【第9話】逃走(1)
テーブルの上のマグカップから、湯気がたちのぼっている。
梅雨があけて、昼間はすっかり夏の陽気だったというのに、今夜は、ばかみたいに冷えている。
山の上だからだろうか?
ふっと息をふきかけて、珈琲をのんだ。
「ん…………?」あまい。
おれはさらに、テーブルの上に置かれた、ちいさなミルクポットのなかのミルクを、どばっと珈琲に入れてかきまぜた。
テーブルのむかいの席には、もうしわけなさそうな顔をしたサトミがすわっている。
「もう、平気だよ。どこも痛くないもん」
本当に体は、どこも痛くなかった。
やわらかい土の上だったからとはいえ、あの高さから落ちても無傷だなんて、我ながら信じられないほど丈夫な体だ。
しかしそんなことよりも、肖像画や、あの変な物体から発せられた不気味な声のほうが、おれには気になってしかたがなかった。
サトミに言うべきだろうか。
「なにか、見たんでしょ?」
黙ったまま考えこんでいたおれに、サトミが話しかけてきた。
「あすなろの木の上で、ケンヂくん、なにかすごくおどろいていたもの」
言うべきだろうか――。
時計を見ると、まだ四時をまわったばかり。
せめて、この不気味な出来事は、日がのぼって明るくなってから話したほうがいいかもしれない。
「満月の夜にやってくるの」
黙りこんでいるおれに向かって、サトミがとうとつに話しはじめた。
「いつもはわたしを見るだけで帰っていく。でも今夜はちがう。わたしを一緒に連れていこうとしているのよ。だから、今夜はひとりになりたくなかったの。
誰かがいれば……。ケンヂくんが一緒にいるのを見せれば、あきらめてくれるだろうと思って……」
サトミがなにを言っているのか、おれにはさっぱりわからなかった。
「どういう……こと?」
「だから……」
言いかけたまま、サトミはうつむいてしまった。
もう一度、どういうことなのか、たずねようと口をあけたとき、サトミがこたえた。
「出るのよ、うち……」
口をあけたまま、かたまってしまった。
マグカップをもつ腕にも、鳥肌が走る。
「だからケンヂくん、ごめんね。きょうはもう帰って……」
「帰ってって……。そんな話を聞いて、サトミをひとりにさせるわけないだろ!」
「でも、わたしの問題だし……。ケンヂくんにはこれ以上、迷惑かけられない……」
ゴトリ。
ふいに聞こえた低い足音に、おれたちは目を見合わせたまま、耳をすませた。
ゴトリ……。ゴトリ……。
ふたり同時に天井を見上げる。その音は、たしかに天井から聞こえてきた。
天井を見つめたまま、サトミがこわばった表情でつぶやく。
「来たんだ……」




