第5話 正体
翌朝、凛華は軍営内の牢獄へおもむき、最奥にある扉を開けた。
質素な寝台の上には、青白い顔をした男が目を閉じ横たわっている。
「あんなに血を失っても死にはしないか……。やはり男の体は違うな」
皮肉交じりにつぶやきながら、傍らの椅子に深く腰かけた 凛華。
「副将たちは、お前を敵軍の密偵だと疑っているようだが、それは違うな?」
問いかけると、皓月はゆっくりと瞼を開けた。
細く差し込む朝日に照らされた眼差しには、疲労と激情の余韻が残っている。
「お前の部下たちは昨夜の襲撃を何も知らなかったし、所持しているものを見ても、我が国の文官であることは間違いない。それに、陛下が腰を悪くしていることは、陛下に近しい者しか知らないはず」
皓月は顔だけを凛華のほうへ傾けると、観念したように静かに告げた。
「……その通りです。私は表向きは観察官として働きながら、皇帝直属の特務機関にも属していました」
特務機関───その存在は噂されるのみで、実態は謎に包まれていた。
敵国への密偵行為や、時に重臣や皇族の暗殺にさえ手を染める存在は、誰にも知られず、帝国の最も暗い部分を担っている。
「やはりそうか」
凛華は驚かない。
彼の年齢にそぐわない落ち着き、先を見通す戦略眼、そして咄嗟に凛華を救った身のこなしは、ただの監察官ではないことを物語っていた。
「将軍どのが都を離れて数年経ちますが、辺境の地で活躍する女将軍の評判を耳にしない日はありませんでした。あなたの武功は、国中の民を勇気づけ、兵を奮い立たせているのです」
か細かった声はだんだんと張りを取り戻す。
皓月は、無傷の右腕を支えにして上体を起こした。
「あなたを可愛がっていた陛下も、はじめはお喜びでした。しかし、次第に猜疑心を募らせ、怯えるようになりました。いつかあなたが反旗を翻すのではないかと。今のあなたは、陛下にとって敵国以上の脅威なのです」
「そうか。陛下が……」
凛華は視線を落とし唇を噛みしめる。
続く言葉は、自分の口からは言い出せない。
その代わりに皓月が、重い真実を口にした。
「私の任務ははじめから、辺境軍総司令官……将軍どのを暗殺することでした。敵軍に情報を流し、夜襲を仕掛けたのはそのためです」
その意味を噛みしめるように、凛華は静かに目を閉じる。
“『凛華』”
そう名を呼び、頭を撫でてくれた優しい男の笑顔が、まぶたの裏によみがえる。
両親のいない凛華にとって皇帝は、実の父のような存在だった。
しかし凛華が今、将軍として命がけの任務に身を投じているように、皇帝にも国を統べる者としての、非情な孤独とゆずれぬ責務があるのだろう。
しばらくすると凛華は、覚悟を決めたように瞼を開けた。
腰に差していた短刀を抜き、寝台の枕元へ置く。
「さあ、任務を遂行しろ」
短刀の刃は、朝の光を鈍く反射する。
皓月は見開いた目でその冷たい輝きを見た。
「どうして……」
「私の命は、国のためにある。陛下の疑念を晴らせるのなら安いものだ」
皓月はぐっと奥歯を噛みしめたあと、凛華を睨み上げる。
そして初めて声を荒げた。
「自分を軽んじるな!いったい何のために、俺が───」
それは監察官でも暗殺者でもない、感情に引き裂かれた一人の男の叫びだった。
激昂にひるむことなく、凛華は冷静に告げる。
「私は将軍だ。命に代えても大切なものを守りぬく。この辺境の地、兵士たち……そして皓月、お前もだ」
優しい眼差しを向けられ、皓月は、射抜かれたように喉を塞がれる。
「……」
皓月の任務は常に命と隣り合わせだ。ここで凛華を殺せなければ当然、彼自身が始末される。
その上、たとえ今回が失敗したとしても、皇帝は同じような刺客を何度も送ってくるだろう。
その度にこの砦は危機にさらされる。敵軍によってではなく、母国によって。
この地を守る凛華が、そのような窮状を許すわけにはいかない。
「都で私は英雄なのだろう?ならば最後まで、誇り高い将軍のままでいさせてくれ」
震える皓月の手に、凛華は短刀を握らせた。
戦場を生き抜いた武人でありながら、軍服を脱いだ彼女はあまりにも細く、しなやかだった。
「そんなに肩書が大事か……」
苦々しそうに吐き捨てると、皓月は短刀を床に投げつける。
金属音が響くと同時に、凛華の肩を乱暴に掴み、寝台へ押し倒した。
そして彼女の髪を結っていた髪紐を、力任せに引きちぎる。
生成り色の木綿の上で、漆黒の髪が乱れ広がった。
「ならば……将軍でなくなればいい」
凛華の顔に覆いかぶさるようにして低く囁く 。左肩の包帯には赤い血がにじんでいた。
男を縛り続けていた苦悩と切実な祈りが、むき出しの感情となって降り注ぐ。
「……ただの女には戻れないさ」
荒い呼吸の下で、凛華は静かに笑った。
「私は戦うことでしか生きられない。それに……お前と出会うのが遅すぎた」
傷だらけの小さな手が皓月の頬に触れ、指先で涙を拭う。
外では雲が太陽を隠し、部屋は薄闇に包まれた。
ふたりの視線が絡み合う。
後悔、苦悩、憎悪、愛、諦観────すべてが熱情の上で混ざり合い、理性は音を立てて崩れた。




