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ありすじゃないって!

作者: 橘まき


 この空は世界中に広がっている、だから俺たちはいつでも一緒だと、そういったのはこないだみたドラマのくさいヒーローだ。みた時はハイハイと流せていたこのセリフに、今は大きな声で異議を唱えたい。

 空はどこでだって青いって?

 空は世界共通のものだって?

 ――――冗談じゃない、そんなわけがあるものか!

 起き上がり窓の外に広がる光景に、彼女は思い切り苦い顔をした。青い空はまぁいい。白い雲も、まぁ、問題はない。その次だ、その次が肝心だ。

(なんで猫が空を飛んでいる?!)

 空は鳥のもの羽根のもの、猫は地面を走るもの。こんなこと、現実の世界で起こるわけがない。けれども実際に彼女の目の前では紫と白の縦じま模様の猫が悠々と空の上を飛んで、いや訂正、歩いている。

 くらくらと目眩がした。

 一体これは、夢の中?

 ぐるりとあたりを見渡せば、木の壁とカーテンとクローゼット、鏡のついた小さな机。まるでファンタジーに入り込んだかのような木造の部屋が見事に再現されている。ちなみに彼女自身はといえば、ネグリジェとやらを身につけてベッドから起き上がっている状態だ。

(決定、これは夢。夢以外にありえない)

 明晰夢以外認めてたまるか!

 自分は泥酔する癖もないし、そこまで酒に弱くもない。けれども今回はイレギュラーが起きたようだ。まさか自分がこんなになるまで酔ってしまうなんて、なんたること! 今後酒の量は考え直さなくてはならない。いや、そもそも酒自体を封印してしまうのはどうだろうか。

「おおありす、やっと起きたか」

 彼女の苦悩もなんのその、わかりやすい大きな足音を立てながら部屋へと入ってきた大男は、再び彼女の意識を飛ばさせるのに十分だった。

 素晴らしい筋肉美を生えさせる真っ白のタンクトップに、これまた白いコック帽。はやく着替えろと彼が差し出したのは――――薄水色のエプロンドレス。

「白ウサギを捕まえてこい! あのバカ、また小麦粉と変なのを間違えやがった」

「っていうかですね、ここはどこあなたは誰」

 ついでにいえば私の名前はありすなんかじゃありません。

 なんとかとりもどした意識で即座につっこめば、大男は眉を潜めて低く唸った。

「……また寝ぼけているのか。パン屋で働いている以上、いい加減朝に慣れたらどうなんだ」

「いやですから、私パン屋で働いた記憶もないんですって」

 はぁ。

 ため息一つ、やれやれと大男。

「いいからさっさといってこい! 捕まえ方はわかるな? ほら、麺棒だ」

 麺棒が何の役に立つっていうの、ていうか捕まえ方なんてわからないわよ!

 そんな彼女の抗議はきれいに無視して、大男はドレスと麺棒、それからわけのわからない粉が入った麻袋を放ると、さっさと部屋をでていってしまった。

「昼前に戻らないと仕込みに間に合わないからな!」

 という、捨てセリフを残しながら。

(昼前って……そもそも何時よ、今?)

 それすらもわからない自分に一体どうしろというのだろうか。

 もぞもぞとエプロンドレスを着込みながら、はぁと彼女は息をついた。



 やあやあありす、元気がないね。

 にまにまと笑うその猫をぶん殴りたい気持ちを、彼女は必死に抑え唇に笑みを模った。額には若干青筋が立っているかもしれないがそんなことはかまうものか。

 着替えたあと、あの大男と会話するのも鬱陶しいやら面倒やらで彼女はそのままこっそりと家を出ることにした。

 でてみてから気づいたのだが、この家は大きな森の入り口を背にして建っていた。裏側に広がるのは、鬱蒼と生い茂った、いかにも陰鬱な魔女の森。かろうじて道はあるようだが、それもどこまで生きているかは正直あやしい。

 このままどこにいるのかわからない白ウサギを追いかけるのか、それとも夢から覚める方法を探すのか。思案しているところに、あの、猫があらわれたのである。

 長い毛並みは紫と白。にまにまと両目を三日月にして、ゆっくりと空から降りてきたのは、紛れもなく空を歩いていたあの猫だ。

「猫さんあたしはね、ありすじゃないの」

「……また寝ぼけているのかい? 仕方がないねぇ」

 何故だろう、こいつの言い方、ものすごく癇に障る。

 わざとらしく息を吐き出す猫をみながら、彼女はぐ、と拳を握り締めた。

「白ウサギの居場所を知らない?」

「また間違えたのかい? しょうがないねぇあのウサギも」

「そうなのしょうがないのよね、だから教えてくれないかしら」

「クイーンに誓って!」呆れたように猫はいった。「お前さん以上にあのウサギを探すことなどできやしないさ」

「は? なんですって?」

 あたし以上に、ウサギを探せない? 『ありす』はそんなに白ウサギを追い掛け回しているっていうわけ? 尋ねようとするより先に、猫がさらに言い募る。

「まったく今日はどうしたんだい? いつもなら赤い布に襲い掛かる牛のように白ウサギを追い掛け回しているというのにね。あの怒鳴り声と地響きを時計代わりにしている者も多かろうに! サービス精神を欠くというのは、いけないことだと思うんだけどねぇ」

「いやだから、ウサギを追いかけるなんてはじめてだってば」

「世界ははじめてに溢れている!」

 偉そうに胸を張って猫。

「今日経験することはすべてが今日初めて経験することなのだから、世界は日々はじめての繰り返しだよ」

「いやだから……」

「まったくそれすらもわからないなんて――――」

 あぁ、そうか。

 やれやれと首を振る猫をみながら、なんとなく彼女は理解した。この猫の仰々しいまでの芝居がかった口調と身振りが、こんなにも自分を苛立たせているのだと。なんとすばらしい逆撫で方、バットコミュニケーションスキルナンバーワンに指名したい!

「これだからありすはふぎゃ!」

 尻尾を足で思い切り踏んづけて、彼女はにこりと笑って見せた。

「それであんたは、白ウサギの居場所を知ってるの?」

 もう一度いうとあたしの名前はありすじゃないから。

 念を押しながら、ぎりぎりぎりと力を込める。

「どちらにいったかぐらいなら、見当はつくさ!」だからはやく上から退けと、足元から悲鳴があがった。

 望み通りに解放すれば猫は丹念に尻尾の手入れをほどこして、

「仕方がないから、お前さんの覚めない夢につきあってやるとするよ」

 若干恨めしそうな目で見上げながらそう言った。

「あらうれしい、心強いわ」

「白々しいねぇ。おまけにやっぱり乱暴だ」

 それでこそありすといえなくもないのだけどね!

 彼女が一瞬固まったことに気がついたのだろう、彼女が動くよりもはやく猫は森の中へと歩き出す。ち、と舌打ちひとつして、彼女も後ろを歩き出した。

 空は飛ぶわしゃべりだすわ、この世界の猫の基準は一体どうなっているのだろう。おまけにウサギは荷物を配達して回っているらしい。――――まぁ、一番ありえないのは己が身につけている服装なのだが。

 目の前に広がる魔女の森を一睨みすれば、自然と腹が据わってきた。

 そうだ、ゲームなのだ。ウサギを捕まえればきっとこのクエストは終了する。制限時間までついているのだから、間違いはないだろう。さすればやるべきことはただ一つ。

(待ってなさいよ白ウサギ)

 さっさとあんたを捕まえて、この夢から覚めてやる!



 森の中の道が道としての形を保たなくなったのは、歩き始めてからすぐだった。

 荒れるのが早過ぎるわよ。心の中で愚痴りながら、巨大な木の根を飛び越える。こちらの苦労など何処吹く風で、先ゆく猫は悠々と進んでいた。

「ねぇ! ここってあんたみたいにしゃべる動物がいっぱいいるわけ?」

 進みながら尋ねれば、何を言っているんだという目が自分を見下ろしていた。大げさに目を見開いて、あわあわと首を振っている。聞くんじゃなかったと一瞬後悔したものの、情報源が『コレ』しかないのだから仕方ない。

(だいたいRPGには説明役がつきものでしょう)

 もうちょっと『コレ』よりマシな説明役はいなかったものなのか。自分の夢ながら文句をつけたい。

「お前さん、今更そんなことを聞くのかい!」

 田舎から出たことのない純で鈍で生々しい娘じゃあるまいし。

「生々しい娘って何よ――――いや、いいわ、聞かない方がいい気がする」即座に問いかけを撤回して、彼女は続けた。「あたしはありすじゃないし、この世界もはじめてだっていったでしょう。いいから教えなさいよ、ここってどんな世界なわけ?」

 睨み付ければ、やれやれと猫は木の枝から飛び降りて彼女の目の前を進んでゆく。

「この国はハートのクイーンが守護する国さ。大陸の北に位置しているから、一年のほとんどは処女のように真っ白な雪が国中を包み込む。それはそれは素晴らしい光景だが、春の今が一番活発と、いえなくもない」

「春? その割には、いまいち春っぽくないけど」

 確かに緑は豊だし(豊過ぎるという話もあるが)森の外の木々も若々しくきれいではある。だが、どこにも花が見当たらない。春というより梅雨明け、初夏といった方がいい。

 花が咲かない春なんてあるのだろうか? ――――おかしなこの国のこと、自分の常識を当てはめてはいけないのだと思うのだが、これで春と言い張るのは、祖国の春を知っていればこそ違和感を感じてしまう。

「ま。今回は、まだちゃんとした春を迎えてないだけさ!」

 言ってひょいと猫が飛び上がったその瞬間「あぁ、避けた方がいい」軽い口調の声とともに、きしゃあと奇妙な音がした。毒々しい原色に、巨大な茎と巨大な葉。大きく口を開け鋭い牙を剥き出しにした、人食い花が目前に広がり愕然となる。

(冗談じゃない!)

 食われる寸前、粉の袋を手放した己の反射神経を褒めてやりたい。

 が、と麺棒で口を抑えて、そのまま麺棒を支えに飛び上がる。人食い花が上を向くよりも早く花の上から体重をかけて蹴りをくらわれせば――――ずしん、と、人食い花は地響きを響かせて大人しくなった。すべてが終わったその後で、食われるからねとのんきな声が平和な上空から降ってくる。

「忠告するのが遅すぎるわ!」

「でもありす、お前さんは避けただろう?」

「だから何? 避けるのを見越してたとかいうわけ!?」

 こういう時は、猫の三日月型の目が酷く苛立たしい。ふ、と笑う猫を横目に、彼女は人食い花から麺棒を取り返し袋を再び担ぎなおす。

「できるものに忠告するなんて、野暮がすること。そうだろう?」

「一回話し合う必要があるみたいねあたしたち」

 物事の基準が違いすぎる。

「大昔は、一年中春だったという話だけれどね、この国もさ」

 言葉に含まれる殺気を感じ取ったのだろうか。

 くるりと背を向けて歩き出す猫に、まぁいいわと息をついて彼女も続いた。常春? と疑問を投げる。

「冬ばっかじゃなくて?」

「あぁそうさ。…………一説には、クイーンの守護がなくなったせいだとかいわれてるけどね。真実は誰にもわからないし、どこの歴史書にも残されちゃぁいないのさ」

「そういや守護っていったわね」

 思い切りよく伸びた草を麺棒ではらいながら彼女は尋ねた。

「クイーンはこの国を治めていないの?」

「いるよ。この国を治めている王はね」

 猫は再び、空を歩きながら答える。いっそあれに捕まって飛んだ方がよかったんじゃ? そんな考えが彼女の脳裏をよぎるが、手が届く範囲にはいないので試せない。

 ちっ。

「時には女王がたつこともあるが、クイーンと決して呼びはしない。この国のクイーンはハートのクイーンただひとり! ハートのクイーンは……そう、神さまみたいなものなのさ。この国を創り、民を守護してくれる守り神」

 しっかしお前さん、本当に子供みたいなことを聞くんだね。むしろ感心したように、猫はいった。三才児相手に話をしているみたいだよ、一体今まで何を勉強して来たんだい?

「だから、あたしはありすじゃないんだってば」

「やれやれ、まだ夢をみているのか。まったく夢見がちなお嬢さんだ!」

 だから、こっちが夢なんだって。

 言おうとしたまさにその時、背中からじょろじょろと水が流れる音がした。

「やあお嬢さん、一緒にお茶はいかがかな?」

 シルクハットに燕尾服。木の枝に足をつけてぶら下がりながら、手にしているのはティーポット。

 差し出されたカップをみながら、思わず意識が飛びかけた。テレビや絵本、小説に、マンガのパロディ。小さい頃から慣れ親しんだ、あの物語が頭の中を駆け巡る。

(ありすにウサギ、猫の次はハートのクイーンに帽子屋ですって?)

 三月ウサギはどこにいるの!



 かぽーん。

 と、ししおどしでも鳴ればいい。

 洋風アンティークなティーカップを口につけ、茶色い香り豊な紅茶を飲みながら彼女は思った。限りなく世界はヨーロッパだが、流れる空気の穏やかさは古きよき日本そのものだ。

 帽子屋に連れられてふたりがやってきたのは、こんな森の中において、かなり開けた場所だった。円状に広がり整えられた空間の中心には、白いクロスのかかったテーブルとティーセットが用意されていた。

 生憎と三月ウサギの姿はないが。

「それで、まぁ、こうして白ウサギを探しているわけなのよ」

 お茶を啜り出されたクッキーを口にして、彼女はこれまでの経緯を締めくくった。それは大変ですねぇ、和やかに微笑んで帽子屋がこたえる。

 猫の三日月と違い、帽子屋の微笑みは癒される類のもので、ちっとも苛立つことがない。笑顔ひとつでこんなにも違いがあるのかと、妙な感動が彼女を襲ったものである。

「あの白ウサギの配達ミスは有名ですから」

「そんなになの? まったく嫌になるわね、袋は重いし猫は優しくないし」

「優しく質問に答えただろう! そこまで忘れっぽいとは思わなかったよ」

「優しく人食い花の存在を教えてくれはしなかったわね」

 睨めば、やれやれと猫はお茶を一舐めする。恩知らずな娘だ、さすがありすと続けたのでもう一度尻尾を踏んづけてやろうと思ったが、次の猫の言葉に思わず意識は横へとそれた。

 そういやありす。

「時間はいいのかい?」

「時間?」

「昼には帰るんだろう?」

「…………」

「おや、昼には帰ってしまうのかい? 寂しいなぁ」

 いやちょっとまって昼って。

 そういや昼前にとか大将いってたような気がしないでもないけど昼って。

 慌てて空を見上げれば、澄み渡った青い空と高く高く上がった太陽。頂点には達していないから、まだ昼ではないはずだが。――――はず、なのだが。

「今何時!?」

「ふむ。太陽があそこだから……お昼まで三時間といったところか。あぁ、時間というのはなんと儚く短い生き物だろう! 楽しい時間はあっという間だ」

「三時間!?」

 三時間でこの広大な森からウサギ一匹探し出せって!?

 冗談じゃないわ、と彼女は立ち上がって叫んだ。こんなところでお茶なんてしていられない。危くこのままずるずるとお昼を迎えてしまうところだった。一体どれぐらいこうしてお茶をしていたのだろう? ――――はた、と帽子屋の正式名称を思い出す。

 気狂い帽子屋。

 格好だけかと思っていたら、見事に予定を狂わされているではないか。狂っているのが本人ではなく周りだというだけで、気狂い帽子屋の名に偽りなし、だ!

「おや行くのかい。そんなに慌てて、優雅でないねぇ」

「三時間っぽっちで探し出すのよ!? 急がないと!」

 のんきな猫の言葉に言い返して、彼女は帽子屋を振り返った。

「お茶ごちそうさま、おいしかったわ。それからできたら白ウサギの情報をくれたりするとありがたいんだけど」

 いいえどういたしましてと、にこにこ微笑みは崩さないままに帽子屋が袋を差し出し言う。ぺろりと指についた白い粉をひとなめしてから、

「大丈夫、きっと時間内に捕まえられるよ」

 白ウサギなら心当たりがあるからね。

 そう続けられた帽子屋の言葉は、まさしく天使のささやきに違いないと彼女は思った。

「心当たり?」

 期待に満ちた顔で聞き返せば、クイーンに誓って! と帽子屋は森のさらに奥へと続く道を指差し言う。

「君に会う前に、あそこの城へかけていく姿を見かけたよ」

 たぶん、この袋の届け先があそこなら、今ごろ一悶着起こしているのかもしれないね。



 ざらついたレンガの壁は温かみもなく、人気のない空間は静まり返って氷のよう。姿見にうつる己の姿を眺めながら、女はく、と笑みを零した。黒い長髪は頭の上で結い上げて、身につけるのは真紅のドレス。

 私は――――わらわがクイーンなのだと、紅を引いた唇で呟いた。

 広さだけが取り得のような部屋の外には、荒廃した森が広がっている。己がいる古ぼけた城を取り囲むようにして枯れ木が覆い、その先の、深すぎる緑がすべてを閉ざす。

 完璧だ、と女は言った。

 部屋の中に置かれた麻の袋は、数えることすら馬鹿らしいほどに山となって積もっている。その中のひとつ、今日届いたばかりの最後のひとつを手にとって、彼女はその封をあけた。

「これがあれば、わらわの計画は」

 完成する――――続くはずの言葉は、しかし困惑の呟きへと取って代わった。なんですって。彼女は袋の中身、真白の粉をひとすくいして呆然と繰り返した。これは、何かの冗談?

「これは――――これはあの薬じゃない! わらわが必要とするあの粉では……えぇいくそっどういうこと!?」

 あれがなきゃ壊すことができないじゃないの!

 三月ウサギ! 部下の名前を叫んで呼べば、応えるように部屋の扉がばたんと開いた。薄水色のエプロンドレスに、首根っこを捕まえられた白ウサギ、そして見慣れた黒ウサギ。

「いーいな格好だな? 三月ウサギ」

 よくもやすやすと捕まりおってこの給与泥棒が。エプロンドレスを睨みながら唸って言えば、部下は困ったように頬を掻いた。いやだってこの人、麺棒で脅すんですもの。

「こわいんですよー逆らうの」

「わらわに逆らうのと天秤にかけることかそれが!」

「案ずるでない!」いつの間にか窓の縁に座り込んでいた猫がにたりと笑う。「ありすはいつだって凶暴すぎる。あのウサギの落ち度はどこにもない」

 紫色と白の縦縞。

 チャシャ猫か、と苦々しく呟けば、感心したようにエプロンドレスが声をあげた。

「あんたやっぱりチャシャ猫だったの」

「おや、意外だったかね」

「ここまでくると見事だわねと思っただけ」

 で? とエプロンドレスは生意気な視線を向けてくる。左に黒ウサギと粉袋、右に白ウサギと麺棒を抱えた状態で、こちらを見据える視線は好戦的な獣のよう。若干疲れの滲んだ顔で、それでも唇を吊り上げ言い放つ。ハートのクイーンってのは、守護神サマじゃなかったの?

 女は胸元についた黒いハートを指で抑え、誇らしげに笑って見せた。

 いかにもわらわがクイーンだが、一体何の御用かえ?



 ハートのクイーンと言い切った女へと三月ウサギと呼ばれた黒ウサギを放り投げ、彼女は凝りをほぐすように左肩の関節をぐるりと回した。どうもこっちの馬鹿白ウサギが、荷物を間違えたみたいでね?

「そこの袋と取り替えてもらえると、大変ありがたいんだけど」

「それなら容易い御用――――と、言いたいところだが」

 封のあいた袋を持ち上げて、クイーンは左の眉を持ち上げる。そう簡単に返すわけにはいかぬよな? 袋に長い紅い爪を走らせながら首を傾げた。

「どうやって、ここを知った?」

「どうやっても何もー? このウサギを追いかけ回してたら辿り着いたってだけ。ま、途中変なトランプ柄のシャツきたふたり組やそこの黒いのがでてきててこずったけど」

 昼前にそれ持って帰らないと大将にどやされるのよね。ていうか夢から覚めることすらできないじゃない。これならさっさと渡すから、そっちの小麦粉返してくれる?

 くつくつとクイーンは笑った。

 大丈夫、そなたは大将とやらに怒られはせぬよ。

「へぇ?」

「なぜなら、」ぽい、と袋を放ってクイーンは腰元に手を伸ばした。「今ここで死ぬのだからな!」腰から現れた鞭がしなって、彼女へと襲いかかる。

 この攻撃に思わず悲鳴をあげてしまったのは、決して恐ろしかったわけではない。何故だか心の中で弁明しながら、白ウサギを盾に鞭をかわして彼女は叫んだ。「粉! 零れたらどうしてくれるの!?」

「そんな心配ができるとは、まだまだ余裕があるようだのう」

「三流悪役みたいなセリフにビビってあげられるほどホラームービーみちゃいないしノリツッコミもできゃしないのよ!」

 迫りくる鞭を麺棒ではじき返しながら、黒ウサギ! と鋭く叫ぶ。

「小麦粉を確保なさい!」

「っ、はい!」

 途端素直に回収に向かう部下をじろりと睨み、攻撃の手は緩めぬままクイーンは冷たい声音で言った。

「お前、誰の部下のつもりかえ?」

「だってこわいんですってあの人ー」

「おだまり!」

 あとでじっくり仕置きをしてやるから覚悟おし。残酷に告げてふるった鞭は、見事に彼女の麺棒へと絡みつく。クイーンの顔に、勝利者の優越が浮かんで微笑む。

「勝負はあったよ小娘。さっさとそいつを手放しなさい?」

「冗……談!」

 言いながらぎりぎりと引いていた麺棒を、しかし彼女はふ、と唐突に手放した。力の反動でぐらりとクイーンの身体が傾く――――その隙を、彼女は決して逃さない。

 即座に鞭を引き寄せ背後に回り、腕をひねり上げて体重をかけて押さえ込む。

「勝負はあったみたいよおばさん? 無駄な抵抗はやめてくれる?」

 彼女を強く睨みあげて、悔しそうにクイーンは小さく唸った。冗談じゃないと、甲高い悲鳴があがる。

「こんな己の年も考えない愚か者に捕まってしまうなんて!」

「と、年って……あんたに何がわかるっていうのよ!?」

「年甲斐もなくそんな格好をしておいて、そなた恥ずかしくないのかえ?」

「――――余計なお世話よっ!」

 年甲斐もなくメルヘンな夢を見ていることもエプロンドレスを身につけていることも、誰に指摘されなくても自分が一番わかっている。わかっているからこそはやく目覚めてしまいたいのではないか。

(そっれをこのおばさんは!)

「だいたいあんたがややこしいもん頼んでるからこんな面倒なことになってるんでしょ!?」

「うるさい、そなたが小麦粉なんて諦めればよかったのじゃ!」

「そうしたらあんたモノがなくて困ったんじゃないの?」

「っ。……余計なものにこられるよりは遥かにマシじゃ!」

 一瞬クイーンが詰まったのを、もちろん彼女は見逃さない。

「ほら、図星なんじゃない。」

「どうでもいいがそなたくるのが早すぎるぞ! 何ゆえもっと肝心の部分をやらぬのか!」トランプとか、三月ウサギとか。

「だぁって時間がないっていうんだもの」話の展開上とかなんとかって? よく知らないけど。投げやりに彼女はいってふん、とクイーンを見下ろした。

「いいじゃない、ありがたく思いなさいよね。わざわざ運んでやったんだからさ。ていうかそれをあんたいきなり攻撃して、礼儀に欠くと思わないの?」

「それは仕方がない」にまにまと、さっきからずっと傍観し続けているチャシャ猫が口を挟んだ。「クイーンはどうやら、悪巧みをしているようだからねぇ」

 この場所がばれるわけにはいかなかったんだろうさ。

「悪巧み?」

「チャシャ猫、お前には関係がないはずだ!」

「ありますよー? ありますともー。だってありすから白ウサギのところへ案内するようお願いされてる身ですから。おまけにありすは、この世界についてはまっさらさら。誰かが丁寧に教えてあげなくてはねぇ!」

「世界とわらわの計画になんの関係もなかろうが!」

「これからありすが暮らすこの世界を、壊してもらっちゃあ困るよねぇ」

 毛づくろいをしながら、チャシャ猫はしっかりとクイーンを見据える。

 それから視線を走らせ黒ウサギをみやり、彼の方が詳しいかも知れないけどねと付け加えた。

「そうなの? ウサギ」

「そ、そそそそそそそそそんなまさか!」

 激しく首を振りながら、黒ウサギは大量の汗をかきつつ縮こまる。



「男に振られた腹いせで国中をヤク漬けにしようなんて、そんなこと!」



 考えているわけがないじゃないですか! ――――三月ウサギの大自爆に、部屋が凍りついたのはほんの数瞬。この、大馬鹿者! と、クイーンが叫び返したことが、何より雄弁な証だった。

「……そんなこと考えていたの、あんた」

「えぇいうるさい、だからどうした!」

 どうしたって、あんたすっかり開き直って。あきれ返ってため息をついた時、部屋の入り口に、新たな人影が現れたことに気がついた。

「いやはや、興味深いお話ですねぇ」

 僕にも詳しく、お聞かせ願えますでしょうか?

 背高帽子に燕尾服、その手には今、ティーカップの代わりにステッキが握られている。ポケットから懐中時計を取り出して、十二時と三十分、穏やかな声で帽子屋は時刻を告げた。

「犯行を認めたということでよろしいですか? ジャバウォック」

「ジャバウォック? クイーンじゃないの?」

 クイーンはこの世でただひとり! そう教えたろう、ありす。あくび混じりにチャシャ猫は起き上がる。その通りと帽子屋も頷いた。

「彼女の名前はジャバウォック。指名手配中の犯罪者ですよ」

「指名手配。あんたそんなに大物なの?」

「はん。恐ろしくなったかえ?」

「ぜーんぜん」

 っていうか拍子抜けよ。

 言う彼女に、そのまま抑えておいてくださいね、と帽子屋が言ってふたりに近づく。そのまま確保しますから。いつもの穏やかな笑みのまま、上着の中から縄を取り出し言う。

(どこにそんなもの入ってたのよ)

 相変わらずめちゃくちゃな世界だと思いながら、ジャバウォックを見下ろしてにっこりと笑ってみせる。

「年貢の納め時に何か言いたい事はある?」

「もちろん。だが、今はまだその時では――――ないゆえなぁ!」

 ジャバウォックの叫びとともに、彼女の身体が宙に浮かんだ。



 立ち上がったジャバウォックが、そのまま彼女の身体を投げ飛ばす。驚きはしたものの、即座に受身をとって彼女は立ち上がった。なんつー馬鹿力よ。慌てて視線をジャバウォックのもとへと戻せば、ジャバウォックは窓際へと下がって黒い筒を取り出していた。

 艶のある黒い筒の、その先には小さな糸がついている。

 ……導火線、みたいな糸が。

「それ、まさかっ」

「くるでない!」

 押さえ込もうと近づいていた帽子屋を黒い筒、もといダイナマイトで制してジャバウォックは部屋全体を見回した。

「これ以上近づけばどうなるか、そちの足らぬ頭でも十二分にわかろう。ん?」

「あー……爆発しちゃいますよねぇ」

「爆発っていうか死んじゃうでしょう!」

 きっちり部屋の角へと逃げながらのんきに言う三月ウサギに、律儀にツッコミをいれて彼女はジャバウォックを振り返る。どう言おうか数瞬迷って、結局二時間サスペンスでお決まりのセリフを口にしてみる。

「こんなことしてなんになるのよ。あんたの罪を増やすだけよ?」

「かまうものか!」

 は、と自棄気味にジャバウォックは髪留めを外して壁にち、と擦りつけた。恐らくはリンでも塗っていたのだろう、ぼう、と擦った部分が発火した。

「……最初から、することにはかわりはない。この城を拠点に、この麻薬を国中に撒き散らす。知っているかえ? ここには首都へと流れゆく川があり、風の吹き溜まりがある。ここからなら、汚染された水を、風を、国中に散らすことができるのだよ」

 つまり。

「ここで爆破すれば、文字通り国中を薬付けにすることができるのさ」

「そんなの、みんな中毒になるかわからないじゃない!」

「全員がならなくてもよいのだ」ジャバウォックは静かにいった。「一部の……そう、ここに集めた薬の中でも特別効き目の高いやつは、たとえ微量でも吸収した者を虜にする。そうやって一部分の者たちが崩れ始めれば、いずれすべてが壊れてゆく」

 負の連鎖の完成よな。

 すわった目で囁くジャバウォックの『作戦』は、どこもかしこも穴だらけ矛盾だらけだ。それでもそれが成功すると信じて疑わないジャバウォックを前に、嫌な汗が彼女の背中を流れてゆく。

 火が導火線のもとへと近づく。咄嗟に投げた麺棒は、鞭によってはじかれた。

「邪魔をするな!」

 叫んで、ジャバウォックは彼女を強く睨みつけた。

「お前たちがいるから、『あれ』はわらわから去っていったのだ! わらわがお前たちなぞ最初から産まなければ、こんなことにはならなかったのに! 創造主たるわらわの幸せを邪魔した、その罪を破滅を持って贖うがいい!」

「あんたはクイーンじゃないんでしょうが!」

「わらわはクイーンだ!」

 だからこの国を壊す権利がある!

 導火線に火がついて、カウントダウンが開始される。駆け出した帽子屋を、ジャバウォックの鞭がしなって行く手を阻む。彼女もさせてたまるかと駆け出した。せめてあのダイナマイトを、外に放り投げることさえできるなら。

 鞭が捕らえた壊れたイスが、彼女に向かって飛んでくる。それを受け止め、彼女は砲丸投げの要領で身体を回転させると、思い切り投げ返した。

「クイーンだかなんだか知らないけれど、人様に八つ当たってんじゃないわよ」

 あたしはさっさと、この夢から覚めたいのよ!

 投げたイスがジャバウォックの手に当たって、ダイナマイトが零れ落ちる。しまった、と相手が動くよりはやく彼女はそれを奪って外へと投げた。

「ありすがこれから生きる世界を、壊してもらっちゃ困るといっただろう?」

 麺棒を拾ったチャシャ猫が、ごつんとジャバウォックの頭を叩く。

 ドレスがばたりと横たわって、騒動はひとまずの解決を迎えた。



 ぼさぼさになった髪を整え、スカートのすそを直して彼女はやれやれとジャバウォックへと近づいた。歩きながら取り上げた縄をつかって、ジャバウォックを締め上げるとため息をつく。

「どんないい男だか知らないけれど、子供が生まれたからって捨てる男、ふっちゃった方が正解なのにね」

「この方にお子様はいらっしゃいませんよ」

 きょとんと、三月ウサギが首を傾げる。

 え、と聞き返そうとしたありすを遮り、再び窓の枠に腰かけながらチャシャ猫は口を開いた。天秤をかけたのは、クイーンの方さ。

「ハートのクイーンはスペードのエースに恋をした。けれども国を守らなくてはならない身、クイーンはエースのもとから離れるという決断をする。だってこの国は子供そのもの! 守ることは天から与えられた使命だからね。……エースの側に、ずっといるわけにはいかなかった」

 驚いた顔でまじまじと見る彼女に、昔のことさと付け加える。

 その話ならきいたことがありますと立ち上がり近づいてきたのは帽子屋だった。

「スペードのエースも、自分の国の民を守らなければならなかった。だからふたりは一緒にいることはできなかった。かなしんだクイーンは、一年の半分以上を、極寒の雪国へと変えてしまった……と、そう、おとぎ話にはありますが。ジャバウォックが男にふられことを思いつめ己をクイーンと重ねたのなら、今回のことは考えられなくもありません」

 それでもおかしな点はつきないが。

「くだらない」

 は、と息を吐き出して、彼女はジャバウォックの額を指ではじいた。クイーンにしたってこいつにしたって、壊しちゃうぐらい好きなんだったら、そのまま別れなきゃよかったのよ。

「民も守って国も守って、その上でエースとやらと一緒にいられる方法を、あたしだったら探し出すわ。絶対にみつけだしてそうしてやる」

 あたしのモットーはね、有限実行なの。

 にやり笑う彼女に、チャシャ猫もにやりと意地悪く笑ってみせる。

 さて、ありす。

「何か忘れていることはないかなぁ!」

「忘れていること? ――――あぁ!」

 途端悲鳴をあげた彼女は、となりの帽子屋に掴みかかった。

「今何時!?」

「え、えーと……」悲鳴の原因に思い当たって、帽子屋の口元がひきつった。少々無理のある微笑を浮かべて、ハハハと乾いた笑いとともにこたえをいう。「一時ですかね、お昼の」

 帰った頃には夕方でしょうか?


 ――――タイムリミットは、お昼、まで。


 砂となる彼女と、一緒に午後のお茶にしませんかと焦る帽子屋と疲れ果てた三月ウサギに白ウサギ。めちゃくちゃになった部屋の中で、ひとりチャシャ猫だけが勝ち誇った笑い声を響かせていた。

 ジャバウォックは、確かにひとりの男に恋をして手ひどくふられて復讐を計画した。けれども彼女が何ゆえクイーンに成り代わろうとしたのかなど、誰もその理由はわからない。目覚めたジャバウォックでさえ、覚えてはいないだろう。

 今回の騒ぎで確かにこの国は危機を迎えた。それでも大量の麻薬が集められたことにより、一時期でも国内の麻薬の数が減ったことには違いない。結果的にみれば多くの民が救われたのだ。

 さぁクイーン、これで満足したでしょう。笑い声の中でチャシャ猫が呟いたことなどだぁれも聞いてはいやしない。

 拗ねるのも、これで終わりにしたらいかがです?

 ただひとり、軽やかな女の声が不機嫌な口調でチャシャ猫の言葉に返事を返した。仕方がない、おしいがこの身体は返してやろう。それから――――……

 それから、この国に本当の春を送らねばならぬな。

 古城を取り囲む枯れ木がいっきに花を開かせ、ピンク色の花びらが風にふかれて飛んでゆく。花びらが落ちた地面には色取り取りの花が咲き乱れ、春の息吹が、国中へと広がってゆく。

「こんな瞬間を、なんていったらいいんだろうね。ねぇありす?」

 窓の外の景色を眺めながらいうチャシャ猫の呟きに、彼女がこたえる余裕はまだないようだ。

 小麦粉を抱えた彼女の悲鳴が、幸せな森にこだました。





 あの騒動から、しばらく経った。

 彼女は夢から覚めないまま、この不可思議な国で生活を送っている。

 パン屋の朝は早く、店先の掃除と仕入れの確認、それから大将と自分の朝食を用意して、焼きあがった商品を店の中へと並べていく。チャシャ猫をはじめありすと呼ばれ続けたせいか、今更自分の名前を告げるのは妙な気恥ずかしさを覚えたし、何よりいささか面倒だった。とりあえずはこの日々を送りながら、何か事件を待つしかない。

 次のクエストを見つけたが最後、今度こそこの夢から覚めてやる。

 決意も新たに、今日も朝の準備をあらかたの準備が終えたところで、店先に置かれた麻袋を見つけ彼女はよいしょと持ち上げた。あれから白ウサギも反省したのか、それとも別のウサギをよこしてくれているのか、配達ミスは起こってはいない。

 また配達ミスが起これば、それがチャンスとなるのだろうに。彼女にしてみれば残念であることこの上ない。ため息をついて台の上に置いて袋を開く。そうして粉を舐め確かめた彼女の顔に、みるみるうちに笑顔が広がった。

 きたきたきたぁ! がっ、と左の握りこぶしを右の掌にぶつけてから、彼女は思い切りよく叫んで店を飛び出した。

「粉が違うんで、ウサギを捕まえに行ってきます!」

 昼前には戻って来いと、大将の声が春空に大きく響いた。

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