#015 現在から未来へ
黒潮海域に出現した、直径50キロに及ぶ死の海。それを見て紫京院教授は言葉を発する。
「第三の存在。『相転移存在』」
紫京院教授の声に、初めて明確な警戒、あるいは畏怖の色が滲んだ。
「これについては、正直に申し上げます。現段階では、その正体、構造、目的、そのほとんどが不明です」
天才科学者である彼女の口から出た「不明」という言葉。それが、事態の深刻さを何よりも雄弁に物語っていた。
「我々が、アンファングのセンサーを通じて唯一、科学的に観測し得た事実は、以下の通りです」
スクリーンに、赤い警告色で彩られたグラフが表示される。それは、領域内の温度が、外部からのエネルギー供給がないにも関わらず、絶対零度に向かって急降下していく様子を示していた。
『熱力学第二法則の局所的破綻』
「この存在が出現し、影響を及ぼしている空間では、我々の宇宙を支配する絶対的なルールの一つ、『エントロピー増大の法則』が無視されます。物質の持つ分子運動エネルギー、すなわち『熱』が、一方的に、強制的に奪われ続けるのです」
スクリーンには、アンファングが海中で遭遇した、あの凍てつく光景が映し出される。リヴァイアサン・スケイルの自己修復ゲルが一瞬で凍結し、機能を停止した、あの恐怖。
「水は氷になるのではありません。分子運動そのものを止められ、絶対零度の状態へと固定される。あらゆる化学反応、生命活動、機械の駆動が停止する、静止した世界。それが『凪の領域』の正体です」
『不安定な核の存在』
「そして、その現象の中心には、周囲から奪った膨大な熱エネルギーを、非常に不安定な状態で内包した、実体ともエネルギー体ともつかない『核』が存在します」
映像は、昴と創磨、2人の東都大学の助教たちの協力によって引き起こされた「共振蒸発」によって、水蒸気の中から姿を現した、あの陽炎のような人型の本体を捉えていた。
「あれは、通常空間における物質ではありません。おそらくは、高次元空間からの投影、あるいは位相のズレた空間に存在する何かが、我々の次元に干渉している姿でしょう。だからこそ、物理的な攻撃が透過し、あるいは無効化されるのです」
『高次物理法則への干渉』
蟹江教授が、重々しく口を開く。
「時間や空間といった、より根源的な物理法則に干渉する能力の萌芽も見られた。今回は、単に熱を奪うだけだったが、次に遭遇する個体は、時間を止め、あるいは空間を捻じ曲げるといった、さらに厄介な、人知を超えた能力を獲得している可能性もある」
会場は、これまでにない、重く、冷たい沈黙に包まれた。
無機物を侵食し、進化する機械生命体。
生態系を書き換え、地球を汚染する異星生物。
そして、宇宙の物理法則そのものを否定する、高次元の存在。
それぞれが、全く異なるアプローチで、全く異なる悪意を持って、我々の文明を、世界のルールを、根底から破壊しに来ている。
人類は、あまりにも無力だ。誰もが、そう思わずにはいられなかった。
だが。
その絶望的な沈黙を破ったのは、杖を床に甲高く突き鳴らす音と、蟹江教授の、不敵で、挑戦的な一言だった。
「――だが、絶望するには早い。いや、絶望などしている暇はないのだよ、諸君」
彼の言葉に、全員の視線が、再び壇上の教授へと集まる。彼の眼鏡の奥の瞳は、恐怖ではなく、むしろこれから始まる難解な実験を前にした子供のように、爛々と輝いていた。
「なぜなら、我々は科学者だからだ。違うかね?」
彼は、会場の一人ひとりの顔を見据えながら、問いかけた。
「未知とは、我々凡人にとっては恐怖の対象かもしれない。だが、ここにいる諸君のような、選ばれた知性にとっては、どうだ? それは、解き明かすべき、最高の謎。征服すべき、至高の研究対象ではないのかね?」
教授の言葉が、凍り付いていた研究者たちの心に、小さな火を点けた。
隣に立つ紫京院教授も、妖艶に、そして獰猛な肉食獣のように微笑んで同意する。
「ええ、その通りですわ、教授。彼らは、言葉こそ通じませんが、その身をもって、我々がまだ知らない宇宙の真理、新しい科学の教科書を、示してくれているのです。ならば、我々人類の知性の代表として、その教科書を、一ページ残らず読み解き、理解し、そして……」
彼女は、一度言葉を切り、会場全体を見渡してから、言い放った。
「……支配して差し上げようではありませんか」
それは、神をも恐れぬ、傲慢な言葉だった。だが、その言葉は、この場にいる天才たちの魂を、強く揺さぶった。
紫京院教授は、さらに声を張り上げ、ここに、新生プロジェクト・アンファングの、狂気と紙一重の基本方針を高らかに宣言した。
「これより、我々チーム・アンファングは、出現した全ての敵性存在に対し、人類の脅威としてこれを撃破することは当然として、それと同時に、『可能な限りのサンプルを確保すること』を最優先事項とします!」
会場が、ざわめく。敵を倒すだけでなく、捕獲しろというのか。あの化け物たちを。
「確保したサンプルは、生物班がその生態と弱点を、化学班がその組成を、物理班がその特殊能力の原理を、それぞれのプライドを懸けて、不眠不休で暴き出しなさい!」
「そして、得られた全ての知見、全てのデータ、全てのテクノロジーは、我らが希望、純白の巨人『アンファング』の、そしてゆくゆくはそれをも超える次世代の戦力となる巨人の、新たな武装、新たな装甲、新たな戦術プログラムへと、即座にフィードバックする!」
蟹江教授が、アンファングの設計図が映し出されたスクリーンを背に、力強く拳を突き上げた。
「我々は、敵を知り、敵を喰らい、敵を学び、そして敵を超えて進化する! それこそが、科学の力であり、生命の力だ! 彼らが進化するならば、我々はそれ以上の速度で進化し、彼らを凌駕する! これが、我々の戦い方だ!」
それは、もはや防衛のための戦いではない。知性による、侵略者へのカウンターアタックの宣言だった。
その場にいた誰もが、その狂気に、その熱量に、魅せられていた。
恐怖に顔を強張らせ、下を向いていた研究者たちが、一人、また一人と顔を上げる。その瞳から、絶望の色が消え、代わりに、科学者としての本能、知的な探究心の炎が、再び、力強く灯っていくのが見えた。
彼らは、それぞれの端末を取り出し、早くもそれぞれの専門分野からのアプローチについて、議論を、計算を開始し始めていた。会場の空気は、重苦しいものから、創造的で、熱狂的なものへと一変した。
「物部君、琴吹君」
熱気に包まれる会場の中で、蟹江教授が、静かに僕たち二人を見た。
「君たちは、その知性の最前線に立つ、我々の目であり、手であり、そして最も優秀な『観測者』だ。君たちが持ち帰るデータの一つひとつが、我々の進化の糧となる。頼んだぞ」
教授の言葉には、これまでのような皮肉や揶揄の色はなく、純粋な信頼と、重い責任が込められていた。
僕は、隣の美生奈先輩の手を、そっと握った。彼女も、強く握り返してくれた。
僕の脳裏に、あのクレヨンで描かれたアンファングの絵と、感謝の手紙が浮かぶ。
僕には、戦う理由がある。守るべき人々がいる。
そして今、僕の背中には、人類の叡智を結集した、最高にクレイジーで、最高に頼もしい仲間たちがいる。
僕たちの戦いは、もう、孤独なものではない。
「……はい、教授」
「了解です。私たちに、お任せください」
僕と美生奈先輩は、二人の教授に向かって、力強く、迷いなく頷いた。
スクリーンには、新生アンファングのエンブレム――知恵の象徴である蛇が、地球を包み込むように巻き付いたデザイン――が、誇らしげに輝いていた。
東都工業大学地下、プロジェクト・アンファング。
ここから、人類の反撃が、本当の意味で始まるのだ。
新生チームが産声を上げたその瞬間を、僕は、一生忘れないだろう。
僕は、自らの役割を再認識し、静かに闘志を燃やしていた。来るべき、次なる『問いかけ』に備えて。




