#049 理と生
その日の午後、僕は美生奈さんに研究のことでいくつか相談したいことがあり、彼女が所属する紫京院研究室を訪れていた。
「物部君。いらっしゃい」
研究室のドアを開けると、白衣を着た紫京院玲教授が優雅な笑みを浮かべて僕を迎え入れてくれた。彼女の背後では、鳴海松二さんが顕微鏡を覗き込みながらロスト・エヴォルヴの細胞培養に没頭している。そしてその隣のソファでは、潤葉ちゃんが静かに本を読んでいた。
どうやら美生奈さんは席を外しているらしかった。
「美生奈さんは……」
「ええ、琴吹さんなら少し席を外していますわ。……まあ、たまにはいいでしょう。少しお話でもしていきなさいな」
紫京院教授はそう言うと、僕に来客用のソファを勧めてくれた。
潤葉ちゃんが僕の姿に気づき、本から顔を上げた。以前のような怯えた表情はもうない。彼女ははにかむように小さく微笑んだ。
「……愛都、お兄ちゃん」
「……どうも」
僕が彼女の隣に座ると、松二さんも顕微鏡から顔を上げ、人の好さそうな笑顔をこちらに向けた。
「やあ、物部君。君のおかげでこの子たちの新しい共生の可能性が見えてきたよ。本当にありがとう」
「……いえ、僕はただ数式を提供しただけです」
僕たちはそれからしばらくの間、他愛のない話に花を咲かせた。潤葉ちゃんが最近フリースクールで新しい友達ができたこと。松二さんの研究がハイブリッド植物の新たな医療応用の突破口を開きつつあること。そして僕と真音が、綾辻教授の過剰なスキンシップに毎日頭を悩ませていること。
穏やかで平和な時間。
数ヶ月前まで世界の存亡をかけて戦っていたなんて、まるで嘘のような日常。
その温かい空気を楽しむかのように、紫京院教授はふと思い出したように言った。
「……ああ、そういえば物部君。あなたに預かっているものがありますのよ」
彼女はデスクの引き出しから数通の手紙を取り出した。
「シークェルのあのお二人と……東都大学のあの天才コンビから。先日、PEAAの定例報告会で会ったものですから」
僕はその懐かしい名前に、少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
最初に手に取ったのは軍の正式な封筒。差出人の名前は軍場宗十郎、そして篝伊佐那。
僕はその封をゆっくりと開いた。
『――戦場は俺たちに任せろ。お前たちは安心して研究に打ち込め』
軍場一尉らしいあまりに簡潔で、しかし彼の不器用な信頼の全てが込められた一文。
そしてその下には、篝三尉の流麗な、しかしどこか棘のある文字が並んでいた。
『――あんたたちが二度とあの鉄の棺桶に乗らなくてもいいように、世界の全ての火種が消えるまで、死ぬまで戦い続けてやるから。だから……せいぜい幸せになることね』
「……二人とも、相変わらずですね」
僕は思わず苦笑した。彼らは今も世界のどこかで、水面下で蠢き続ける新たな脅威と戦い続けてくれているのだ。僕たちがこうして平和な日常を享受できているのも、彼らのようなプロフェッショナルがいてくれるからこそだ。
次に手に取ったのは東都大学のロゴが入った封筒。中には二枚の便箋が入っていた。
一枚は昴さんからだった。
『よっ。そっちでの新しい研究は順調か?俺と創磨は相変わらず二人で、ああでもないこうでもないと言い合いながら新しい宇宙船のエンジンを作ってる。いつか本当にロスト・エヴォルヴたちの新しい故郷を見つけ出したその時は、俺たちがそこまで送り届けてやるからな』
そしてそこには、彼らしい追伸が添えられていた。
『P.S. 二人の結婚式が終わったら、ハネムーンのことは俺に言ってくれ。海の中でも宇宙でもどこへでも、最新の発明品で連れて行ってやるから。……まあ、まだそんな予定はないかもだけどな』
そしてもう一枚。創磨さんからの便箋。そこには彼らしいたった二行だけのメッセージが記されていた。
『――結婚式の日取りが決まったら、式の前にまず俺のところに話を通せ』
『――俺が精製した世界でただ一つの金属で、お前たち二人だけの結婚指輪を作ってやるから』
「…………」
僕は言葉を失った。
「……全く、あの人たちは……。僕と美生奈さんがもうとっくに結婚することが前提で話を進めている……」
僕のその照れ隠しの呟きに、潤葉ちゃんが不思議そうな顔で首を傾げた。
「……お兄ちゃん、お姉ちゃんと結婚しないの?」
そのあまりに純粋な問いに、僕は完全に言葉に詰まってしまった。
その甘酸っぱい空気を楽しむかのように、紫京院教授はくすくすと笑いながら立ち上がった。
「……さて。そろそろ主役のお迎えの時間ですわね」
彼女は僕に手招きをした。
「琴吹さんならあそこにいますわよ」
「……あそこ?」




