#009 第二の問いかけ
腕相撲での惨敗という、僕の論理体系を根底から揺るがす事件から一週間。僕の日常は、「美生奈先輩」という名の予測不能なバグによって、静かに侵食され始めていた。そんなある日の午後、アンファングの地下ドックに、けたたましいアラートが鳴り響いた。
『緊急警報。埼玉県北西部、秩父山間部にて所属不明の大型生命体を確認。コードネーム『遺失進化体』と呼称。現在、陸上防衛軍の量産型戦術機TYPE-89 金剛が交戦中なるも、甚大な被害が発生。プロジェクト・アンファングに対し、出撃を要請します』
メインモニターに、リアルタイムの衛星映像が映し出される。そこには、山肌を、まるで巨大な菌類か粘菌のような、おぞましい紫色のナマモノが覆い尽くしている光景があった。その中心部からは、深海生物と植物が融合したかのような、グロテスクな形状の巨大な個体が、周囲に胞子のようなものを撒き散らしている。
そして、その周囲で、まるで玩具のように破壊されていく、数機の量産型ロボットの姿。
「……来たか」
隣の管制室から、ガラス越しに蟹江教授の声が響く。いつの間にか、彼の周りには、新たに召集されたオペレーターたちが集結し、慌ただしくコンソールを叩いていた。
「物部くん、琴吹くん!急ぎたまえ!宇宙からの『問いかけ』の第二問だ。今度はどんな数式で我々を試すつもりかな!」
「了解しました」
僕の返答は、短く、そして重かった。
隣を見ると、美生奈先輩はすでに覚悟を決めた顔で、専用スーツのロッカーへと向かっている。ちなみに当然のことながらパイロットスーツは先輩のサイズに仕立て上げられているので、もう窮屈なスーツに悩まされることはない。
「愛都くん、行くよ」
「……はい、美生奈先輩」
僕の口から自然に出たその呼称に、彼女は一瞬満足げに微笑んだ。もはや、この屈辱的な関係性にも慣れつつある自分が、忌々しい。
「全システム、オンライン。プライマリ、物部愛都。セカンダリ……」
『琴吹美生奈。正規パイロットとして認証』
マックスウェルの声に続き、管制室から若い女性オペレーターの声がコックピットに届く。
「こちら管制室の矢崎です。アンファング、発進準備完了。カタパルト、射出シーケンスに入ります!」
前回とは違う。僕たちだけではない。僕たちを支え、導く「目」と「耳」がある。
「「アンファング!」」
凄まじいGと共に、純白の巨人が地上へと射出される。輸送機に懸架されたアンファングは、一路、埼玉の山間部を目指した。
現地の上空に到達し、輸送機から切り離される。アンファングは、まるで巨大な猛禽類のように、音もなく汚染された森の中心部へと降下した。
眼下に広がる光景は、地獄そのものだった。木々は枯れ、地面は紫色の菌糸に覆われている。大気中には、目に見えるほどの濃さで黄色い胞子が舞っていた。
『警告。機体外壁に付着した未知の微生物が、装甲を侵食しています。侵食速度、毎分0.08ミリ』
「なんだと!?」
「自己修復ゲルの修復速度を上回ってる……!なんて生命力なの……!」
美生奈先輩が、驚愕の声を上げる。
『目標、正面より接近!』
オペレーターの警告と同時に、森の奥から、巨大なムカデに花弁のような捕食器官がついた、おぞましい姿のロスト・エヴォルヴが複数、姿を現した。
「くっ……!」
僕は咄嗟に操縦桿を握り、「ツェルニク・プロジェクター」を構えた。だが、その照準が定まるよりも早く、敵の一体が口から粘性の高い液体を吐き出してきた。
「愛都くん、避けて!」
「言われなくとも!」
アンファングは、その生物的な人工筋肉の動きで、辛うじて液体を回避する。僕たちの背後にあった岩山が、液体に触れた瞬間、ジュウッと音を立てて溶けていく。強酸性だ。
「矢崎さん!敵の分析データを!」
美生奈先輩が、冷静に指示を飛ばす。
『送ります!……これは……!敵の体組織、そして周囲の胞子からも、現代の地球の生態系には存在しない、未知のアミノ酸が検出されています!』
「未知のアミノ酸……!だから、既存の生物ではありえないような機能を持つことができるんだわ…!」
僕は、ライフルを連射する。荷電粒子の奔流が敵の一体に直撃し、その身体を大きく抉る。だが、敵は怯む様子もなく、傷口から紫色の体液を吹き出しながら、なおも前進してくる。
「なんてタフネスだ……!」
『物部くん!敵の動きが直線的すぎる!何かあるぞ!』
管制室から、蟹江教授の鋭い声が飛ぶ。
その言葉に、僕はハッとした。そうだ、おかしい。あれほどの巨体と生命力を持ちながら、その動きはあまりに単調だ。まるで、何かの「役割」を果たすためだけに動いているような……。
「美生奈先輩!奴らの目的は、僕たちとの戦闘じゃない!あの胞子を、広範囲に散布することが目的なんだ!」
「えっ……!」
その時、僕たちの頭上を、風が強く吹き抜けた。気象データを確認する。この地域特有の、谷間を吹き抜ける強風。奴らは、この風に乗せて、胞子を下流の市街地まで運ぶつもりなのだ。
「まずい!矢崎さん、風が止むまでの時間は!?」
『あと、約3分です!それまでに、全ての個体を叩いてください!』
「無茶を……!」
僕はライフルを捨て、腰の「劈開剣」を抜いた。一体ずつ確実に仕留めていくしかない。
「美生奈先輩!僕の思考に合わせて、機体の姿勢制御を!」
「わかってる!」
僕と彼女の思考が、再び一つの脳のようにリンクしていく。僕が敵の突進を予測し、剣を構える。
その思考を読み取った彼女が、アンファングの人工筋肉を最適に収縮させ、最小限の動きで攻撃を回避し、カウンターのための最適な体勢を作り出す。
アンファングは、まるで舞うように、敵の群れの中を駆け抜けた。紫色の体液が飛沫を上げ、おぞましい断末魔が響き渡る。
僕の思考は、限界まで加速していた。敵の動き、風の流れ、機体のダメージ、残りのエネルギー、全てを計算し、最適解を導き出す。
「残り、二体……!」
その時だった。最後の一体が、これまでとは違う動きを見せた。自らの身体を大きく膨らませ始めたのだ。
「自爆するつもりか!?」
「違う!あれは…!体内の全てのエネルギーを使って、最後の胞子を打ち上げるつもりだわ!」
もはや、間に合わない。剣で切り裂く前に、胞子は空へと放たれてしまうだろう。
思考が、焼き切れそうになる。何か、何か手はないのか。
その時、僕の脳裏に、一つの可能性が閃いた。
「美生奈先輩!ツェルニク・プロジェクターの出力を最大に!収束率は最低で構わない!エネルギーを、一点ではなく、広範囲に拡散させて!」
「え? でも、そんなことをしたら、威力はほとんど……」
「いいから!僕の計算を信じて!」
美生奈先輩は一瞬ためらったが、すぐに僕の意図を理解し、コンソールを操作した。
アンファングは、膨れ上がる敵に向け、ライフルを構える。
放たれたのは、ビームではない。目に見えない、高エネルギーの荷電粒子の「嵐」だった。
その嵐が、敵の身体を通り抜ける。敵に、目立った外傷はない。
だが、次の瞬間。敵の身体の膨張が、ぴたりと止まった。そして、まるで全身の水分が蒸発したかのように、急速にしぼみ、乾燥し、砂のように崩れ落ちていった。
「……やった、の……?」
矢崎さんの、安堵とも信じられないともつかない声が響く。
「…あの胞子に含まれる未知のアミノ酸。その分子構造を、高エネルギーの荷電粒子で強制的に電離させ、結合を破壊したんだ」
僕は、途切れ途切れの息で説明した。
「肉体を破壊するのではなく、その生命活動の根幹となる『機能』そのものを、物理的に停止させた……」
全ての敵性体が活動を停止したのを確認し、コックピットに、ようやく安堵の空気が流れた。
「ふぅ…」
美生奈先輩が、色っぽく、そしてどこか疲れたように、長い息を吐いた。汗で首筋に張り付いた髪が、やけに艶めかしい。
一方、僕は。
「ぜぇ……ぜぇ……はぁ……はぁ……っ……」
極度の集中状態から解放された反動で、全身の力が抜け、呼吸をすることすらままならない。視界は明滅し、心臓は張り裂けそうだ。これが、戦闘。これが、アンファングを動かすということの、本当の代償。
そんな僕の無様な姿を見て、美生奈先輩は、悪戯っぽく微笑んだ。
「ふふ……まだまだトレーニングが、足りていませんね♡ 愛都くん♡」
僕は、その言葉に言い返す気力すら、残ってはいなかった。




