第一話:チルな隠居男と、隠された赤髪の呪い
ゴリゴリ、ゴリゴリ。
迷宮都市ディザイアの最下層。日の光も満足に届かない薄暗い路地の奥に佇むガラクタ屋『レイジ』の店内に、小気味よい音が響いていた。
店主のレイジは、お気に入りのアンティークミルをゆっくりと回し、焦茶色のコーヒー豆を丁寧に挽いている。ひとしきり豆を挽き終えると、ドリッパーに布を被せ、挽いたばかりのコーヒー粉でコーヒーを淹れ始める。
たっぷりのお湯を注いだ後、彼はカウンターの奥から琥珀色の蒸留酒が詰まった小瓶を取り出してきて、できあがったコーヒーにトト、と数滴垂らした。
「ふぅー......。やっぱり、良い酒精の香りが立つコーヒーは旨ぇよなぁ」
誰に聞かせるでもなくそう呟き、出来上がった特製コーヒーを口に含む。至福の苦味とアルコールの熱が心地よく脳を痺れさせ、レイジは深々と椅子の背もたれに体を預けた。
この街の人間が見たら、狂人か、さもなくば極度の怠け者と罵るだろう。
迷宮都市ディザイア。ここは、人間の強い感情や願いが呪いへと変換される『想呪の枷(ディザイア=カースシステム)』によって成り立つ街だ。誰もが「もっと強く」「もっと金を」「もっと名誉を」と血眼になり、願えば願うほど強い願望の代償として『希求の呪い(アワリティア)』に心を蝕まれながら生きている。ところが、この狂奔の都市にありながら、レイジには野望というものが一ミリもなかった。
今朝のスープが美味かった。お気に入りの豆でコーヒーが淹れられた。昼間からちょっと上等な酒が飲める。
あるがままの「今、この瞬間」に満足している彼にとって、この世はすでにクリア済みのゲームのエピローグのようなものだった。
――その平穏が、凄まじい勢いで叩きつけられたドアの音によって破られたのは、まさにその直後のことだった。
バシャァアン!と、建付けの悪い扉が悲鳴を上げる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
敷居を跨いで滑り込むように入ってきたのは、燃えるようなセミロングを頭の後ろで結んで揺らす、一人の少女だった。
フィア・ローゼンライト。ギルドでも注目の若手剣士であり、名門騎士家の令嬢。赤系の意思のはっきりした瞳と、凛とした佇まいで知られる少女だ。
「......おいおい、ずいぶんと物騒なモヤモヤを背負ってきたな、お嬢ちゃん」
レイジはコーヒーカップを置くこともせず、めんどくさそうに片目を細めた。
フィア自身、そして彼女の周囲の人間は気づいていないだろう。周囲の者たちにとって、今の彼女は「最近少し疲れている」「連戦で顔色が悪い」程度に見えているはずだ。だが、教会外の『解呪』の使い手であり、呪いを祓う目を持つレイジには、はっきりと見えていた。
彼女の華奢な肩から背中、全身に、ドロドロとした不気味な黒い霧――強すぎる焦燥と執着が生み出す『希求の呪い(アワリティア)』が、まるで蛇のように巻き付き、その心を締め付けているのが。
「ギルドからの……要修繕品……奥に積んでます。……引き渡しのサインを……貰いに……来ました」
フィアは息を切らしながら、掠れた声でそう言った。その手には、ギルドの正式な依頼受領書が握られている。だが、その指先は力みすぎて真っ白になっており、呼吸は浅く、狂おしいほどの焦りが全身から刺すように伝わってきた。
「はいはい、修繕の商品ね。ちょっと待ってな、今確認するから」
レイジはのっそりと立ち上がると、裏の窓の外に山積みにされたガラクタを面倒くさそうに眺め始めた。
「急いで……ください。私には、時間がないんです。早く次の依頼の準備を、すぐにでも始めなきゃいけないから……」
「そんなに焦ってどこに行く。嬢ちゃん、せっかくここまで来たんだ、まあ座れよ。お茶でも出してやろう?」
「結構です!」
フィアは鋭い声でレイジの提案を拒絶した。彼女の赤目の奥に、切迫した苛立ちの炎が燃え上がる。
「私は早くA級に上がらなきゃいけないの。完璧でいなきゃいけないの。立ち止まっている時間なんて、一秒もないわ!だから、早く、早く手続きをしてください……っ!」
完璧主義という名の強迫観念。もっと結果を出さなければ自分には価値がないという焦り。
その強い執念に呼応するように、レイジの目に映る彼女の背後の黒い霧が、さらにドス黒く、深く渦巻き始めた。アワリティアが、彼女の焦りを餌にして急速に肥大化していく。
「あーあ、だから急ぐなって言ったのに……」
レイジがため息交じりに呟いた、その瞬間だった。
フィアがギルドの書類をレイジに突きつけようと一歩踏み出した瞬間、彼女の視界がぐにゃりと歪んだ。全身を縛る黒い霧が、彼女の心と体を強く冷酷に締め付ける。
「え――」
視界が急速に色を失い、足の先から感覚が消えていく。冷たい闇が脳裏をよぎり、フィアの膝から一瞬にして力が抜けた。
「あっ......」
受け止めようのない強い眩暈が彼女を襲う。フィアの華奢な体が重力に逆らえず、ガラクタが乱雑に積み上げられた床に向かって、激しく倒れ込むように傾いていった。
初投稿です。よろしくお願いいたします。
「何も求めない主人公」を書くにあたって、まずレイジの一日の解像度を上げることから始めました。コーヒーを挽く、豆を選ぶ。そういう小さな満足だけで完結している人間を書くのは、実は結構な胆力が要ります。
次話、その平穏な店に、崩れ落ちた少女がもたらす厄介な依頼が舞い込みます。よろしければブックマークで見守っていただけると嬉しいです。




