#001 揺りかごの量子
夜の研究棟。僕以外の人間は、もうほとんど残っていないはずだった。
自室でのシミュレーションに行き詰まり、気分転換と、そして何より、僕の子供に会うために、地下のドックへと続く関係者用のエレベーターに乗り込んでいた。
エレベーターの扉が開くと、ひんやりとした巨大な空間が広がる。そして、その中央。スポットライトを浴びて静かに佇む、純白の巨人。
僕の携わった作品の中でも、最大にして最高傑作。
『アンファング』。
そのどこまでも滑らかで、美しい曲線を描く装甲。生物の骨格と筋肉の構造を、完璧な数式で再現した内部フレーム。そして何より、あの巨体をまるで生きているかのように動かす、僕が設計した『慣性制御システム』。
口元が自然と緩むのがわかる。
当然だ。あれは、僕の頭脳がなければ決して生まれなかったのだから。
ガラス張りのオブザベーションルームの横にある、暗い通路に身を潜めるようにして、その神々しいまでの姿を、うっとりと眺めていた。
その時だった。
オブザベーションルームの中から、話し声が聞こえてきた。高坂総一郎プロジェクト総責任者と、材料工学の篠宮教授。そして……情報工学の、矢部教授か。
「……美しい。何度見ても、工学の粋を集めた芸術品だ」
高坂先生の、感嘆の声が聞こえる。
(その通りだ)と、僕は心の中で頷いた。芸術品。実に、的確な表現だ。
「芸術品、ですか。私には、国家予算を数年分飲み込んだ、史上最も高価な『問題提起』に見えますがね」
矢部教授の、いつもの皮肉っぽい口調。彼の設計したAI「マックスウェル」は優秀だが、彼のその斜に構えた性格は、どうにも好きになれなかった。
「見たまえ、あの有機的なフォルムを。篠宮君、君のチームが開発した多層複合装甲と、合成生物学セクションの『人工筋肉アクチュエーター』が見事に融合している」
「ええ!特に紫京院教授の研究室から提出された電場応答性マテリアルの性能は驚異的です。あれのおかげで、従来の油圧式では到底不可能だった、人間のトップアスリート並みの柔軟な挙動が可能になったのですから」
大人たちが僕の作品を褒めそやすのを、僕はどこか誇らしい気持ちで聞いていた。
そう、もっと褒めるがいい。その全ては、僕の理論がなければただの鉄の塊に過ぎなかったのだから。
だが、次に聞こえてきた篠宮教授の言葉に、僕の心は少しだけ波立った。
「物理工学の物部君などは、頭脳だけなら最高の適性値を出しているのですがね」
僕の名前。
パイロット候補としての、僕のデータ。
だがそれを即座に否定したのは、矢部教授の冷たい声だった。
「協調性が壊滅的だ。ペアを組む相手の精神が持たないだろう。それに、彼の体力ではシミュレーターの初期Gにすら耐えられなかった」
……事実だった。
僕の頭脳は、アンファングを動かすに足る。だが、僕のこの脆弱な肉体は、その最低条件すら満たしてはいなかった。
それに協調性。他者と足並みを揃えて何かをするなど、僕の思考回路には最初からプログラムされていない。
(……まあ、いい)
僕は静かに自分に言い聞かせた。
(パイロットになどなれなくてもいい。僕はあくまで裏方専門だ。このアンファングを、この手で世界最高のロボットに作り上げることさえできれば、それで)
そう思っていると、また新たな登場人物が舞台に上がってきた。声の主は、政府から派遣された、伊集院監査官。
「あれは、核兵器と同じです。使う者の意図一つで、神にも悪魔にもなる。我々は、人類には過ぎた力……パンドラの箱を開けているのではないかと、危惧しているのですよ」
その言葉に大人たちは沈黙した。僕もまた、何も言い返せなかった。
僕が生み出した力が、世界を滅ぼす可能性がある。その事実から目を背けることは、できなかった。
しかし。高坂先生の決意に満ちた声が、その沈黙を破った。
「だからこそ、我々は信じるのです。人類の持つ、最も偉大な力……未知へと挑む探求心と、隣人と手を取り合う理性を。アンファングは、その象徴となるはずです」
美しい理想論だ。だがその理想。僕は、嫌いではなかった。
「アンファング……それは2つの意味を持つ。英語で『牙無き者』。未踏領域の探査、大規模災害救助、次世代エネルギー採掘……戦闘以外の用途を目的として開発された君に相応しい名だ。そしてもう一つが、ドイツ語で『始まり』。これもまた未踏領域や次世代エネルギーといった、まだ見ぬ領域の歴史を始める君に相応しい」
高坂先生が、ガラスの向こうの巨人に語りかける。
「君が、人類にとって輝かしい未来の始まりとなるのか。それとも、我々の手に負えぬ、終わりの始まりとなるのか……。それは、もうすぐわかる」
僕はその言葉を最後に、静かにその場を後にした。
そうだ。僕は、パイロットではない。
この物語の、主役ではないのだ。
この揺りかごの中で眠る巨人が、いつか選ばれた誰かの手によって輝かしい未来を切り拓くのを、僕は舞台の袖から見ているだけでいい。
その時の僕はまだ、そう思っていた。
僕自身の手でこの禁断のパンドラの箱をこじ開けることになるなど、夢にも思わずに。
東都工業大学のキャンパスに夜の帳が下りても、一部の研究棟の明かりは煌々と灯り続けていた。その一つ、巨大ロボット「アンファング」開発プロジェクトの心臓部とも言える第7研究棟の最上階。そこに僕、物部愛都の姿はあった。
「……違う。この随伴作用素の定義では、無限次元ヒルベルト空間における自己共役性が保証されない。ナンセンスだ」
ホログラムで投影された複雑な数式を、細く白い指先でなぞりながら冷たく言い放つ。僕の呟きに応答したのは、対話型AIの「マックスウェル」。無機質な合成音声が、静寂を破った。
『代替案として、ゲルファントの三つ組を導入した拡張を提案します。これにより、物理的に意味のある状態ベクトル空間を定義可能です』
「当然の帰結です。僕が聞きたいのは、その実装における計算コスト。シミュレーションの精度を0.01%向上させるために、リソースを5%も割くのは非効率的だ」
僕は、人間よりもAIや機械との対話を好んだ。そこに曖昧な感情や忖度は存在しない。あるのは純粋な論理と事実だけ。艶やかな黒髪のボブカットがさらりと揺れ、大きな黒い瞳が映し出すのは、人間社会への関心ではなく、世界の根源を記述する物理法則への探究心のみ。僕が開発に携わるアンファングの基礎機構、特に量子挙動を応用した慣性制御システムの構築は、僕の天才的な頭脳なくしては進まなかった。
「はぁ……はぁ……」
少し熱を帯びて思考を巡らせただけで、僕の呼吸は浅くなる。自身の脆弱な身体を忌々しく思いながら、僕はデスクに置かれた栄養補助食品を口に含んだ。その華奢な見た目と、時折見せる率直すぎる物言いのせいで、周囲からは敬遠されることも少なくない。だが、僕自身はそれを気にも留めていなかった。アンファングの完成こそが、僕のすべてだった。
そのために新たな数式モデルの構築に没頭していた、その時だった。
ゴ、ゴゴゴ……ズズズ……。
地鳴りのような低い振動。だがそれは、地震のように不規則に揺れるものではない。まるで巨大なヤスリで大地を削り取るような、連続的で、何かを侵食していくような不気味な音だった。
「……なんだ?」
僕はホログラムから顔を上げた。物理学の天才である僕の聴覚と分析能力が、その振動が自然現象でも、人工的な機械の駆動音でもないと即座に告げていた。高周波の共鳴音。まるで水晶を擦り合わせたような、耳障りな音が混じっている。
次の瞬間、キャンパスの非常警報がけたたましく鳴り響いた。
『緊急事態発生。第7研究棟周辺に正体不明のオブジェクトを確認。高エネルギー反応を検知。職員は直ちに避難してください』
「正体不明のオブジェクト……?」
椅子から転がり落ちるように立ち上がると、息を切らしながら窓辺へ駆け寄った。そして、信じがたい光景を目の当たりにする。
闇に包まれたキャンパスの中を、半透明な、水晶のような身体を持つ異形の存在が複数、蠢いていた。それは生物とも機械ともつかない、不気味な姿をしていた。小型のものが二体、そしてその後方に、一際巨大な一体が鎮座している。
彼らは、歩いているのではない。その身体の先端を地面や研究棟の壁に接触させ、接触した部分を同質の結晶体へと変えながら、まるでアメーバのように「侵食」し、進んでいた。
「あれは……なんだ……?」
脳が、目の前の現象を理解しようと高速で回転する。あれはロボットではない。生命体? だとしたら、炭素ベースですらない? シリコン生命体? そんなものが、なぜここに?
目的は明らかだった。彼らは無作為に破壊しているのではない。一直線に、この第7研究棟、その地下に眠るアンファングから発せられる膨大なエネルギーに引き寄せられるように、進んでいる。
「アンファング……!」
目的は強奪などという生易しいものではない。捕食だ。あれらはアンファングを、その技術を、エネルギーを、すべて喰らい尽くすつもりなのだ。
血の気が引いた。アンファングは人類の叡智の結晶。そしてそれ以上に、僕の最高傑作だ。それが、あんな得体の知れない存在の餌食になることなど、断じてあってはならない。
思考は瞬時に結論を導き出す。
――僕が、動かす。