【短編小説】ヒラタ 爆炎
昼下がりの陽に照らされた黒板は不明瞭な文字で埋め尽くされていた。
ランドセルを机に置いたおれたち学童は緊張しながらチャイムを聞いている。
黒板の前に立つ赤い顔をしたヒラタは、指紋で白く汚れた眼鏡の奥に爛々と光る目を見開き
「泡風船!」
と叫んだ。
そして口角の端に溜まった唾泡を大きく膨らませると一気呵成に破裂させた。
ヒラタの唾泡が飛び散り女子生徒たちは悲鳴を上げて逃げ惑う。
おれたち男子は飛び散った泡の片鱗をお互いになすりつけ合った。
ホームルーム延長戦の教室は阿鼻叫喚となり、ヒラタは満足気に頷いた。
そして教卓の一番下にある引き出しから一升瓶を取り出して口に咥えると、瓶を大きく回しながら中の液体を一気に飲み込んだ。
「ヒラタ!」
誰かが叫んだ。
ヒラタは嫌われ教員だった。
何よりもアル中であった。
嫌われ教員ヒラタは、卒業生を見送りたいと言う一心で5年生と6年生を受け持つと言って聞かなかったらしい。
昨年までおれたちの担任をしていたムラタじゃなくなった事に心底ガッカリした。
みんなムラタが好きだった。
その反動で、ヒラタに対する生徒からの評判はすこぶる悪かった。
おれたちはムラタに送られて卒業したかった。
ムラタはジジイ教員の癖に、給食の早食いで生徒と真剣勝負をするような茶目っ気があった。
「良く噛んで食え」
みたいな説教はしなかった。
ムラタは教室に備えてあったテレビで公共放送の連ドラだって見せてくれた。
ムラタは休み時間に打つ将棋の相手だって真剣だったし、放課後に相撲をやっても手加減しなかった。
でも危ないことをすれば本気で叱ったし、授業だって厳しかった。
みんな、そんなムラタが好きだった。
「ヒラタ!」
誰かの絶叫が教室に響く。
「死ねよ!」
子どもの願いは純粋だ。
なんでヒラタがしゃしゃり出てきたのか、みんな分からなかった。
ヒラタはジジイと言うには少し若いオッサンだったが、ムラタの真逆みたいな人間だった。
鬱陶しかったし、馴れ馴れしかった。
ヒラタが目指した学園生活と、おれたちが望んだ学園生活は乖離していた。
だからヒラタは最初から好かれていなかった。ヒラタは嫌われていた。
ヒラタもそれは分かってしまっていた。
小学校と言う狭い空間で楽しくやるには歴史が必要だった。
おれたちとムラタは歴史を積み上げた。
おれたちとヒラタにはあまりにも歴史が不足していた。
ヒラタが教育として教えてくれた唯一のこと、それは人と人が一緒に過ごすには歴史が必要になると言う事かも知れない。
「ヒラタ!臭えんだよ!」
ヒラタは煙草臭かった。
時には教室にあるベランダで吸う事もあった。もしかしたら反権力とか、ロックだとかそう言う事なのかも知れない。
そうでなければ、アルコールが脳みそにまで回っていたんだろう。
「帰れよヒラタ!」
ヒラタはそれでも、おれたちに好かれようと色々やった。
その全てが裏目に出ていた。
「ヒラタ死なねぇかな」
おれたちはヒラタの湯呑みに、糊の乾いたやつだとかを放り込んだりフロッピーディスクに磁石をくっ付けたりした。
給食に鼻くそや唾を入れた。
それは闘争だった。
愛されたいヒラタと、そのヒラタに対する憎悪やヒラタの愛を拒む生徒たちの闘争だった。
そしてヒラタは狂った。
おれたちがヒタラを狂わせた。
狂ったヒラタはホームルーム延長戦を始めた。そして唾泡を破裂させた。
闘争や性交で混乱する教室を見ていたヒラタは、次々と一升瓶を取り出してはぐるぐると回して瓶の中に渦巻きを作りながら飲み干していった。
ヒラタが次第に巨大化し始めた。
騒いでいたおれたちは静まり返ってヒラタの動きを見ていた。
水風船みたいに膨らんでいくヒラタは、その皮膚が膨張するに従って青い血管や臓器を透けさせていた。
「気持ち悪いんだよ、ヒラタ」
誰かが言った。
ヒラタは声を出さずに笑っていた。
赤く膨れ上がったヒラタは夕陽を受けて金色に輝いている。
放課後の教室は緊張と言う名前の糸で縛り上げられていた。
ヒラタは飲み続けていた一升瓶を口から離すと大きく息を吸い込み、飲み干した酒を口から噴射した。
それはプロレスラーの毒霧みたいに広がり、昼下がりの教室に虹をかけた。
そしていつのまにヒラタが手にしていた煙草には火が付いていて、それを口元にやると教室は一気に炎で包まれた。
おれたちは悲鳴をあげる余裕もなかった。
教室はヒラタの業火に焼かれた。
ヒラタは酒を噴出し続けて元の体型に戻りながら教室を燃やした。
おれたちは焼かれた。
そしておれたちを焼き尽くして満足したのか、ヒラタは笑顔で大きく頷き、ゆっくりと泡になると、
「泡風船!」
そう叫び溶けて消えた。




