#011 静寂の特異点
結城創磨という、複雑な影を落とす天才の存在は、プロジェクトに不穏な空気を持ち込んだ。だが、時間は待ってはくれない。「凪の領域」は、その範囲をゆっくりと、しかし確実に拡大し続けていた。
僕と美生奈先輩が過酷なトレーニングとシミュレーションに明け暮れる傍ら、地上では、二人の天才による拡張パーツの開発が、昼夜を問わず進められていた。
鋼宙寺昴は、その卓越した航空宇宙工学の知識で、推進システムの理論を構築し、設計図を描き上げた。一方、結城創磨は、研究室に閉じこもり、誰とも言葉を交わさず、ただ黙々と、昴助教が要求する「理論上可能だが、現代の技術では生成不可能」とされた特殊合金の精製に没頭していた。二人の間に会話はなかったが、それぞれの仕事は、恐ろしいほどの精度で進んでいった。
そして、あの日からわずか一週間後。僕たちの目の前に、アンファングの新たな翼と鱗が、その姿を現した。
「すごい……」
美生奈先輩が、感嘆の息を漏らす。
アンファングの背部には、白鳥の翼を思わせる、流麗かつ力強いフォルムの推進ユニットが装着されていた。その翼の一部には、創磨助教が作り出したという、まるで液体金属のように鈍い銀色の光を放つ、未知の金属が使われている。
「空中飛行用パーツ、『アルジェント・スヴァール・インパルサー』。そして潜行用ユニット『リヴァイアサン・スケイル』。これより、最終接続シークエンスに移行する」
管制室から、昴助教の、少しだけ誇らしげな声が響いた。彼の隣には、不機嫌そうな顔を隠そうともしない創磨助教が、腕を組んで立っている。
「アンファング、発進!」
矢崎オペレーターの号令と共に、アンファングはカタパルトから射出される。だが、今回は空へと舞い上がるのではない。そのまま、ドックに隣接する地下水路へと、静かにその巨体を滑らせていった。
『アルジェント・スヴァール・インパルサーのエネルギー消費は、まだ未知数な部分が多い。現地までは、リヴァイアサン・スケイルの電磁推進を使い、海中を潜行してくれ。それが最も効率的だ』
管制室から、昴助教の冷静な指示が飛ぶ。
コックピットの全天周モニターが、青い光に満たされる。アンファングは、リヴァイアサン・スケイルの無音響電磁推進(MHD推進)によって、まるで巨大な鯨のように、静かに、そして滑らかに水中を進んでいく。
モニターには、色とりどりの魚の群れや、美しい珊瑚礁が映し出される。だが、僕たちの目に、その美しさを楽しむ余裕はなかった。僕たちの思考は、今この瞬間も助けを待っている、海上の人々へと向けられていた。
数時間の潜行を経て、アンファントはついに「凪の領域」の境界線に到達した。
『これより、目標エリアに侵入する。
……なんだ、これは……』
昴助教の声が、驚きに変わる。
領域に侵入した瞬間、アンファングの機体情報モニターに、無数のアラートが表示された。
『外気温、マイナス120度!? ありえない!』
『水の粘性係数、通常時の約800%! 海が、まるでゼリーに……!』
『機体制御OSに高負荷! パイロットはマニュアルでの姿勢制御に切り替えてくれ!』
管制室が、一気に混乱に陥る。
「……僕がやります」
僕は、冷静にオートパイロットを解除し、操縦桿を握りしめた。人工筋肉の出力を微調整し、異常な粘性を持つ水塊の中を、一歩、また一歩と、アンファングを進めていく。
やがて、アンファングは海面にその姿を現した。
そこは、本当に、時間が止まったかのような世界だった。鏡のように静まり返った海面に、十数隻の船が、まるで模型のように、完全に静止して浮かんでいる。
『よし、救助活動を開始する! 愛都くん、美生奈くん、聞こえるか!』
昴助教の声が、僕たちを現実に引き戻す。
『まずは、一番近くの漁船からだ。リヴァイアサン・スケイルは、精密なマニピュレーター操作を阻害しないように設計されている。慎重に、船体を傷つけないように持ち上げてくれ』
「了解……!」
美生奈先輩が、後部座席で繊細な操作を開始する。アンファングの巨大な手が、まるで赤子を抱きかかえるように、そっと漁船を包み込んだ。
その時、創磨助教の、棘のある声が響いた。
『おい、琴吹とか言ったか。その角度じゃダメだ。船体の重心がずれている。そのまま持ち上げれば、船底に亀裂が入るぞ』
「えっ……」
『俺が作った鱗の表面センサーのデータを信じろ。あと3度、右に傾けろ。……そうだ、そこだ』
創磨助教の的確な指示に、美生奈先輩は驚きながらも従った。アンファングは、漁船を安定した状態で持ち上げ、領域の外で待機している海上保安庁の巡視船へと、無事に送り届けた。
『……創磨、助かった』
昴助教が、素直に礼を言う。だが、創磨助教は、ふいと顔を背けた。
『……別に。俺の作った金属が、欠陥品だと思われるのが嫌だっただけだ』
二人の間の溝は、まだ埋まっていない。だが、彼らの知識と技術が、今、確かに人々の命を救っている。その事実だけが、この場の唯一の希望だった。
救助活動は、順調に進んでいった。上空では、アルジェント・スヴァール・インパルサーの限定的なホバリング機能を使って、アンファングは空中プラットフォームとなり、ヘリコプターが近づけない船舶から、人々を吊り上げていった。
全ての船舶の救助が完了するまで、あとわずか。
その間も、僕たちのもう一つの任務は、続けられていた。
「……蟹江教授。やはり、おかしいです」
僕は、この海域の異常なデータを、管制室へと送り続けていた。
「この領域全体から、一方的に熱エネルギーが奪われ続けています。まるで、この海のどこかに、熱を吸収する、巨大なマイナスの熱源があるかのようです」
『うむ。私も同意見だ。結城くん、君のスケイルのセンサーで、その中心点を特定できるかね?』
蟹江教授の問いに、創磨助教が、初めて自らの意思で、コンソールを操作し始めた。
『……見つけた。領域の中心、水深2000メートルの海底だ。そこに、周囲とは比較にならない、極端な低温エネルギーの放出点が……』
その、創磨助教の言葉が、途切れた。
彼の顔から、血の気が引いていくのがわかった。
『……なんだ。……なんだ、これは……!?』
モニターに、彼のセンサーが捉えた、信じがたい映像が映し出される。
そこには、何もない。
ただ、真っ暗な海底があるだけだ。
だが、その「何もない」空間が、まるで宇宙そのものに開いた穴のように、周囲の海水と、そして光さえも、吸い込んでいるように見えた。
『熱源じゃない……! あれは……!』
その、創磨助教の絶叫と同時に。
その「穴」から、絶対零度の、そして絶望的なまでの静寂を纏った、人型の「何か」が、ゆっくりと姿を現し始めたのだった。