#006 臨界点への挑発
僕たち四人を前に、蟹江教授はまるで新しい実験計画を立てるかのように、楽しげに語り始めた。
「……では、我々の次なるフェーズは、新たな協力者を募り、アンファングという巨大な観測装置を維持し、そして未知なる存在と対峙するために更なる発展を遂げる仲間を探すこと、ですね。機械工学にロボット工学、情報工学はもちろん、極小な領域では医科学や環境工学の専門家も必要になってくるでしょう」
僕が思考を整理し、必要な分野をリストアップしていく。だが、蟹江教授はそれを手のひらで制した。
「いや、それは我々大人の仕事だ。君たちパイロットには、それ以前に解決してもらわなければならない、より根源的な問題がある」
「……問題、ですか?」
隣で紫京院教授が、まるで極上の獲物を見るかのような目で僕を値踏みしながら、艶然と微笑んだ。
「その通りです。それは……体力」
体力。僕の辞書において、最も優先順位の低い単語の一つだった。
「いくらアンファングの慣性制御システムが優秀だといっても、パイロットにかかる物理的・精神的負荷がゼロになるわけではありません。過剰な集中状態の維持、戦闘機動に伴う衝撃、それらは確実にあなた方の生体エネルギーを消耗させます。幸い、琴吹さんは私の特別メニューを普段からこなしているので、女性として最も美しく、かつ戦闘にも耐えうる肉体の基礎はできていますが……」
紫京院教授の視線が、僕の華奢な身体をなぞる。その視線を引き継ぐように、蟹江教授が嘆息した。
「問題は君だ、物部君。常々言っているだろう、物事の基本は一に体力、二に体力、三四が飛んで五に体力だと。それを無視して、思考という名の安楽椅子に座り続けた結果が昨日のあれだ。美しい姫君を前にして、宇宙からの使者どころか、その辺に湧いて出た低レベルな蛮族にすら敗北し、無様に地面を転がる王子様の物語など誰も読みたがりはしない!というわけで、早速だが明日からトレーニングメニューをこなしてもらう」
教授の言葉は、有無を言わせぬ決定事項だった。
「これまで君が、運動という物理法則から目を背け続けてきたツケを払う時が来たということだ。みっちりと、地獄を味わうがいい」
そんなわけで、蟹江教授と紫京院教授が日本中、いや世界中から常識の外側を歩ける仲間たちを集め始めている中、僕と琴吹さんは二人きりで、基礎体力向上のためのトレーニングに明け暮れることになった。のだが……。
「ぜひっ……ぜひっ……ひゅー……ひゅー……」
僕の身体は、僕の思考についてくることを完全に放棄していた。わずかな距離をジョギングしただけで、心臓は限界を告げる警鐘を鳴らし、肺は酸素を求めて悲鳴を上げる。全身の汗腺という汗腺から、まるで決壊したダムのように体液が流れ出ていく。
不快だ。実に不愉快だ。ロボットの操縦は、思考と指先の精密な運動によって行われるはずだ。なぜ僕が、こんな非効率的で原始的な苦痛を味わう必要があるというのか。
僕は、ついに走行を中断し、建物の陰へと逃げ込んだ。僕を追い越していく琴吹さんの背中を見送る。彼女は紫京院教授の指導の賜物か、息一つ乱さず、むしろその豊満な肉体をリズミカルに揺らしながら、軽快に走り去っていった。
……仕方ない。このルートには近道がある。それを使えば、あたかも彼女に追随して走りきったかのように見せかけることも可能だろう。僕は合理的な判断を下した。
だが、僕のその浅はかな計算は、いとも容易く覆されることになる。
近道から正規ルートへ合流しようとした、その角。そこに、先回りした琴吹さんが、仁王立ちで待ち構えていたのだ。
「あっ、やっぱりここから来ましたね~」
「……」
なぜだ。僕の移動距離と速度、彼女の走行ペースを計算すれば、僕の方が先にここに到達しているはず。まさか、彼女は僕が近道を使うことすら予測して、ショートカットしてきたというのか。
「蟹江教授と紫京院教授がおっしゃってたんですよ。『物部くんは、おそらく最短経路での問題解決を試みるだろう。つまり、ズルをするならこのルートだ』って。まさにその通りでしたね」
完全に読まれていた。人間の思考は、極限状態に陥ると、その癖が顕著に現れ、予測可能性を高めるらしい。これも一つのデータとして記録しておくべきか。
「物部くん……残念です。あれだけ大きな事件を起こして、多くの人に迷惑をかけたというのに、本人はこんなズルをするなんて」
琴吹さんが、僕を軽蔑の眼差しで見てくる。別に構わない。僕は僕の合理的な判断に基づき、無駄なエネルギー消費を避けたに過ぎない。他者からの評価など、僕の数式には何の影響も与えない変数だ。
……だが。
彼女が次に発した言葉は、僕の思考のフレームワークを根底から揺るがすものだった。
「物部くんって……ざぁっこ♡」
「……は?」
思考が、一瞬フリーズする。今、この女は何と言った?
雑魚? 理知的で、常に敬語を崩さない優等生であるはずの彼女が、まるで語彙力を小学生レベルまで退行させたかのような、原始的な単語で僕を罵倒した。
「雑魚って言ったんですよぉ。聞こえませんでしたか? なら何度でも言ってやります。この、ざ~こ♡ ざ~こ♡ 運動もできない、ひ弱なもやしっ子♡」
…理解不能だ。
しかし、理解不能な事象とは裏腹に、僕の身体の奥底から、これまで感じたことのない、黒く、熱い感情が沸き上がってくるのがわかった。苛立ち。そうだ、これは、僕の完璧な論理の世界を、不純な感情論で汚されたことに対する、純粋な怒りだ。
「な~に拳を握りしめちゃってるんですかぁ♡ 悔しいんですか♡ 悔しいんですねぇ~♡」
彼女は、楽しそうに僕を挑発し続ける。
「悔しかったら、こ~こ♡ ま~で♡ お~い~で♡ おし~り♡ ぺ~ん♡ ぺ~ん♡」
信じられないことに、あの女は僕に背を向け、自らの豊満な尻を突き出すと、それを両手でリズミカルに叩き始めた。スーツ越しでもわかる、その圧倒的な質感を伴った肉の塊が、叩くたびにぷるん、と蠱惑的に波打つ。
その光景は、僕の怒りの感情を、臨界点へと一気に押し上げた。
「……舐めるなよ、この、女ぁっ……!」
気づけば、僕は走り出していた。
僕の思考ではなく、僕の本能が、あの不遜な女を捕え、その尻を叩き返せと命令していた。
もちろん、僕の劣化した身体では、軽やかに逃げる彼女に追いつくことなどできはしない。まるでスローモーションの映像のように、僕と彼女の距離は一向に縮まらなかったが、それでも僕は、ただひたすらに、彼女の背中を追い続けた。
そして、気づけば僕は、ゴールラインを駆け抜けていた。
……ちなみに、これが「物部君は極めてプライドが高い。正論で理詰めにしても反発するだけだが、彼の論理の外側から、子供じみた挑発で自尊心を刺激すれば、いとも簡単にコントロールできる」という、蟹江教授の悪魔のような入れ知恵であったことを僕が知るのは、まだ当分先の話である。