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#020 不協和音の方程式

 その空間は、混沌そのものだった。

 東京、秋葉原。巨大なゲームセンターの一角は、おびただしい数の人間が発する熱気と、鼓膜を暴力的に揺さぶる電子音の洪水で、飽和していた。

 僕と美生奈さんは、その人いきれの中、ある一点に、釘付けになっていた。

 ステージの中央。巨大なスクリーンに、素人目にはもはや色の帯としか認識できないほどの、膨大なノーツが滝のように流れ落ちていく。その前に立つ、一人の青年。

 色素の薄い、柔らかな茶髪。華奢で、しなやかな身体つき。その横顔は、あまりに整っていて、男性とも、女性ともつかない、中性的な美しさを放っていた。

 そして、そのプレイ。

 彼は、周囲の熱狂などまるで存在しないかのように、一切の表情を変えず、ただ淡々と、しかし機械のように正確無比な動きで、高速で流れてくるノーツを完璧に捌いていく。その指の動き、ステップを踏む足の動き、全てに一切の無駄がなく、まるで音楽そのものが、彼という完璧なインターフェースを通して、この世に顕現しているかのようだった。

 観客のボルテージは、最高潮に達している。

「うおおお! 見えねぇ!」

「全繋ぎペースだぞ! あれが決勝の最終曲だってのに!」

「さすが静寂の貴公子…! 次元が違う…!」

 やがて、最後の音が鳴り止み、スクリーンに『PERFECT』の文字が燦然と輝いた瞬間、会場は、割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。

 だが、その熱狂の中心にいる彼は、ただ、ふぅ、と小さく息をついただけだった。そして、誰に礼をするでもなく、僕たちのすぐ横を、するりと通り過ぎていく。その時、ふわりと、どこか甘い、中性的な香りがした。

「……信じられないな」

 僕は、思わず呟いていた。

「あの情報量を、リアルタイムで処理し、完璧なアウトプットを返すとは。人間の脳は、あそこまでの並列処理が可能なのか……」

「うん……」と、隣で美生奈さんも、まだ興奮冷めやらぬ様子で頷く。「でも、それ以上に、なんだか……すごく楽しそうに見えた。音楽と、一つになっているみたいで」

 楽しそう? 僕には、ただ無表情で、機械的な動作を繰り返しているようにしか見えなかったが。

 だが、なぜ僕たちが、こんな場所にいるのか。

 アンファングのパイロットである僕たちが、場違いなゲームセンターの大会を、観戦しているのか。

 その理由は、数週間前に遡る。

 僕たちが、生まれて初めて、敗北の二文字を、骨身に染みて理解させられた、あの悪夢の戦いに。


 その日、僕たちは、千葉の京葉工業地帯に出現した、フェーズ・シフターの新型個体と対峙していた。

 コードネーム『サイレン』。

 その敵は、これまでのどの個体とも、全く異質だった。

 実体を持たず、空中に浮かぶ無数のガラス細工のような『音叉』。そこから発せられる、不快な高周波。

 僕たちが最初に放った攻撃は、最悪の結果を招いた。破壊した音叉の共振周波数を学習され、アンファングは、外部からの接触なしに、内部から自己崩壊していくという、悪夢のような一方的な攻撃に晒されたのだ。さらに、サイレンが奏でる「不協和音」は、僕と美生奈さんの三半規管と、機体のセンサーを直接攻撃し、僕たちの認識そのものを狂わせた。

 視界は歪み、平衡感覚は失われ、僕たちは、アンファングを立たせることすら、困難になった。

 愛都の論理も、美生奈の感覚も、その土台となる正しい認識を奪われてしまえば、完全に無力だった。

「くっ…! これでは、戦えない…!」

 僕は、歯噛みした。為す術がない。このままでは、嬲り殺しにされるだけだ。

 その、絶望的な状況の中、僕の脳裏に、一つの、あまりに無謀な可能性が閃いた。

「美生奈さん! ツェルニク・プロジェクターの収束率を最低に! 荷電粒子を、この空間全体に、拡散させて!」

「えっ!? そんなことをしたら、威力はほとんど…!」

「いいから! この不協和音の発生源は、おそらく、あの無数の音叉全てだ! その全てを、同時に叩く!」

 それは、もはや狙いを定めた攻撃ではない。ヤケクソの、自爆に近い一手だった。

 だが、僕たちに残された選択肢は、それしかなかった。

 美生奈さんの操作で、アンファングは、拡散モードにしたライフルを、天へと向けて発射した。

 目に見えない、高エネルギーの荷電粒子の嵐が、空中に浮かぶ全ての音叉を、同時に撫でるように、通り過ぎていく。

 その瞬間、僕たちを苛んでいた、あの不快な不協和音が、ぴたり、と止んだ。

 そして、空中に浮かんでいた無数の音叉が、まるで最初からそこには何もなかったかのように、すぅ……っと、空間に溶けるように、消えていった。

 どうやら、僕の無謀な一撃は、サイレンの繊細なシステムに、何らかのエラーを引き起こさせたらしい。

 サイレンは、僕たちにとどめを刺すことなく、その場から、撤退していった。

 僕たちは、生き残った。

 だが、それは勝利ではなかった。

 ただ、敵が気まぐれに、僕たちを見逃してくれただけ。

 手も足も出ず、為す術もなく、ただ幸運によってのみ、生き永らえた。

 それは、紛れもない、完全な敗北だった。


「……現状、我々の戦術では、サイレンには勝てない」

 戦闘後のブリーフィングで、蟹江教授は極めて冷静にそう結論付けた。

「あの『音』による物理法則のハッキングは、我々の専門外だ。奴の『音楽』を理解し、対話できる、新たな『耳』が必要だ」

 その言葉を受けて、アンファング新生チームの最後のピースを埋めるべく、九州から、二人の専門家が招聘された。

 九都大学で、計算論的音響生態学という、極めてマイナーな分野を研究する、小倉教授。人の良さそうな初老の彼は、アンファングチームに合流するなり、深々と頭を下げた。

 彼が言うには、彼の研究室に、一人、天才的な聴覚と、音のパターン認識能力を持つ学生がいるという。その学生こそ、静海真音(しずみまお)

 小倉教授は、僕たちが持ち帰った、サイレンが発した音の断片的なデータを、興味深そうに見ていた。

「……なるほど。これは、単なるノイズではない。明確な構造と、意図を持った『言語』、あるいは『楽曲』ですね。私の理論で、この構造を解き明かすことはできる。ですが、これをリアルタイムの戦闘で解析し、カウンターを編み出すには……やはり、あの子の耳が必要になるでしょう」

 目の前を通り過ぎていく、静海真音。

 彼の指導教官が、あれほどの期待を寄せる、天才。

 そして、僕たちが、あの絶望的な敗北を乗り越えるための、鍵。

 僕は、意を決して、彼に声をかけた。

「……静海真音くん、だね。僕は、物部愛都。こっちは、琴吹美生奈さんだ」

 彼は、ゆっくりとこちらを振り返った。その大きな瞳が、僕と、美生奈さんを、順番に捉える。

 そして、一言だけ、静かに、呟いた。

「……そう」と、たった、それだけの言葉を。

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