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誰かの強い思い

作者: 村崎羯諦
掲載日:2026/04/26

「誰かの強い思いが、あなたに触れていますね」


 占い師は俺の手を離し、そう言った。穏やかだが、どこか確信めいた口調だった。


 ここ数週間、原因のわからない不調が続いている。熱もないし、病院を受診しても異常は見つからない。ただ、朝から晩まで、体のどこかに重りをつけられているような感覚があった。


 椅子から立ち上がるとき、ほんのわずかに遅れたり、腕を上げるとき、空気の抵抗が増えたように感じる。どれも些細なことだが、まるで見えない何かに身体を押さえつけられている、そんな感覚。医者には過労、あるいはストレスでしょうと言われるだけで、それ以上の説明はなかった。


 元々占いみたいな霊的なものを信じるタイプではなかった。ただ、出張先からの帰り、ふと占いという看板が目についた時に、同僚に勧められたことを思い出して寄っただけだった。


「心当たりはありませんか」


 占い師は静かに続ける。すぐには答えられなかった。よくわからないですねとその場では受け流し、お金を払って、その場を後にする。だが、店を出てからも、占い師の言葉が頭から離れなかった。


 誰かの強い思い。


 それを考えたとき、ひとりだけ浮かぶ人物がいた。去年、亡くなった妻の兄だ。


 妻の兄には実の弟のようにとても可愛がってもらっていた。


 最初に会ったときは、正直に言って、どう接していいかわからなかった。無口な人で、必要以上のことは話さない。こちらが何か言えば、短く返すだけの人だった。


 だが、あるとき、実家に顔を出した際、義兄がキッチンで何かをしているのを見かけた。フライパンに火をかけて、簡単なものを作っているようだった。声をかけていいのかわからないまま後ろの席から眺めていると、いつのまにか皿がもう一枚用意されていることに気がつく


「どうぞ」


 義兄が料理の乗った皿を差し出しながら俺に言う。断る理由もなく、そのまま受け取った。シンプルな味付けで無駄がないのが、どこか義兄らしかった。


 自分でやること多いんですかと俺が聞くと、そうなんだよねとだけ返ってくる。それ以上は続かなかったが、不思議と気まずさはなかった。


 それからも、実家で顔を合わせるたびに、少しずつ話をするようになった。長い会話ではない。ほんの一言二言のやり取りが増えていっただけだ。


 それでも、前よりは相手のことがわかるようになった気がしたし、向こうも同じだったと思う。


 末期癌で入院した義兄を見舞いに行ったときも、雰囲気はあまり変わらなかった。相変わらず言葉は少ない。だが、以前よりもこちらを見る時間が長かった。


 帰る前に、呼び止められた。


「あいつのこと、頼む」


 いつもより、はっきりとした声だった。俺は少しだけ考えてから、頷いた。


「わかりました」


 兄は、ほんのわずかに表情を緩めた。少し間を置いてから、続けた。


「……妹は昔から、感情をあんまり表に出さないタイプなんで」


 それだけ言って、視線を外した。それが、最後の会話になった。


 あいつのこと、頼む。


 占いからの帰り道、義兄が残したその言葉が何度も頭に思い浮かぶ。それはきっと、妻とここしばらく、まともに話していないことが関係している。会話がないわけではないが、必要なことだけで終わる。以前のように、何かを共有することもなかった。冷え切った夫婦。誰かが俺たちの姿を見たら、きっとそう評されるのだろう。


 きっかけは些細なことだった。


 仕事関係で知り合った女と、何度か二人で会っていた。やましいことは何もなかった、とは言い切れないが、大したことでもないと思っていた。


 だが、妻には見つかった。感情をぶつけられたわけではなかった。責められるでもなく、問い詰められるでもなく、ただ静かに話をされた。それが、かえってやりにくかった。


「もういいよ」


 あのときの妻は言った。声は落ち着いていたが、それ以上は何も続かなかった。


 修復しようと思えばできたのかもしれない。だが、何をどうすればいいのかがわからず、結局仕事に逃げ、何もせずにいた。身体のだるさが出始めたのも、今思い返せばその頃からだった。


 誰かの強い思い。


 占い師の言葉と、義兄の声が、同じ線で繋がる。義兄が何もしていない俺を見て、何を思うだろうか。このままじゃダメだと俺を叱ってくれているのかもしれない。根拠も説得力もない、都合のいい考え方。それでも、それが原因だと考えた時、不思議と俺は納得できるような気がした。


 その日から、俺は少しずつ態度を変えた。


 帰宅したら、必ず声をかける。食事のあとも、すぐに席を立たず、短くても会話をする。以前なら流していたような話にも、きちんと相槌を打つ。


 無理に踏み込むことはしなかったが、距離を詰めようとはした。最初、妻は特に反応を示さなかった。だが、拒まれることもなかった。


 数日続けるうちに、やり取りが少しだけ増えた。それだけでも、十分な変化に思えた。


 週末には、一人で義兄の墓参りにも行った。線香をあげて、手を合わせる。何を言うでもなく、しばらくそのまま目を閉じていた。うまく言葉にはできなかったが、伝えるべきことはわかっていた。


 ちゃんとやります。


 俺は心の中で、そう誓った。風が少し吹いて、線香の煙が少しだけ揺れていた。


「相変わらず強い思いがあなたに触れています」


 最初に訪れた時から数ヶ月後、再び占い師のもとを訪ねた際、占い師はそう言った。


「ただ、それと同時に優しく暖かな気が、あなたを守るかのようにあなたを包みこんでいます」


 実際、ここ数ヶ月は少しずつ身体のだるさが和らいでいっていた。最初の頃のような、引きずる感覚はなくなっていた。朝起きるときの抵抗も、いつの間にか軽くなっている。


 やはり、そういうことだったのだと俺は思った。


 俺の行動が足りていなかった。それを、義兄が伝えようとしていた。それが終わったから、戻った。そう考えると、すべての辻褄が合うような気がする。


 以前より、少しだけ会話が増えた食卓で、俺は心の中で頷いた。


「一時期体調が悪かったんだけどさ、最近良くなってきたんだ」


 箸を置いて、俺は言った。仲が冷え切っていた時には言えてなかったことを俺は初めて妻に伝えた。妻は顔をあげ、少しだけ驚いた表情を浮かべた後で、そうなんだと相槌を打った。


 妻はそれ以上、何も言わなかった。ただ小さく頷いて、食事を続ける。そのまま会話は途切れたが、居心地に悪い沈黙ではなかった。


 ありがとうございます。これからも見守っていてください。


 俺は食器を流し台へと持っていく妻の姿を眺めながら、小さな声で呟いた。


 少しずつ。少しずつではあるが俺たちは出会ったころと同じように、手を取り合って歩いていける。俺は洗い物を始める妻の姿を見ながら、そう確信する。台所で妻が水が流し始める。蛇口から出た水が食器で跳ね返る音に混じって、愛しい妻の小さな独り言が聞こえたような気がした。


「……毒の量は変えてないのに、耐性がついちゃったのかしら。量、増やさないとね」

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