秘事
宏次が家に帰らぬようになって随分経つ。
康祐は高校生になっていた。
友人と駅で別れた後、帰路につく足取りが重い。
玄関には見知らぬ男の靴。
―――またか―――
康祐は小さくため息をつき、自室へと向かう。
美恵子の部屋からはせわしない喘ぎ声。
それは艶で、卑しく、そして侵しがたいくらいに高貴であった。
母は今、女として
見知らぬ男に組み敷かれている。
どういう表情をし、
誘い
果てるのか
母は美しい
その母が卑しめられる場面を思い描き
康祐は震え、果てる
後に残るのは後悔と嫌悪感。
「だめだ。こんなの」
康祐は暗い部屋で膝を抱える。
―――母は死ぬつもりなど、なかったのかもしれない―――
ただ眠れないからと、その量を誤って飲んでしまったのだ。
その朝美恵子は目を覚まさなかった。
傍らで三人の息子がむせび泣く。
それは蒼白で、どこまでも冷たかった。
しかし康祐はそれを美しいと思った。
この世の何よりも侵しがたく、神聖な美しさだと思った。
蝋人形のように成り果ててしまった、母の亡骸に口付ける。
御伽噺のように、母は目覚めることはなかったが、王子が自分ではなく父ならば、と康祐は思う。
いや、そうではない。
そうではないのだ。
母を死に追いやったのは他でもない、父なのだ。
康祐の心に黒いものが満ちる。
母の葬儀は社葬となり、垂水の娘としてふさわしく盛大に執り行われた。
多くの人が参列し、口々にその葬儀の立派さを褒めた。
おかしな光景だと康祐は思う。
これだけたくさんの人がいるのに、誰一人母の孤独や葛藤を知っていた者はおらず、
その死を本当に悼む人がいないように見えた。
父ですら、母の死に涙ひとつみせない。
そのことが、腹立たしいのか悲しいのか、康祐にはよくわからなかった。
一度父と静かに話しをしたいと思った。
父と母の間にあった葛藤を、自分はもう理解できる年齢に達している。
「あの、お父さん話が―――。」
と切り出してみるものの、
「お母さんの葬儀で、私も疲れている。後日にしてもらえないか」
と言われてしまう。
一度は「そう」と応じたものの、やはり父には話を聞く義務があると思い直し、
父を追ってタクシーに乗り込んだ。
着いた先は、高級そうなマンションの玄関。
康祐は気づかれぬように父を尾行する。
父は5階の表札のない部屋の前で立ち止まり、鍵を開けた。
中から現れたのは、自分とあまり歳の違わないであろう、美しい女性だった。
―――あれが、父の女―――
憤りと好奇心とが混ざり合う。
後日、康祐はその部屋の前に立っていた。
「父のことで話が―――」
と切り出すと、彼女はすんなりと部屋に康祐を迎え入れた。
小ざっぱりとはしているが、玄関に花が生けられており、
部屋に置かれている何気ない装飾には趣向が凝らしてある。
将来インテリアデザイナーになりたいのだと、彼女は言う。
「あなたのお父さん? ああ、お金だけの関係だから、悪く思わないで」
大学の授業料と、このマンションを提供してもらってるのよ。
と彼女はあっけらかんとした様子で応じる。
「じゃあ、君は僕にその口止め料を払ってよ。」
彼女は、康祐を値踏むように見つめ、「いいわ」と応じる。
―――これは父の女―――
そのことが、康祐の心を不用意に掻き立てた。
「これで、私とあなたは共犯よ」
彼女の呟きが冷やりと康祐の耳に落ちる。
康祐と美咲の関係続く。
しかし『取引』という関係はもはや存続できないほどに、
二人は惹かれていった。
しかしお互いにそれは言い出せない。
なぜならこれはゲームだから。
言ってしまうと負けなのだ。
しかし相手には言わせてしまいたい。
「ねえ、あなたは私が好きなんでしょう?」
よく手入れのされた美咲の爪には蝶をモチーフにした装飾が施されてある。
康祐は思う。
彼女は蝶なのか―――それとも。
タランチュラ
自分が彼女の糸に捕らえられた獲物であるような錯覚に陥る。
彼女の唇は毒を孕んで・・・
そう―――白く細い腕が康祐をやおら抱くと
理性も意識も朧げに白んでゆく。
―――彼女の幻惑に魅せられ、堕ちて、沈む―――
予定が狂ったのだ。それは先方の突然のキャンセルで、
午後がまるまる空いてしまった。
時間を持余し、宏次は何とはなしに彼女の家に向かう
「この時間帯なら、もしかしたら出かけているかもしれない」
宏次は鞄からスペアキーを取り出し、ドアを開ける。
見知らぬ男の靴を不審に思う。
中の様子をそっと伺うと
寝室から声が聞こえる。
「あなたは私が好きなんだわ」
宏次は鍵穴から、それを伺う。
美咲がベッドの上で男と戯れている。
宏次の全身が怒りで熱くなる。
不意に男が振り返り、
宏次は戦慄を覚える。
由香子の忘れ形見である志郎は8歳になっていた。
志郎は宏次の姿をみつけると、嬉しそうに走り寄った。
宏次は志郎を抱きしめる。
由香子に良く似た瞳が満面の笑みにほころぶ。
志郎は先日参加したピアノのコンクールで最優秀賞を受賞したことを
興奮しながら宏次に話して聞かせた。
客間には宏次から贈られたグランドピアノがどっしりとした風貌で主を迎える。
「お父さんにも聴かせておくれ」
奏でる旋律は ショパン スケルツォの1番
愛妾と息子の裏切り
宏次は苦笑する。
自分には彼らを責める資格などないのだ。
志郎が愛しかった。
志郎だけが愛しい存在であるかのように思えた。
自分が生涯で愛した、ただ一人の女性由香子。
そして志郎は、由香子がこの世に残した、たったひとつの証。
自分もかつて、今は亡き父がしたように遺言をしたためようと思う。
―――この指輪を持つものに、自分の持つ全ての財産と権利を譲る―――
演奏を終えた志郎を膝の上に座らせ、宏次は徐に指輪を取り出す。
それは若き日に父と兄を騙し奪った指輪。
それを志郎にしっかりと握らせる。
「お父さん、これなあに?」
「これはお父さんの大切なものなんだ。
お父さんの大切なものを志郎に持っていて欲しいんだよ」
父の遺産と垂水の会社で自身が築き上げてきたもの全て―――
その莫大な遺産を志郎が継承する様を思い描いた。
「お前が正当な後継者なのだ」
と宏次がひとりごちる。