#043 指揮者と黄金の葉
戦場に響き渡った一つの音。それはまるで、巨大なクリスタルグラスを指でなぞったかのような、美しく、そしてどこか不気味な音色だった。
その音を皮切りに、戦場に壮大な音楽が流れ始めた。
ハープのアルペジオ、チェロの重低音、そして、聖歌隊のコーラス。それは、場違いなほどに、神聖で、荘厳な、シンフォニーだった。
そして、信じられない現象が起きた。
シークェルに、最後の一撃を加えようとしていたセラフィムたちが、一斉にその動きをピタリと止めたのだ。彼らはまるで、指揮者のタクトを待つオーケストラの演奏家のように、空中で静止していた。
「……な、なんだ……これは……!?」
軍場が、目の前の光景を信じられずに呟く。
するとセラフィムの包囲網のその向こう側から、一体の華奢な機体がまるで蝶が舞うかのように、優雅に姿を現した。
背中に巨大な蝶の翅にも似た、優雅なソナーウィングを持つ未知の機体。その手には何の武器も握られていない。
その機体から艶然とした、そしてどこかからかうような女の声が、通信回線に響き渡った。
『―――待たせたわね、坊やたち』
『蟹江教授達から、いざという時の最後の切り札として準備するよう言われてたんだ。ここは僕たちに任せて』
「綾辻教授……!」
「静海くん!」
その声の主は、綾辻玻璃。そして静海真音の2人だった。
『ここからは、私たちの『演奏会』の時間よ。神々への、反逆のシンフォニーのね。指揮者の名前は、『カノン』。最高の席で、特等で、聴いていきなさいな』
静海真音によって操縦されるカノンにより、戦場の全ての音が、完璧な楽譜へと、変換されていく。
「……すごい……。なんて、美しい、不協和音だ……!」
「静海くん、第五小節、セラフィムの突撃コード。カウンターの旋律を、奏でなさい」
「は、はいっ……!」
カノンの旋律が、戦場を支配する。そして真音が紡ぎ出す、偽りの旋律がセラフィムたちの統合思念ネットワークへと、送り込まれていく。
その瞬間、静止していたセラフィムの群れは、再び動き出した。だがその刃が向けられた先は、シークェルではなかった。
彼らはすぐ隣にいた、仲間であるはずの別のセラフィムへと、一斉に襲いかかったのだ。
同士討ち。完璧だったはずの、神の軍勢の連携は、たった一体の指揮者の登場によって、完全に崩壊した。
『……なんだ、あの機体は……。敵の動きを、操っている、というのか……!?』
軍場は自らが助けられたという事実すら忘れ、ただ、目の前で繰り広げられる異次元の戦いに戦慄していた。
「凄い……!あんな隠し玉があっただなんて……!」
その時である。アンファングに一つの通信が入ってきた。
『こちらCポイント!エンデ苦戦との報告あり!』
「まさか!?あのエンデが……!」
「あれほどの力を誇る人類の叡智ですら、神々には及ばないというのか……!」
アンファングの力ではエンデの助けになれないかもしれない。だが、自分たちの師の苦戦を知って黙っていられるはずがない。僕たちはCポイントへとアンファングを走らせる。
『あっ、ちょっと……あっちにももう一つ、切り札が隠してあるから大丈夫、って言おうと思ったのに』
『言われてたとしても行くのが普通だと思いますよ、彼らの先生なんだから』
その頃、戦場のもう一方、Cポイント。
人類最強の矛であるはずの『エンデ』は、その歩みを、完全に、止められていた。
相手は、ただ一体。黒き巨人、『ジャッジメント』。
「くっ……!当たらん……!」
エンデのコックピットで、蟹江教授が苦々しく呻いていた。
「蟹江教授!」
「まさか……あのエンデまでもが!」
剣による神速の斬撃が、ジャッジメントの巨体に届くまさにその寸前で、まるで空間そのものに阻まれるかのように弾かれてしまう。
『蟹江教授!ジャッジメントの周囲の時空が、断裂しています!我々の攻撃は、目標に到達する前に、別の次元へと、逸らされているようです!』
紫京院教授の悲痛な分析が飛ぶ。ジャッジメントはただそこにいるだけで、自らの周囲に絶対的な不可侵領域を作り出していたのだ。
そしてジャッジメントが反撃に転じる。その漆黒の腕が、ゆっくりとエンデへと向けられる。それは先ほど、金剛・改の部隊を存在ごと消滅させた、あの因果律攻撃。
『回避不能!来ます!』
「蟹江教授!因果律選択システムを!」
「やっている!だが相手がそれを全て上書きしてきているのだ!」
エンデの因果律選択システムが全力で未来を書き換えようとする。だが相手は、その宇宙のルールそのもの。エンデのシステムが、攻撃は当たらないという未来を選択しようとしても、ジャッジメントがそれを、攻撃は絶対に当たるという法則で、上書きしていく。システムの根幹が、きしむ音を立てた。
これが、神。これが、宇宙の理。人の叡智など、所詮は、児戯に等しいというのか。
「あっ……!」
「蟹江教授……!」
誰もがエンデの最期を覚悟した、その時だった。
空から一つの黄金の光が、流星となって舞い降りた。
その光はエンデとジャッジメントの間に、敢然と立ちはだかる。
全身を無数の黄金に輝く、銀杏の葉の形の装甲で覆った、重厚な騎士の如き巨人。
「な、なんだあれは……!」
「まだあんなロボットが隠れていたって言うの……!?」
『―――ギンコ・ビローバ。俺たちの努力の結晶だ。遅くなってごめん』
『……フン。神殺しを気取るには、少しばかり、詰めが甘いんじゃないか?狂人教授』
「その声は……東都大学の!」
「昴助教……それに創磨助教も……!」
全く……アンファングに協力した人たちは、どこまで天才揃いなのか。エンデが現れただけでも驚きなのに、更に2体もの巨人が窮地を救いに来てくれた。安心と共に、ここまでしてくれた皆の思いに答えなくてはならない、という活力が沸いてくる。どうやらそれは、美生奈さんも同じようだった。
『蟹江教授!ここは俺たちに任せて教授はデミウルゴスへの道を!』
昴助教がそう言った時だった。ジャッジメントの回避不能な因果の奔流が、ギンコ・ビローバへと殺到する。
「ダメだ!エンデですら対抗できなかった攻撃を、耐えられるわけが……!」
その時、ギンコ・ビローバは、その背に負った、二枚の巨大な銀杏の葉のような装甲を、大きく、展開させた。
「昴!出力を、最大に!」
「ああ、任せろ創磨!」
時空の断裂が、斥力フィールドに接触する。だがそれは、砕け散ることも、貫通することもない。まるで激流が、巨大な滑らかな岩の表面を滑るように逸れていく。
そして逸らしきれなかった僅かな衝撃が、黄金の装甲に着弾する。数枚の「葉」が砕け散る。だがその次の瞬間には、内部から新たな「葉」が、まるで春の若葉のように芽吹き、瞬時にその傷を修復していた。
絶対防御。
それは二人の天才が、自らの夢と執念の全てを注ぎ込んで作り上げた、神の理不尽に唯一抗うことのできる、人の不屈の意志の結晶だった。
「まさか……あのジャッジメントの攻撃をこんな形で……」
「攻撃は申し分なさそうだったんで、とにかく防御を任されてたんだ。まさかこんなに的確に対抗できる機体になるとは思わなかったけどな」
二つの音色。二つの光。
絶望に染まった戦場に、新たに現れた二機の希望。
自分たちは、一人ではなかった。
共に神に抗ってくれる、仲間たちがいる。
操縦桿を、強く握りしめた。
「行きますよ、美生奈さん。道は開かれました」
もはや迷いも恐れもなかった。ただ自らが果たすべき最後の役割だけを、真っ直ぐに見据えていた。き最後の役割だけを、真っ直ぐに見据えていた。




