#007 甘美なる物理的干渉
僕と琴吹さんが不毛な体力トレーニングに明け暮れている間にも、世界は動いていた。蟹江教授は物理学会の裏ルートを駆使して、常識に縛られない異端の天才たちに接触。一方、紫京院教授は自身の美貌とコネクションを武器に、バイオテクノロジー関連の企業や研究機関から、半ば脅迫に近い形で優秀な人材と最新鋭の機材を「提供」させているらしかった。二人の狂気の観測者たちは、アンファングという新たな玩具を手に入れ、実に楽しそうに自分たちの王国を築き始めていた。
そして僕たちはといえば、有酸素運動という名の地獄の第一段階を終え、次なるステージへと移行していた。無酸素運動、すなわち筋力トレーニングである。
「はい、美生奈さんはその調子で! 大胸筋上部にしっかり負荷がかかっているのを意識して! その美しい谷間が、更なる深淵へと至るイメージで!」
「はい、教授!」
トレーニングルームには、紫京院教授の、指導というにはあまりに官能的な声が響き渡る。琴吹さんは、豊かな胸部を大きく上下させながら、僕の体重の倍はあろうかというバーベルを軽々と持ち上げていた。その額には玉の汗が光り、ぴっちりとしたトレーニングウェアは、収縮する筋肉の動きを克明に浮かび上がらせている。なるほど、彼女のあのダイナマイトボディは、こうした地道な物理的アプローチによって維持されているのか。実に興味深い。
「物部くん! 見ているだけでは筋肉は育ちませんことよ! あなたはその、最も軽い20キロのバーベルで結構ですわ! さあ!」
「……はぁ」
僕は、溜息と共にベンチプレスに横たわった。20キロ。もはやバーベルというより、ただの鉄の棒だ。こんなものを持ち上げて、一体何の意味があるというのか。
「……ふっ!」
気合と共にバーベルを持ち上げる。腕が、生まれたての子鹿のようにぷるぷると震えた。あまりの無様さに、我ながら反吐が出る。たった数回持ち上げただけで、僕の上腕三頭筋は乳酸の悲鳴を上げ、思考能力の低下を訴え始めた。
不合理だ。
僕の脳は、アンファングの慣性制御システムの計算をするためにある。こんな、単純な筋肉の収縮運動にリソースを割いている場合ではない。だいたい、この程度の筋力増強が、あの巨大な機体を操縦する上で、一体どれほどの有意な差を生むというのか。誤差の範囲ではないのか。
僕の思考が、トレーニングという行為からの逃避を正当化する理論を構築し始めた、その時だった。
「物部くん、フォームが全然なっていませんわ。そんなやり方では、効率的に筋肉がつきませんことよ」
いつの間にか、紫京院教授が僕の隣に立っていた。彼女は、僕が持ち上げているバーベルを、まるで発泡スチロールの棒でも持つかのように、指先二本でひょいとつまみ上げ、ラックに戻した。
そして、僕が断る間もなく、僕の身体の上に、柔らかく、しかし圧倒的な質量を伴って覆いかぶさってきた。
「ひゃっ!?」
「いいこと? ベンチプレスで最も重要なのは、肩甲骨を寄せて、胸のアーチを作ること。こう……」
1mは確実に超えているであろう彼女の豊満な胸が、僕の胸板にぐにゅりと押し付けられる。ラベンダーと、何か科学的な薬品が混じったような、甘く知的な香りが僕の鼻腔をくすぐり、脳の処理能力を著しく低下させた。
「そして、バーベルを下ろす時は、大胸筋がストレッチされるのを感じながら、ゆっくりと……。こうして……」
彼女は、僕の両腕を掴むと、まるで手本を見せるかのように、僕の身体を使ってベンチプレスの動作を再現し始めた。僕の意思とは無関係に、僕の腕が上下する。そのたびに、僕の胸の上にある彼女の柔らかな質量が、ぐに、ぐにとその形状を変えた。
「わ、わかりました!わかりましたから!離れて……!」
「あら、もうよろしいの? 残念ですわ。理論上、適度な異性との接触は、テストステロンの分泌を促し、筋肥大の効率を1.7倍に高めるというデータもあるのだけれど」
そう言って、彼女は名残惜しそうに僕の上から離れていった。僕の心臓は、トレーニングとは全く別の理由で、限界に近いBPMを叩き出していた。
……もう無理だ。この空間は、僕の思考領域を侵犯してくるノイズが多すぎる。
僕は、スクワットをしている琴吹さんに気づかれないよう、そっとトレーニングルームを抜け出した。
逃げ込んだ先は、大学の図書館だった。静寂と、古い紙の匂い。こここそが、僕が本来いるべき場所だ。僕は物理学の専門書が並ぶ書架へと向かい、乱れた精神を落ち着かせるため、無心で数式を追い始めた。
やはり、これだ。世界は、かくも美しく、秩序だった数式で記述できる。筋肉などという、曖昧で非合理的なものに価値などない。
「……ここにいたんですね、物部くん」
その静寂は、背後からかけられた声によって、いとも容易く破られた。振り返ると、そこにはトレーニングウェア姿のままの琴吹さんが、呆れたような顔で立っていた。
「どうしてここが……」
「紫京院教授が、『彼はきっと、情報の海に逃避するだろう』って。あなたの行動パターン、完全に読まれてますよ」
またしても、あの女たちの掌の上か。僕は忌々しい思いで舌打ちをした。
「物部くん。気持ちはわかります。でも、続けていくうちにわかったんです。強靭な肉体は、強靭な精神を作るって。どんなに複雑な実験でも、最後までやり遂げる集中力と体力が身についたのは、間違いなくこのトレーニングのおかげだって。それに……こんな女性的な体を手に入れたと思うと、以前とは比べ物にならないくらい自身も付きましたし」
彼女が自分の体を撫でさすりながらそう言う。
「……それは、あなたの主観的な感想に過ぎない。僕には僕のやり方があります」
僕は、本に視線を戻し、彼女との対話を打ち切ろうとした。だが、彼女は諦めなかった。
「じゃあ、一つ賭けをしませんか?」
「賭け?」
「はい。腕相撲です」
腕相撲。なんとも原始的で、知性の欠片もない勝負の提案だ。
「僕が勝ったら、もうトレーニングのことでとやかく言うのはやめてもらう。そういうことですか」
「はい。でも、もし私が勝ったら……」
彼女は、にこりと、しかしその瞳の奥に、あの日のような挑発的な光を宿して言った。
「物部くんは、私の言うことを何でも一つ聞いてもらいます。たとえそれが、どんなに非合理的なお願いだったとしても」
僕の目の前に、彼女の白く、しかし鍛えられたしなやかな腕が差し出される。
……面白い。いいだろう。その挑戦、受けて立つ。僕の物理学の知識を応用すれば、例え筋力で劣っていても、力のベクトルを計算し、テコの原理を応用することで、勝利することは理論上可能なはずだ。
僕たちは、図書館の閲覧テーブルで、静かに向かい合った。
そして、僕はまだ知らなかった。この、あまりに安易な賭けが、僕のプライドと理性を、再び木っ端微塵に打ち砕くことになるということを。




