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#010 歪んだ連星

 ロスト・エヴォルヴとの死闘から、二週間が経過していた。

 僕の日常には、新たに「筋肉との対話」という、極めて不合理な時間が組み込まれていた。しかし、人間の身体とは現金なもので、あれほど苦痛だったトレーニングにも、次第に適応し始めていた。息切れするまでの時間は延び、扱えるウェイトの重量も、誤差の範囲をわずかに超えて増加していた。

「……よし、物部くん、今日のノルマはクリアだね。よく頑張った」

 トレーニング後、床に倒れ込む僕に、美生奈先輩がタオルとスポーツドリンクを差し出してくれた。トレーニング期間が一区切りを終えたので、僕の彼女に対する話し方に対する縛りも解かれた。……のだが、彼女の方はこれまで通り僕に対する馴れ馴れしい態度を継続するつもりらしい。僕の方はイメージ復権のためにもすぐに元に戻したが。彼女の声には、以前のような挑発的な響きはなく、純粋な労いが込められている。そのことが、僕の疲弊した身体に不思議な満足感を満たしていた。

 この関係性が正常なのか異常なのか、僕の思考はまだ答えを出せずにいる。だが少なくとも、悪くはない。そう思えるようになっていた。

 そんなつかの間の平穏を破るように、僕の端末が着信を告げた。相手は、蟹江教授だった。

『物部くん、琴吹くん。すぐに第一ブリーフィングルームへ。新たな『問いかけ』だ』

 ブリーフィングルームのメインモニターには、静まり返った大海原の衛星映像が映し出されていた。

「これは……日本の太平洋沖、黒潮海域だ」

 蟹江教授が、レーザーポインターで映像の中心を指し示す。

「数時間前、この海域に、直径およそ50キロに及ぶ、完全に波と海流が静止した“凪の領域”が突如として出現した。領域内に入った船舶は、原因不明のエンジン停止と電子機器の完全ダウンに見舞われ、現在十数隻が孤立している」

 モニターに孤立した船舶からの途切れ途切れの救難通信が表示される。『動けない』『計器が全部死んだ』『まるで海がゼリーになったようだ』……悲痛な声が、事態の異常さを物語っていた。

「原因は不明。だが、これはただの自然現象ではない。そして君たちのアンファングは、元々こういった未知の災害から人命を救助するために建造されたものだ。その真価を発揮する時が来た、ということだね」

 蟹江教授が、腕を組んでモニターを睨みつけながら言った。

「ですが、教授」僕は、最も根本的な問題を指摘した。「アンファングは現状、陸上でしか活動できません。海上での任務は不可能です」

「その通りだ。だから、手を打った」

 蟹江教授が、不敵な笑みを浮かべた。

「この緊急事態に際し、政府もようやく重い腰を上げてくれた。アンファングに、限定的ながらも空中および水中での活動能力を付与するための、拡張パーツの緊急開発が承認されたのだ。そしてその設計と製造のリーダーとして、外部から最高の頭脳を招聘した」

 最高の頭脳。その言葉に、僕と美生奈先輩は顔を見合わせた。

「我が東都工業大学と、常に日本の科学技術のトップを争うライバル……泣く子も黙る、東都大学から来られたお二人だ。心して相手をするといい」

 開発ドックに、僕たちと教授たちが集まっていた。アンファングの周囲では、急遽集められた技術者たちが、慌ただしく準備を進めている。やがて、ドックのゲートが開き、一人の青年が少し気まずそうに、しかし堂々とした足取りで入ってきた。

 歳は、僕たちとそれほど変わらないように見える。おそらく20代後半。癖のある茶髪に、人懐っこそうな顔立ち。だがその瞳の奥には、確かな知性が宿っていた。

「……あれ? 一人ですか?」

 美生奈先輩が、小首を傾げる。蟹江教授は「二人呼んだはずだが」と眉をひそめた。

「あ……」青年は、困ったように頭を掻いた。「あいつは、まぁ、なんか色々と、あるみたいで……。先に自己紹介、させてもらいます」

 彼は、僕たちに向かって、少しぎこちなく、しかし朗らかに頭を下げた。

「俺、鋼宙寺昴(こうちゅうじすばる)。東都大学の工学部航空宇宙工学科で、極限環境下での機体適応に関する研究をやってる。助教です。よろしく」

 その、あまりに謙虚で、親しみやすい態度に、僕たちの緊張は自然と解けていった。

「東都大学工学部、しかも航空宇宙工学科だなんて……エリート中のエリートじゃないですか」

 美生奈先輩が、素直な感嘆の声を上げる。

「いや……俺なんて、全然普通だよ。普通……」

 昴と名乗った青年は、何かを誤魔化すように、曖昧に言葉を濁した。

 その時だった。

 ドックの入り口から、昴とは対照的な、冷たく、そして鋭い声が響いた。

「普通なわけあるかよ」

 全員の視線が、声のした方へと向く。

 そこに立っていたのは、もう一人の青年だった。

 昴助教と同じくらいの歳だろうか。だが、その雰囲気はまるで違う。夜の闇を溶かし込んだような黒髪に、全てを拒絶するかのような、冷たい灰色の瞳。その佇まいは、まるで精巧に作られた、氷の彫刻のようだった。

 男は、ゆっくりと僕たちの方へ歩いてくる。その足音だけが、やけに大きくドックに響いた。そして昴の隣に立つと、まるで値踏みするかのように、僕と、そしてアンファングを一瞥した。

 昴助教が、まるで弟を諭すかのような、困った顔で呟く。

「……創磨(そうま)

 彼こそが、もう一人の東都大学から呼ばれた男だったのだ。鋼宙寺昴と名乗った青年の隣に立った、氷のような雰囲気を持つもう一人の男。彼の出現に、ドック内の空気は一瞬で張り詰めた。昴助教が、まるで壊れ物を扱うかのように、その名を呼ぶ。

「……創磨、お前今までどこに行ってたんだよ」

 創磨と呼ばれた男は、僕たち、そしてアンファングを、まるで不純物でも見るかのような冷たい視線で一瞥すると、忌々しそうに、しかし明瞭に名乗った。

「……結城創磨(ゆうきそうま)。専門は金属工学だ。この昴とかいう奴が夢想するありえない可能性を、現実の形にするための金属を作っている」

 彼の言葉には、自らの仕事への誇りと、それ以上の深い諦念が滲んでいた。そして、彼は自嘲するように、こう付け加えた。

「……まぁ、こいつほど俺は大した奴じゃないから、あまり期待しないでほしい」

 その言葉に、それまで穏やかだった昴の表情が一変した。

「創磨、お前! この子たちは、君の力を必要としているんだぞ! その彼らの前で、なんてことを言うんだ!」

 昴助教の悲痛な叫びに、創磨助教は、まるで心の奥底に溜め込んだマグマを噴出させるかのように、激昂した。

「うるさい! 俺の夢を踏みにじったお前に、何がわかる!」

 殴りかかりそうなほどの剣幕。僕と美生奈先輩は、ただ呆然と、二人の天才の間に横たわる、深く、そして暗い亀裂を見つめることしかできなかった。

「……どういう、ことですか?」

 美生奈先輩が、恐る恐る昴に尋ねた。昴助教は、悲しそうに目を伏せ、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

 東都大学には、「進振り」という伝統的な制度がある。一年次と二年次の成績によって、三年生から進むことのできる専門分野が厳格に決定される、というものだ。

 二人の助教は、大学に入学する前からの、互いを唯一無二と認め合うライバルだった。そして二人には、共通の夢があった。

 ――航空宇宙工学。

 果てなき大空と、その先に広がる深淵の宇宙へ、人類を導くための翼を、その手で作り上げること。

 だが、その夢への扉を開くことができたのは、昴ただ一人だった。

 創磨はほんのわずかな成績の差で航空宇宙工学科への道を断たれた。そしてやむなく、第二希望であった金属工学の道へと進むことになったのだ。

「創磨は、ずっと言ってた。『昴さえいなければ、あの枠には自分が入れたはずだ』って……。俺は、あいつから、夢を奪ってしまったんだ」

 昴助教の声は、罪悪感に震えていた。創磨は、昴というあまりに眩しすぎる光の存在に、自らの道を閉ざされたのだと思い込んでいた。そしてその感情は、やがてコンプレックスという名の、抜け出すことのできない迷宮へと、彼を閉じ込めてしまったのだ。

「……でもお前は、その金属工学の道で、誰にも真似できないような成果を出した。だからこそ今こうして、ここに呼ばれている。それでいいじゃないか」

 昴助教の必死の説得は、しかし、創磨助教の凍てついた心には届かなかった。

「お前はいつもそうだ……! いつもそうやって俺を、惨めな気持ちにさせる……!」

 創磨助教の理性の糸が、ついに切れた。握りしめられた拳が、昴助教の顔面を目がけて振り上げられる。

 だが、その拳が昴に届くことはなかった。

 まるで瞬間移動したかのように、二人の間に割って入った蟹江教授が、その拳を、いとも容易く受け止めていたのだ。

「やめたまえ」

 教授の声は、静かだった。だが、その静けさは、絶対零度の冷たさを含んでいた。

「知性を最大の武器とする我々学者が、暴力という最も原始的で非効率な手段に訴えるなど、あまりにもナンセンスだ。結城くん、君も学者のはしくれならば、学者らしく、その知性で見返すことだ。違うかね?」

 蟹江教授の言葉に創磨の目から、わずかに激情の光が消えた。彼は自らの拳を見つめ、そして何かを振り払うように、乱暴に教授の手を振りほどいた。

「……わかったよ……」

 それだけを吐き捨てると、創磨助教は僕たちに背を向け、ドックから出て行ってしまった。

 後に残されたのは重く、気まずい沈黙だけだった。

 昴助教が僕たちに向かって、申し訳なさそうに頭を下げる。

「ごめん、二人とも。あんなんだけど、あいつは、本当は誰よりも、人々のために役立ちたいって思ってる、いい奴なんだ。ただ、ちょっと、俺のことを意識しすぎているだけで……」

 彼の言葉は、嘘ではないのだろう。だが、あれほどまでにこじれてしまった関係性が、この緊急事態の中で、果たして正常に機能するのだろうか。

 期待と、それ以上に大きな不安を胸に抱えたまま、僕たちは、アンファングの新たな翼と鱗の製造が開始されるのを、ただ見守るしかなかった。

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