#004 非可換な命題
アンファングを元の位置、地下ドックのケイジへと静かに戻す。全システムがスリープモードへと移行していくのを確認しながら、僕は深い溜息を禁じ得なかった。隣でセカンダリシートから降り立った琴吹さんが、事態の重さをようやく実感したのか、狼狽したように声を震わせている。
「……どうしましょう、物部くん。これ、どうやって説明すれば……」
彼女の混乱を尻目に、僕は思考を切り替え、現状で取りうる最も合理的な選択肢を実行すべく、手元の端末でとある人物の連絡先を呼び出した。僕の行動に気づいた彼女が、訝しげな視線を向けてくる。
「……誰に電話を?」
「蟹江翔太教授。僕の研究室の指導教官ですよ」
「ええ!?こんな時間に電話をかけて出るわけないじゃないですか!?」
「いえ。蟹江教授は最先端の発見についていく為、自分が認めた相手に対してはすぐさまその発見を共有できるよう、どんな時でも連絡が取れる大音量の目覚まし付きの電話番号を教えてもらっています。そこにかければいい。まぁ勿論余程のことじゃないと機嫌を損ねますが……」
「えぇ……」
コール音が数回鳴った後、スピーカーから聞き慣れた、理知的で、そしてどこかこの世界の全てを睥睨しているかのような声が聞こえてきた。
『何だね、物部くん? この電話番号にかけてわざわざ夢の中の私を叩き起こしに来たということは、余程の発見があったということで間違いあるまいな?』
「蟹江教授。今から僕が話す事象を、ありのまま観測してください」
僕は前置きを省略し、単刀直入に事実を告げた。
「……アンファングを、僕とここにいるもう1人の手で起動させ、正体不明の敵性存在と交戦しました」
一瞬の沈黙。それは驚愕か、あるいは僕の報告を吟味しているのか。やがて、電話の向こうで衣擦れの音がし、教授の声がした。
『……なるほど。君が間違い電話をごまかすためにつまらない嘘をついているとは思えない。分かった、すぐに向かう。全てのログデータを保全し、何人たりともアンファングに近づけるな!』
通話が切れる。僕は端末をしまい、琴吹さんに向き直った。
「……どうでしたか?」
「今から来る、とのことです」
「い、今からですか!?もう深夜3時を回っていますよ!?」
「不測の事態、特に今回のような第一種接触の可能性がある事象においては、初動の対応速度がその後の全てを決定します。合理的な判断でしょう」
僕は淡々と事実を述べたが、その時。
ギュゴ〜……グルグルグル……♡
「あっ……これは……!」
彼女の体内から、先程の怪獣にも負けず劣らずの唸り声が上がった。アドレナリンが切れ始めた身体は、急激に生理的な欲求を訴え始めていたらしい。
「……空腹ですね。エネルギー補給が必要です。近くのコンビニへ行きますが」
こほん、と。顔を赤らめながら咳払いをして彼女は言った。
「僕も同行しましょう。あなたにもしものことがあれば……」
「え?」
「アンファングという、現状唯一の観測装置を動かせなくなりますから」
「……はぁ」
彼女は呆れたような、しかしどこか安堵したような複雑な溜息をついた。
「お金は多めに持って行った方がいいでしょう。その体格なら2000円分くらいは食べるでしょうから」
「し、失礼な!」
コンビニへの夜道を行く途中、琴吹さんが口を開いた。
「……ずっと言おうと思っていましたが」
「何です?」
「物部くんは、私に対する敬意や配慮というものが欠けてると思うんです」
「は?」
「私はですね、一応貴方よりも年上なんですよ。私は大学院1年生。そして物部くんが大学4年生であることも知ってます。物理学科の稀代の天才なんて呼ばれてて有名ですから」
「……研究者の貴女が年功序列だなんてナンセンスな考え方に頼るおつもりですか?研究者の世界は実力主義が基本でしょう。結果が出せなければ年上だろうが高学歴だろうが下に見られる。そういう世界ですよ」
「ふむ……では物部くんは、余程ご自分の研究に自信があると?」
「当然です。僕が開発したのは、アンファングの慣性制御システム。これは量子力学の不確定性原理を応用し、機体の各部にかかる未来の慣性の確率を無数に存在する可能性の中から、最も負荷の少ない未来へと観測・収束させ、内蔵AIにそれを選ばせるという常軌を逸したものです。これにより、アンファングへの負担の大幅な軽減に成功し、軽量化や無駄のない動きへの貢献に一役買っています。どうです?これを僕が作ったんです。そんな僕の研究より素晴らしい研究をしているとでも?」
「確かに素晴らしい研究だとは思います。が、その選択肢を大幅に広げ、なおかつその動きの可動性を爆発的に高めているのは、私が研究している人工筋肉アクチュエーターのおかげに他なりません。特定の電気信号に反応して本物の筋肉のように爆発的に、しかししなやかに伸縮する特殊なゲル状の生体高分子マテリアルです。アンファングの全身には、従来のモーターや油圧シリンダーの代わりに、この人工筋肉がフレームに沿って無数に張り巡らされています。極めて高いエネルギー効率を誇り、微細なコントロールによって指先でピアノを弾くような繊細な動きから、全身の筋肉を連動させた爆発的な跳躍まで、幅広い動きを可能にしているんです。更にこの人工筋肉のおかげで内部に機械的な機構が少ないため、アンファングはあの流麗で有機的なデザインの形にすることができたんです。物部くんの感性制御システムが最善手を打てるのは、私が開発した人工筋肉のおかげ。どうです?これでも貴方の研究が私のものより優れてる、なんて確証を持って言えます?」
ふんす、とその豊満な胸を張るかのように彼女は自慢げに言う。……正直、確証を持って言えるわけがない。何故かと言えば答えは単純。僕は物理学や情報工学専門で生物学や化学は専門外だ。だから人工筋肉についてどうだなんて言われても、「とにかくすごい」くらいしか言葉が出てこない。逆もまた然りではあるが、とにかくこの2つのどっちが凄いか、そんなことをジャッジできる人間は、僕並みに物理学を極め、彼女並みに生物学を極めた者だけだ。つまり、ほぼ100%いないと言っていいだろう。
そんなことを考えていると、彼女が諭すように言ってきた。
「ふふ……言えませんよね?私だって貴方の研究と私の研究のどっちが優れてるかなんてわかりません。だって、全然ベクトルが違うんですから。実力で測れないんだから、実力主義が働かない。だったら、やっぱり年功序列を持ち出すべきなんじゃないんですか?」
「……それとこれとは話が別でしょう」
……この時の僕は、何か違和感を感じていた。いくら年上とはいえ、見るからに大人しそうな才女。僕が率先してイニシアチブを取り、自分のいいように言うことを聞かせられる。と思っていたのに、何故だか僕が彼女に振り回されている。もしや僕が彼女を選んだのは、とんだ間違いではなかったのか……
そんなことを考えていると、目的のコンビニが見えてくる。深夜のコンビニの明かりが、まるで文明の最後の灯台のように見えた。