第一章「喋る八咫烏」
ある所に、自分の居場所を見つけられない少年がいました。
そんな彼にある日、思いがけない世界の扉が開きました。
その世界は今もひとりぼっちの少年少女の心の中にあり、ふとした拍子に物語が動き出します。
「おい、産業廃棄物!」
その声が聞こえ、龍之介が反射的に振り返ると、
ドスッ!
頬に拳がめり込んだ。
「うっ……!」
龍之介の体が大きくよろめき、持っていた鞄が地面に落ちた。
「ハハハハ!」
殴った西田が笑った。
その後ろでは、四人の取り巻きたちも腹を抱えて笑っている。
龍之介は地面に落ちた鞄を見つめた。
何も言わなかった。
言い返しても仕方がない。
どうせ、また殴られる。
西田はそんな龍之介の顔を覗き込むと、鼻で笑った。
「お前さあ、むかつくんだよ」
龍之介は黙っていた。
「学校来ても誰とも喋んねえし」
「……」
「お前、生きてて楽しい?」
その言葉だけは、妙に胸に残った。
西田は龍之介の肩を乱暴に押した。
「死ねよ」
「ハハハハハ!」
五人は笑いながら、そのまま歩いていった。
龍之介はしばらく動かなかった。
やがて、誰もいなくなった道に、一人で座り込んだ。
夕方だった。
空はオレンジ色に染まり、住宅街には家へ帰る子供たちの声が聞こえている。
けれど、その声は龍之介とは関係のない世界のものだった。
「……疲れたな」
龍之介は呟いた。
「本当に疲れた、、、」
返事はない。
当たり前だ。
話を聞いてくれる友達なんていない。
家に帰ったって、誰も待っていない。
龍之介の父親の龍騎、母親の美紅は、幼い頃に突然いなくなった。
その後、龍之介は親戚の家をいくつも転々とした。
そして今は、中学二年生だというのに、一人で暮らしている。
自分のことを心配してくれる人はいない。
家に帰っても一人。あまりに孤独だ。
そのように本当に何もない龍之介だったが、唯一のとりえと言ったら、なぜか怪我の直りがやたらと速いぐらいだった。
血を出すほどの大けがをしても一日、いや半日ほどたてば、けろっと治ってしまう。
ただそのことも、今ではいじめの際に、こいつは怪我の直りが速いからと、血が出るまで殴られたりする要因になってしまってる。
龍之介は、最近もう死んでしまうかと、よく考えていた。
そのときだった。
道路の向こうから、
「カァ……」
と、烏の鳴き声が聞こえた。
龍之介は顔を上げた。
道路を隔てた向こう側。
一本の古い電柱に、一羽の烏が止まっていた。
夕日に照らされて、真っ黒な影になっている。
龍之介は何となく、その烏を見つめた。
すると――。
「……ん?」
何かがおかしい。
龍之介は目を細めた。
烏の足元を見る。
一本。
二本。
そして――
「……三本?」
龍之介は立ち上がった。
目をこすった。
もう一度見る。
やっぱり三本ある。
「なんだ、あれ……」
三本足の烏。
そんなもの、見たことがない。
すると突然、その烏が龍之介のほうを向いた。
ぎょろり。
真っ黒な目が、まっすぐ龍之介を見つめた。
「……」
龍之介は思わず息を止めた。
烏はしばらく龍之介を見つめていたが、やがて翼を広げた。
バサッ!
大きな翼が夕暮れの空を打つ。
烏は電柱から飛び立った。
そして、道路を越え――
龍之介のほうへ向かって飛んできた。
「え?」
あまりにもまっすぐ飛んでくるので、龍之介は思わず一歩後ろへ下がった。
烏は龍之介の頭上を一度だけ旋回すると、その目の前にふわりと降り立った。
近くで見ると、やはり大きい。
そして、やはり足は三本ある。
龍之介は烏と目を合わせた。
「だいぶやられていたな」
「……え?」
龍之介は固まった。
今、何か聞こえた。
「だいぶやられていたな、と言っている」
烏がもう一度言った。
龍之介は口を開けたまま、その烏を見つめた。
「……しゃ、喋った?」
「そうだ」
「烏が?」
「烏だ」
「日本語で?」
「お前以外に日本語を話しているように見えるか?」
龍之介は言葉を失った。
烏は、何事もなかったかのように羽を整えている。
「……何なんだ、これは?」
「俺か?」
烏は首をかしげた。
「俺は金華の国の八咫烏だ」
「金華の国?」
聞いたことのない名前だった。
八咫烏は龍之介をじっと見つめた。
「お前、今の世界が嫌だろう」
龍之介は黙った。
「学校も嫌だ。家に帰っても一人。友達もいない」
「……」
「自分が何のために生きているのかも、よく分からない」
龍之介の胸がざわついた。
なぜ、この烏はそんなことを知っているのだろう。
「お前は、この世界にいるべきではない」
「……どういう意味?」
八咫烏は翼を広げた。
「来い」
「どこへ?」
「お前が本当に生きるべき世界へだ」
そう言うと、八咫烏は飛び立った。
「ちょっと!」
龍之介は慌てて立ち上がった。
八咫烏は少し先の電柱に止まり、龍之介を待っている。
「ついて来い」
「待ってよ!」
龍之介は走り出した。
何が何だか分からなかった。
ただ、不思議なことに――。
この烏について行かなければならないような気がした。
八咫烏は住宅街を抜け、さらにその先へ飛んでいった。
龍之介も必死に追いかけた。
やがて、見覚えのない道に出た。
その先に、大きなトンネルがあった。
龍之介は足を止めた。
「……ここ」
この辺りでは有名な場所だった。
近所の子供たちは、このトンネルを「最果てのトンネル」と呼んでいる。
昔、このトンネルに入った子供が消えた。
夜に入った人が、二度と戻ってこなかった。神隠しのトンネルだと。
そんな噂がある。
「ここを通る」
八咫烏が言った。
「……このトンネルを?」
「そうだ」
龍之介はトンネルの中を見た。
暗い、けれど、なぜか怖くなかった。
八咫烏が続ける。
「この先に、金華の国がある」
「……」
「ここを抜ければ、お前は金華の国へ行ける」
普通なら、そんな話を聞いたら笑うだろう。
「そんな国あるわけない」
そう言うはずだ。
でも、龍之介はそう言わなかった。
ここではない、どこかへ行けるというのなら。
それが本当なのか、嘘なのかなんて――。
今はどうでもよかった。
「……金華の国に行けば」
龍之介は言った。
「僕は、ここじゃないところで生きられるの?」
「ああ」
「……じゃあ、行く」
あまりにもあっさりした答えだったので、八咫烏のほうが少し黙った。
「もう少し考えなくていいのか?」
「いい」
龍之介は答えた。
「細かいことは、どうでもいい」
八咫烏は黙って龍之介を見た。
龍之介はトンネルを見つめていた。
「ここに残っても、何もないから」
八咫烏は、ゆっくりと翼を動かした。
「そうか」
そして、胸元から小さな包みを取り出した。
それを龍之介の手のひらに落とす。
「これは?」
「お守りだ」
古びた布で包まれた、小さなお守りだった。
中央には見たことのない紋様が描かれている。
「これを持ったまま、トンネルを通れ」
「……分かった」
龍之介はもう深く考えなかった。
八咫烏がそう言うなら、そうなのだろう。
嘘だろうと、幻覚だろうと、なんでもいい。今のこのどうしようもない現実から別の世界に行けるなら、
このお守りを握りしめ、トンネルを進んでやろうじゃないか。
そう思い、龍之介は一歩、足を踏み入れた。




