素直に自分のことだけを考えてほしいな」マチルド先生は皮肉げに口元を歪めた。「まぁ、こんなとき我々が要求するものと言ったら、アレに決まっているけどね」
「そんなこと言われても、俺にはわかりませんよ」
「魔法が成功する保証はないから、アレは、上手くいった後にいただこうかな」
「だから、なんなんです?」
「それはね、つまり、キミの寿命の半分さ」
」
空から美少女が降ってくるようなキャラ重視のファンタジーを書こう思いました。そうしたらこうなりました。小説よくわかりません。続きます。