第3話 おとり作戦
「先日、敵は水路への毒混入を試みました。次に我々が警戒すべきは、歩兵による侵入でしょう。しかし荒野に囲われたこの砦は、四方のどこから敵が侵入するかを読むのが困難です」
その夜、軍議に参加した皓月《ハオユエ》は、地図上のある一点を指し示した。
それは砦の東側、風化によってできた岩肌の裂け目だ。
「東側にあるこの裂け目をわざと拡張すれば、新たな侵入路となります。敵の目を引きつけるのに有効かと」
「敵の進入口を増やすというのか!?」
まっさきに副将が声を上げた。
「これはいわば囮です。我々も東側に戦力を集中させ待ち構えれば、容易に敵を捕縛できるでしょう」
戦闘の実績もない、ただの文官による思いがけない提案に、兵士たちからも次々と疑問や罵倒の声が上がる。
「馬鹿げている」
「そんなにうまくいくものか!」
騒然となる場内で、凛華はひとり落ち着いた様子で、静かにたずねた。
「兵の数は限られている。どこから人員を持ってくるつもりだ?」
即座に答える皓月。
「南側の監視塔周辺は、地形が複雑で騎馬隊には不向きであり、土地勘の薄い北狼軍に突破される可能性は低い。南の兵を半減させ、その分を東に回しましょう」
そう説く姿は一介の監察官を越えて、もはや戦場を知り尽くした軍師のようだった。
凛華は話を聞き終えると、大きくうなずいたのち拳で机を叩く。
「よし。作戦を決行する。岩の裂け目は明日中に工兵隊に作業させ、南側の巡回騎馬隊の半分を東に回せ」
「将軍!都の文官の提案を、なぜそこまで…… 」
副将がまたもや反論の声を上げた。
南側の警戒を緩め、戦力を東に偏らせる──それは砦の防衛上、限りなく危険な「盲点」を生み出す行為だ 。
しかし凛華は副将を睨みつけた。
「口を慎め!誰が何と言おうと、私は皓月の戦略眼を信じる」
その言葉には、一片の疑いもなかった。
彼女の皓月への信頼は、もはや妄信的ともいえるほどで、周囲はこれ以上口を出せない。
その後、机を囲んでいた兵士たちが退出する。
静寂が戻った部屋には、まだ激論の余韻がわずかに漂っていた。
凛華は立ち上がると窓辺へ向かい、冷たい夜風を吸い込んだ。
「良いのですか?部下たちの反対を押し切ってまで、私を信じるなど」
その背後に立った皓月が、静かに問いかけた。
凛華は夜空に浮かぶ薄い月を見上げながら答える。
「私は己を信じたにすぎない。それに……」
言いかけて背後をふり返ると、想像よりずっと近くに皓月は立っていた。
「お前は人に頼るのが苦手だろう?」
「……どうしてそんなことを」
その瞳は夜の湖のような美しさでありながら、孤独な迷い子のように震えている。
「私がそうだからだ」
「……」
「安心しろ。お前のことは私が守る」
戸惑う青年の肩に、凛華はそっと手を置いて微笑んだ。
いつもよりわずかに高い体温が、官服を通して伝わる。
*
それから十日ほどが過ぎた頃。
辺境では珍しく雨が降り、夜になってようやく上がった。
砦を包む夜の静寂を破ったのは、軍営の内部から響く金属音と悲鳴だった。
「敵襲! 先頭はすでに内部に侵入しました!」
宿舎で眠っていた凛華は長刀を手に飛び起きた。
「侵入経路はどこだ!?」
「調査中ですが、敵の多くは東側から向かってきています。おそらくあの岩の裂け目かと……」
予想外の報告に凛華は一瞬言葉を失う。
「あそこには一日中厳重な警備を張っている。一次突破されるだけならまだしも、ここまで何も連絡がないなど────」
敵兵の規模を考えれば、東側が簡単に破られるはずがない。
それなのに、すでに軍営の中枢にまで足を踏み入れているとは。
通信系統すら破壊されたというのか────?
焦燥感のなか、疑問が次々と浮かぶ。
しかし、今は考えている暇はない。
凛華はまっ先に皓月の部屋へと向かい、戸を開けると、怒鳴るように指示した。
「皓月!地下の物資庫に隠れていろ!私は東へ迎撃に向かう! 」
「将軍どの……」
寝間着姿のまま立ち尽くす皓月を一瞥し、凛華は長刀を構えて駆け出した。
*
皓月は廊下へ出て、凛華の背中を見送った。
幸い、敵軍は宿舎までは来ていないようだ。
兵士たちは既に応戦へ向かい、下女たちが悲鳴を上げながら、地下倉庫の入口へと走っている。
彼は白い寝間着の上から急いで官服をまとい、皆と反対方向に向かって歩いた。
軍営を出た皓月はその足で南側へ向かう。
雨上がりのぬかるむ土の上を、正確な足運びで、目的の場所へと近づいていく。
ようやく監視塔へたどり着いた彼は立ち止まり、思わず目を見開いた。
「これは……」
そこに広がる光景は、彼の予想したものではなかったからだ。
砦の壁の陰には、多くの兵たちが弓を構えている。
ここの警備体制は、東側へ回すために削減したはずだ。
しかし今は半減どころか、かつての倍ほどの兵が厳重な警戒態勢を敷いている。
そして監視塔の下には、侵入を試みたであろう北狼軍の兵たちが、縛り上げられた形で横たわっていた。
「遅いぞ、皓月」
捕縛された敵兵たちを背に立っていたのは、甲冑に身を包み、長刀を肩に担いだ女将軍。
兵士たちと共に東側へ向かったはずの凛華だった。
「将軍どの……?」
彼女は皓月の想像よりもはるかに冷静で、すべてを見透かしたように微笑んでいた。




