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#016 捕食者の美学

 ブリーフィングが終わり、興奮冷めやらぬ研究者たちがそれぞれの持ち場へと散っていく。やがて、広大なブリーフィングルームに残されたのは、僕と美生奈先輩、そして蟹江教授と紫京院教授の四人だけになった。

 張り詰めていた空気が緩み、静寂が訪れる。その沈黙を破ったのは、美生奈先輩の、ふとした疑問だった。

「……あの、紫京院教授」

 彼女は、自らの指導教官であり、畏怖の対象でもある魔女へと、おそるおそる問いかけた。

「蟹江教授がこの事態に乗り気なのは、わかります。先生は、常に人類の知性の限界を超えようとなさっていますから。でも……」

 彼女は、言葉を選びながら、慎重に続けた。

「正直、紫京院教授がここまでアンファングのプロジェクトに深く関わられるのは、少し意外でした。先生のご専門は、あくまで人間の美の追求…この、怪獣災害とは、少し分野が違うのではないかと……」

 その言葉を聞いた瞬間、紫京院玲は、まるで心外だと言わんばかりに、柳眉をひそめた。そして、ゆっくりと椅子から立ち上がると、僕たちの前へと歩みを進めてきた。

 コツ、コツ、とハイヒールの音が、静かな部屋に響き渡る。

 彼女が動くたび、その圧倒的な存在感が、周囲の空間そのものを支配していくようだった。モデルすら超越した長身。その身体を包むオーダーメイドの白衣は、彼女の人間離れしたプロポーションを、むしろ強調するためにデザインされているかのようだった。

 まず否が応でも目を引く、バスト。もはやそれは、胸というにはあまりに豊満で、重力に逆らうかのように誇らしげに張り出した、二つの奇跡の果実。

 そしてその下に目をやると、そこにはウエスト。女性の身体に、これほどの極端なくびれが存在しうるのかと、解剖学的な常識を疑いたくなるほどの、奇跡の曲線。

 そして、更にその下に目をやると、ヒップ。白衣のスリットから覗く、丸く、そして天へと突き上がるかのように引き締まった爆尻は、あらゆる雄の理性を焼き尽くすほどの、圧倒的な質量と熱を放っていた。

 彼女は、僕の目の前でぴたりと足を止め、その蠱惑的な唇に、深紅のルージュを塗り直しながら、妖艶に微笑んだ。彼女から放たれる、科学的に調合されたフェロモンの香りが、僕の思考を鈍らせる。

「美生奈さん。あなたは、まだ何もわかっていませんことね」

 その声は、甘く、そしてどこか呆れたような響きを持っていた。

「そもそも、人類が追い求めてきた『美』の歴史とは、生物の歴史そのものですのよ?」

 彼女は、自らの絹のような肌を、うっとりと指でなぞりながら語り始めた。

「例えば、私が毎朝飲んでいるこのスムージー。これには、深海1万メートルに生息する微生物から抽出した、特殊な抗酸化酵素が含まれています。紫外線による細胞の老化を、ほぼ完全に防いでくれるのです」

 次に、彼女は自らの唇を指し示す。

「このルージュの色素は、南米の密林に咲く、千年に一度しか開花しない幻の花の蜜から。唇の細胞を活性化させ、常に最も熟れた状態を保ってくれる」

 そして、彼女は自らの脚、筋肉の上にたっぷりと脂肪が乗った、むっちりとした豊満な太ももを、惜しげもなく組んで見せた。

「この弾力のある脚線美を維持しているのは、絶滅したサーベルタイガーの遺伝子情報を元に、私が合成した特殊な成長ホルモンのおかげ。無駄な脂肪を燃焼させ、女性らしい丸みを残したまま、必要な筋肉だけを増強してくれるのですわ」

 彼女が語る一つ一つの美容法は、常人にはおとぎ話にしか聞こえない、科学と自然の禁断の融合。彼女のこの神々しいまでの肉体は、地球上のあらゆる生命の神秘を喰らい尽くして作り上げられた、究極の芸術品だったのだ。

「……お分かりかしら? 私の美は、既知の生物たちの犠牲の上に成り立っている。そこに、未知の生物……それも、地球外、あるいは異次元の法則で動く、全く新しい生命体が現れたのですのよ?」

 彼女の金色の瞳が、ぎらり、と、飢えた獣のような探求心の色を宿した。

「彼らの生態を、能力を、その身体を構成する全てを解析し、我が物とすることができたなら……! ロスト・エヴォルヴの自己修復能力で、老化を知らぬ肌を。クリスタル・レプリカントの自己増殖能力で、無限のコラーゲンを!」

 彼女は、恍惚とした表情で、両腕を広げた。その姿は、もはや科学者ではなく、人類の美を新たなステージへと導く、女神か悪魔のように見えた。

「人類は、更なる『美』を獲得することができる! 私が、この身をもって、その究極を証明してみせるのです!」

 鼻息荒く、自らの野心を語るその姿は、どこからどう見ても、常軌を逸していた。

 だが、その一切のブレがない、純粋なまでの欲望と探求心に、美生奈先輩は、呆れつつも、どこか安心したように、小さく微笑むのだった。

「……ふふ。そう、ですよね。教授は、そうでなくっちゃ」

 美生奈先輩の、呆れと安堵が入り混じった呟きに、紫京院玲は満足げに微笑んだ。

 そう。この人もまた、蟹江教授と同じ。

 自らの信じる理の果てを見るためなら、世界の危機すらも、最高の実験材料に変えてしまう。

 根っからの、科学者なのだ。

 僕と美生奈先輩は、改めて理解した。

 僕たちは、二人の、とてつもなく偉大で、そして、とてつもなく危険な天才たちと共に、この世界の謎に挑んでいくのだということを。

 そして、紫京院教授は更に話を続ける。

「……さて、私の美への探求心をご理解いただけたところで、その基本も教えて差し上げましょう。究極の美は、まず食事から。私の研究室へいらっしゃいな。お二人を、特別なディナーにご招待しますわ」

 断る、という選択肢は、僕たちの思考には存在しなかった。魔女の晩餐会。それが、どれほど常軌を逸したものであるか、僕たちはまだ、本当の意味で理解していなかった。


 紫京院教授の研究室の奥には、彼女専用のプライベートダイニングが設えられていた。ガラス張りのテーブルに、洗練されたデザインの食器。窓の外には、大学の夜景が宝石のようにきらめいている。

 やがて、白衣を脱ぎ、身体のラインが露わになる深紅のドレスに着替えた教授が、銀色のトレイを手に現れた。

 テーブルに並べられたのは、一見すると、健康志向の高級レストランで出されるような料理の数々だった。未知の植物プランクトンから作られた緑色のスープ、発光するキノコを添えたサラダ、深海魚のカルパッチョ……。どれもが、彼女が語っていたスーパーフードなのだろう。

 だが、その中央に鎮座する、メインディッシュとでも言うべき大皿を見た瞬間、僕と美生奈先輩は、言葉を失った。

 ガラスの皿の上で、うごめいていた。

 艶やかな乳白色の肌を持つ、まるまると太ったカブトムシの幼虫。

 鮮やかな緑色をした、芋虫のようなワーム。

 それらが、数十匹、皿の上で蠢き、互いに絡み合っている。活きた、生の虫。それが、彼女の言う特別なディナーの正体だった。

「こちらは、他大学の農学部との共同研究で生まれた、特別なイリディッセント・ワームです」

 紫京院教授は、うっとりとした表情で、蠢く虫たちを眺めながら説明を始めた。

「彼らの体内には、細胞のテロメアを修復する特殊な酵素が豊富に含まれている。つまり、不老の妙薬。ですが、この酵素は非常に繊細で、加熱調理はもちろん、生命活動が停止した瞬間に、その効果が指数関数的に減少してしまう。だから……」

 彼女は、銀のフォークで、最も元気のいい一匹を掬い上げた。フォークの上で、芋虫が必死にもがいている。

「こうして、踊り食いするのが、最も効率的なのですわ」

 言うが早いか、彼女は、その虫を、ためらいなく、自らの深紅の唇へと運んだ。

「ん……♡」

 恍惚の表情。僕たちの目の前で、虫は彼女の口の中へと消えていく。静かな室内に、プチリ、と、何かが弾ける、生々しい音が響いた。

 彼女は目を細め、その味を堪能するように、ゆっくりと咀嚼する。そして、次の一匹、また次の一匹と、まるで最高級のキャビアでも味わうかのように、優雅に、しかし確実に、虫たちを口へと放り込んでいった。

 途中、一匹の幼虫が彼女の口の端から這い出そうとする。だが教授は、少しも慌てず、その白い人差し指で、優しく、しかし確実に、その虫を口の中へと押し戻した。その仕草は、倒錯的で、背徳的で、そして恐ろしいほどにエロティックだった。

「……美味しい、のですか」

 僕の喉から、かろうじて、絞り出すような声が漏れた。

「ええ」

 彼女は、口元についた体液をナプキンで拭い、にこりと微笑んだ。

「『美』しい『味』がしますわ。文字通りの、『美味』ですのよ」

「……では、ジャンクフードや、スナック菓子などは」

「もちろん、『不味』いですわ」

 彼女は、即答した。

「『不』細工の『味』が、しますもの」

 不細工の味。

 その、あまりに強烈な言葉の響きに、僕と美生奈先輩は、完全に気圧されてしまった。僕たちが普段、無意識に口にしているものが、この魔女にとっては、醜悪な味覚でしかないという事実。

「さぁ、美生奈さん。あなたも、どうぞ? 紫京院研究室の一員として、この美しき味を、その身で理解するのです」

 教授は、虫の皿を、美生奈先輩の前へと押しやった。

「で、でも、しかし……教授、私は……」

 美生奈先輩の顔が、恐怖と嫌悪で青ざめていく。

「……それなら」

 教授は、ふふ、と悪戯っぽく笑うと、小さな小瓶を取り出した。中には、虹色に輝く、とろりとした液体が入っている。

「私の特製ドレッシング、使ってみます? 私も、最初は少し抵抗がありましたから。例の農学部の方と、この子たちを最も美味しくいただくための研究もしてみたのです」

 美生奈先輩は、藁にもすがるような思いで、そのドレッシングを受け取った。そして、意を決して、一匹のワームに、その虹色の液体をかけた。

「い、いただきます……」

 彼女は、目を固くつぶり、震える手で、その虫を口の中へと放り込んだ。

 数秒の沈黙。

 やがて、彼女の固く閉ざされていた目がゆっくりと見開かれていく。その青い瞳に宿っていたのは、恐怖ではなく、驚愕と、そして未知との遭遇に似た、純粋な感動だった。

「あ、あれ……? これは……」

 彼女の唇から、恍惚としたため息が漏れる。

「……美味、しい……♡」

 その瞬間、彼女の中で、何かのタガが外れた。

 美生奈先輩は、まるで何かに取り憑かれたかのように、次々と虫にドレッシングをかけ、それを、パクパクと、夢中で口の中へと放り込んでいく。

 プチリ、プチリ、と、彼女の口の中から、生命が弾ける音が響く。

 途中、僕が先ほど見たのと同じように、彼女の口から這い出ようとした幼虫を、「ん……♡」と、艶めかしく、人差し指で口の中へと押し戻す。

 その光景に、僕は、目を奪われていた。

 頭脳明晰で、常に理知的だった、あの琴吹美生奈という才媛が、今、僕の目の前で、大量の虫をその美しい口の中に放り込み、その腹の中で、ゆっくりと消化しているという、信じがたい事実。

 そして、彼女が虫を口に押し戻す、その艶やかな仕草が、たまらなくセクシーに見えて、目が離せなかった。

「あら……物部くんったら」

 僕の、あまりに露骨な視線に気づいたのだろう。美生奈先輩が、口元を少し汚したまま、こちらを見て、悪戯っぽく微笑んだ。

「そんなに私の方を見て……。あなたも、虫が食べたいんですか?」

 彼女は、ドレッシングのかかった一匹の幼虫をフォークで掬い上げると、僕の目の前へと差し出した。

「ほら、あ~ん♡」

 少なからず、意識している相手からの、食べさせ行為。

 もし、これがケーキか何かであったなら、それは、望外の、甘いご褒美だっただろう。

 だが、僕の目の前にあるのは、まだ、元気に動いている、芋虫だ。

「い、いや、僕は……」

 僕が拒絶するよりも早く、彼女は、僕の顎を掴み、無理やりその口を開かせた。

「遠慮しないで♡ 美味しいですよぉ♡」

 そして、僕の口の中に、その虫を、ねじ込んだ。

 口の中に広がる、未知の食感と、フルーティーで、それでいて濃厚な、ドレッシングの味。

 味は……まぁ、悪くはなかった。

 いや、正直に言えば、美生奈先輩の指が僕の唇に触れた感触と、彼女の吐息の匂いに、意識のほとんどを持っていかれて、よくわからなかった。

 ただ、一つだけ確かなことがある。

 僕と彼女の間の常識という名の壁は、今夜、この奇妙な晩餐会で、完全に、そして美味しく、喰らい尽くされてしまったのだ。


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