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#017 二つの初期条件

 紫京院教授のご馳走……を頂き、その後で2人きりになったときのこと。不意に美生奈さんが声をかけてきた。

「……あの、物部くん。今日の蟹江教授や紫京院教授の話を聞いて、改めて思ったんです。お二人は、本当にご自身の研究に純粋なのだなって。……物部くんは、どうして今の研究を選んだのですか?」

 その問いは、あまりにストレートで、僕の心の最も柔らかな部分へと、真っ直ぐに突き刺さってきた。

 僕はしばらくの間、言葉を探して、天井の照明を見上げていた。そして、諦めたかのように、ゆっくりと口を開いた。

「……脆弱な肉体からの、脱却。それが、僕の動機です」

「え……?」

 彼女の意外そうな顔を見て、僕は自嘲気味に笑った。

「信じられないかもしれませんが、10年ほど前、僕がいた場所は、ここ……この大学とは全く違う価値観で動いていました。そこでは、人間の価値は、テストの点数ではなく、スポーツができるかどうか、見た目が良いかどうかで決まった。僕のような、非力で、コミュニケーション能力に欠ける人間は、そこにいるだけで、劣等な存在でした」

 思い出したくもない、過去の記憶が蘇る。

 いくら頭の中で複雑な数式を解けても、ボールを遠くに投げることはできない。世界の構造を理解できても、女の子と上手く話すことはできない。

 その度に、周囲からは嘲笑が飛んできた。トレーニングの時に、美生奈さんが僕を馬鹿にしたように。「ざっこ」と。

「失敗するたびに、馬鹿にされ、酷い時には、いじめの対象になることもありました。僕も、今よりずっと未熟で……負けず嫌いでしたから。耐えられなかったんです」

 僕は、自分の手を、ぎゅっと握りしめた。

「ある日僕は、自分の頭脳で作った発明品で、いじめの主犯格だった子たちに報復しました。結果、彼らは大怪我を負い、僕は大きな問題を起こしてしまった。……もうこれ以上、あの場所にはいられないと判断され、僕は学校へ行かなくなり、別の学校へと移りました」

 その後は、幸いにして僕の価値観に合った、知的好奇心を尊重してくれる環境に身を置くことができた。平和な日々だった。だが、あの頃に心に刻まれた、燻るような劣等感と渇望は、決して消えることはなかった。

「だから、僕は決めたんです。スポーツ馬鹿でも、ファッション狂でも、誰が見ても否定しようのない、圧倒的な結果を出せる研究者になろうと。宇宙の法則を解き明かし、時空を操る。どんな馬鹿でも『凄い』と思わざるを得ないような研究を成し遂げれば、もう誰も僕を馬鹿にはできない。そう思ったんです」

 それが、僕の原動力。

 幼稚で、歪んだ、コンプレックスの塊。それが、僕という人間の、本質だった。

 僕の話を、美生奈さんは、ただ黙って聞いていた。その瞳には、憐れみとは違う、深い理解の色が浮かんでいた。

「……ごめんなさい、物部くん」

 彼女は、心から申し訳なさそうに、頭を下げた。

「私、トレーニングの時、そんな君の昔の傷を……トラウマを、刺激してしまっていたんですね。本当に、ごめんなさい」

 彼女の謝罪に、僕は、かぶりを振った。

「いいんです。謝る必要はありません。それに、今の僕たちは、もう、ただの学生じゃない」

 僕は、アンファングが眠る地下ドックの方へと、視線を向けた。

「僕たちは、この世界を、人々の日常を守るために戦っている。そうでしょう? いわば、ヒーロー、ですよ。そんなヒーローが、過去のことで泣き言を言ったり、甘えたりしている暇はありませんから」

 それは、僕なりの強がりだったかもしれない。

 だが、紛れもない本心でもあった。アンファングと、そして彼女というパートナーが、僕に過去の自分と向き合う強さを与えてくれたのだ。

 僕の言葉を聞いて、美生奈さんは、少しだけ、驚いたように目を見開いた。そして、何かを決心したかのように、ふっと柔らかく微笑んだ。

 その笑顔は、僕がこれまで見た、どの彼女の表情よりも、自然で、そして美しく見えた。

「……そっか。そう、ですよね」

 彼女は、一度、深く息を吸い込んだ。

「……じゃあ、次は、私の話を、聞いてもらえますか?」

 彼女の声は、静かだったが、その奥に、確かな覚悟が宿っているのがわかった。

「私の動機は……不完全な自分を、克服したかったから、です」

 彼女の口から出たのは、僕とはまた違う形の、自己変革への渇望だった。

「私の家は、代々続く医者の家系で、とても……厳格でした。幼い頃から、勉強こそが全てだと教え込まれ、決められたレールの上を歩くのが当然だと。私も、それが当たり前だと思っていました」

 彼女が語る自身の過去は、僕が想像していたものとは少し違っていた。進学校の女子校に通い、理系科目が得意だった彼女は、典型的なリケジョとして、ただひたすらに勉学に明け暮れる日々を送っていたという。

「特に、将来の夢というものもありませんでした。ただ、育ててくれた両親のために、勉強ができるから、なんとなく医学部に進んで、お医者様になるんだろうな、と。そう、漠然と考えていました」

 そんな彼女の人生に、転機が訪れたのは、高校生の時。進路を決めるために、様々な大学や研究室の情報を集めていた、その時だった。

「衝撃的な、出会いでした」

 彼女の瞳が、きらりと、あの日の感動を思い出したかのように輝いた。

「ある科学雑誌に載っていた、一本の論文。そして、その著者紹介のページに載っていた、一人の女性の写真。……それが、何を隠そう、紫京院玲教授だったんです」

 僕は、思わず息を呑んだ。あの魔女が、彼女の運命を変えたというのか。

「科学者でありながら、論文の横には、まるでモデルさんのような美しい写真が載っていて。インタビューでは、ご自身の研究内容だけでなく、男性の心身を科学的に掌握する方法について、嬉々として語っていました。……私は、雷に打たれたような衝撃を受けました」

 彼女の声が、少しだけ熱を帯びる。

「その時、気づいたんです。私も、本当は……もっと女性らしく、綺麗になって、たくさんお洒落をして、友達と遊んで……そして、素敵な殿方と結ばれたいって。ずっと、心の奥に、そんな当たり前の欲求を、両親の教育方針と、女子校という環境の中で、無理やり押し込めていたんだって」

 紫京院玲という存在は、彼女が心の奥底に封じ込めていたなりたい自分そのものだった。科学者としての卓越した知性と、女性としての圧倒的な魅力。その二つを、何一つ諦めることなく、完璧に両立させている姿に、彼女は光を見たのだ。

「それから、私の猛勉強が始まりました。医学部受験のために勉強していた生物だけでなく、東都工業大学の受験に必要な物理も、一から勉強し直しました。大学に入ってからも、超人気で倍率の高い紫京院研究室に入るために、これまで以上に努力しました。私の人生で初めて、『自分の夢のため』に、努力したんです」

「両親は、それに賛同してくれたんですか?」

「えぇ。自分の決めたことなら、もう何も言うまいと。そして医者は、弟が継いでくれると言い出しました。思えばその時から、弟は手のかからない子になった気がします」

 そして、彼女はその夢を掴み取った。晴れて紫京院研究室の一員となり、彼女の元で、生物学だけでなく、オンナを磨くテクニックも学び始めた。

「研究が忙しくて、まだ『リア充』と呼べるような生活は送れていませんけど…でも、教授のおかげで、少しだけ、なりたかった自分に近づけた気がするんです」

 そう言って、彼女ははにかんだ。その笑顔は、これまでのどの笑顔よりも、自信に満ち溢れて見えた。

 だが、と彼女は少し困ったように続けた。

「ただ一つ、悩みもあって……。紫京院教授は、とにかく豊満な肉体こそ至高!というお考えの持ち主なので、教授に勧められるがままにサプリを飲んだり、特別メニューのトレーニングをこなしていたら、体重が……結構、増えてしまって」

 そう言って、彼女は服の上から、自分のお尻や太もものお肉を、ぷに、と指でつまんで見せた。

「バストやヒップのサイズが上がったのは嬉しいんですけど、その分、太ももとかも、むちむちになっちゃって。最近、着られる服が少なくなってきたのが、ちょっと悩み、というか…」

 その、あまりに無防備な仕草。

 スーツの上からでもわかる、指の間にむにゅりと集まる、柔らかな肉の感触。

 僕の視線は、そこに釘付けになった。

 まずい。

 僕の脳が、警鐘を鳴らす。だが、僕の身体は正直だった。トレーニングのせいか、僕の身体は以前よりも遥かに男性ホルモンの影響を受けやすくなっていた。

 僕の下腹部で、僕の意思とは無関係に、何かが急速にその存在を主張し始めるのが、自分でもわかった。

「……物部くん?」

 僕が急に黙り込んだのを、彼女が不審そうに覗き込んでくる。

「ど、どうしました? 顔が、少し赤いような…」

「な、何でもありません!」

 僕は、慌てて立ち上がり、不自然なほど大股で、彼女から距離を取った。バレてはならない。この、生理的で、非論理的な反応を、彼女に知られてはならない。

「す、少し、疲れただけです! 今日のところは、もう解散にしましょう!」

 僕は、一方的にそう言い放つと、そそくさとブリーフィングルームを後にした。

(…乗り切った、か)

 自分の研究室に戻り、僕は荒い息を整えながら、安堵のため息をついた。

 だが、その時の僕はまだ、知らなかった。

 去り際に見た、美生奈さんの顔。彼女の瞳の奥に、僕の動揺の理由を完全に見抜き、そして、それを面白がるかのような、小悪魔的な光が宿っていたことを。

 シンデレラに憧れた少女は、魔女の指導のもと、ただの王子様など、いとも容易く手玉に取る、したたかな小悪魔へと、着実に変貌を遂げているのだった。

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