生命
五年の歳月が過ぎ、宏次は美恵子との間にもう一人子を儲けた。
そして三人目が今、美恵子の腹の中にいる。
しかし一向に由香子が身ごもる気配はなく、
そのことを宏次は、由香子以上に残念に思っていた。
しかし先日ついにその兆しが顕れた。
「赤ちゃんができたの」
と少し照れながら告げる由香子を、
宏次はそっと抱きしめる。
誰よりも自分はそのことを望んでいた。
それは自分と由香子との絆であり、その唯一の証であった。
小さな生命の宿る由香子の腹にそっと触れると、
まだ見ぬ我が子への愛情が、幸福感とともに宏次のうちに満ち溢れてゆく。
時は満ち、美恵子は男の子を産んだ。
由香子もまた男の子を産んだ。
赤ん坊の枕元に置かれたオルゴールを幾度となく聞きながら、美恵子は物思いに耽る。
長男である康祐が産まれてから、夫は随分と自分を労わり、気遣ってくれていたように思う。ひょっとするとそれは愛情というものではなかったのかもしれないが、夫が傍にいてくれるだけで、自分は随分満たされていたように思う。
―――しかしまた、夫は帰って来なくなった―――
仕事だ、と宏次はいうのだが、漠然とした不安が美恵子の心に満ちる。
「お母さん?」
今はもう五歳になった康祐が心配そうに母親の顔を覗き込む。
「大丈夫よ。お母さんは少し頭が痛いの」
向こうで遊んでてね。と笑顔を取り繕うと、
「うん、わかった。」
としょんぼりと肩を落とし、康祐は部屋を出る。
最近、お母さんはいつもあんな顔をしている。
お父さんがあんまりお家に帰ってこないから、きっとお母さんは寂しいのだと思う。
幼心にも康祐は母親を守りたいと切に思った。
不意に名案が浮かんだように、康祐は思った。
お父さんに電話をしよう。
お母さんが寂しがっているから、早く帰ってきてと、
お母さんの気持ちを伝えてあげるの。
そしたらきっとお父さんは帰ってきてくれて、
お母さんは笑ってくれると思うの。
康祐は宝箱に入れていたメモを取り出す。
それは、留守がちな父が、以前自分に渡してくれたもの。
「康祐が寂しくなったら、この番号に電話しておいで。
お父さんとお話をしよう」
そういってメモを渡してくれた優しい父の笑顔を思い出す。
メモを取り出し、電話台へ向かう。
受話器をもって一生懸命に背伸びをし、
プッシュフォンを押すと、数回の呼び出し音の後に宏次の声がする。
「もしもし?」
いつもの父の声じゃないような気がして、康祐は少し恐かったが、
勇気を振り絞って声をだす。
「あのね・・・僕、康祐」
少しの沈黙の後で宏次が応える。
「康祐、お父さんは今仕事で忙しいんだ」
不意に受話器の向こうから、赤ん坊の泣き声がする。
「お母さんがね・・・」
と康祐が言いかけたとき―――
通話は宏次によって一方的に切断された。
康祐はしょんぼりと肩を落とす。
今夜もまた、父のいない食卓。
美恵子と康祐、そして次男の寛人の三人で夕食をとる。
康祐が浮かない顔をしているのを美恵子が気遣う。
「どうしたの?そんな顔をして」
「だって、お父さんが一緒でなくちゃ寂しいもの」
と康祐が下を向く。
美恵子は胸の痛みを堪えつつ、取り繕う。
「だめでしょ?そんなことを言っては。お父さんはみんなのためにがんばって
お仕事をなさっているんだから」
美恵子は康祐を言い含めようとするが、康祐はどうにも腑に落ちない様子で、
「じゃあ、僕もお父さんの会社に行きたいな」
と口を尖らせる。
「大人になったらね。子供の康祐が会社に行ったら、お父さんの仕事の邪魔になるでしょう?」
「えー!でもお父さんの会社には赤ちゃんがいるんだよ」
邪魔といわれてプライドが傷ついたのか、ぷうと顔を膨らませる。
「どういうこと?」
美恵子は柳眉を顰める
「あのね、僕今日お父さんにお電話したんだ。
そしたらお父さんは仕事で忙しいっていったんだけど・・・」
―――その後ろで、赤ちゃんの泣き声がしたんだ―――
不意に背後で、三男の晃が泣き出す。
「ほら晃ちゃんと、同じ赤ちゃんの泣き声だよ」
美恵子が作ったグラタンを口に運びつつ、康祐は無邪気に応える。
今日は天気がよい。
洗濯を終えた由香子はようやく一息つくことができた。
赤ん坊の志郎は先ほどから、父親に抱かれ上機嫌の様子。
「毎日育児ばっかりじゃ、大変じゃない?」
宏次が由香子を気遣う。
「今日は俺が志郎をみてるから、たまには羽を伸ばしてきたら?」
由香子は少し考え、遠慮なく宏次の好意に甘えることにした。
赤ん坊がいると何かと物入りで、紙おむつやミルクのストックが欲しかったし、
日用品の細々としたものも買い足しておきたかった。
「夕方までには戻ります。」
そう言い置いて、由香子は部屋を出る。
宏次が愛息の志郎を抱いて自分を見送ってくれている。
それは何気ない日常なのだが、なぜか由香子はその光景をしっかりと瞼に焼き付けておきたかった。
そんな思いを自嘲する。
―――ただ買い物に行くだけなのに―――
おかしいわね、そうひとりごちる。
車を走らせ、行き着けのスーパーで予定の買い物を手早く済ませると、
なぜだか無性に海が見たいと思った。
宏次には申し訳ないが、少し回り道をして帰ろうと、由香子は思った。
曲がりくねったこの山道を抜けると、もうすぐだ。
人生もこの山道と似ているのかもしれない。
そんなことを考えながら道を進むと、海が見えた。
日の光に照らされ、輝く水面を遠くにみる。
きて良かったと由香子は思った。
刹那、一発の銃声が人気のない山道に響く。
それは寸分の狂いもなく由香子のこめかみを打ち抜き、
死の瞬間、由香子は今朝自分を見送りに出てくれた、宏次と志郎の幻をみたような気がした。
由香子が戻らない。
「夕方には戻る」
そう言って家を後にしたのだが、もうとうに六時をまわっている。
志郎はミルクを飲み終え、ご機嫌なのだが、宏次の心はなんとなく落ち着かない。
先ほどから何度か、由香子の携帯に電話をかけているのだが、
つながる気配もない。
闇が帳をおろし、雨が降り始めた。
電話が鳴る。
その着信音に一瞬心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚え、苦笑する。
「もしもし―――」
雨が激しく窓を叩く。
稲妻が遠くで閃き、
志郎はただ目を丸くして、それを見つめていた。
すでに由香子の亡骸は納体袋に納められている。
―――ひどく傷んでいますので。―――
とのことだった。
解剖の結果、そのこめかみには銃痕が、彼女の車から銃弾が見つかったとのことだった。
宏次は半ば惚けていた。
今朝は生きて、自分に温かい笑顔を向けてくれたその人が―――今は冷たい骸と成り果てる。
宏次はその事実を受け入れることも、泣くことすらできなかった。
宏次は自宅へと向かう。
それは久方ぶりの帰宅であり、子供たちが嬉々として宏次を出迎え、
少し遅れて美恵子が出迎える。
美恵子は鞄を受け取り、宏次を気遣う様子。
「あなたお顔の色が優れませんわ。 どうかなさって?」
「ああ、少し疲れている。」
と二階の自室で横になると、美恵子がそっと宏次の背に抱きついてくる。
宏次は身を離し、美恵子を見据える。
「由香子が死んだよ」
美恵子は笑い出す。
乾いたその笑いを、美恵子は抑えることができなかった。
そして笑いながら、自分が泣いていることを美恵子は知らなかった。
「そう、あのこは死んだの」
美恵子の笑いは止まらなかった。
「そう、そうよ。わたくしだわ。わたくしが殺したのよ。人を雇ったの。
許せなかったのよ。わたくしのあなたを奪う存在が」
そして不意にむせび泣く。
「馬鹿な子、こんなにも早く逝ってしまうなんて。
かわいそうな子」
―――だけど、あのこが悪いのだわ。あの子の母親とあの子が、母とわたくしから、父を奪ったのだもの。そしてわたくしと子供たちから、あなたを奪った―――
ふわふわと定まらない視線をこちらに向ける。
「そう?でも君は俺を騙し、由香子から俺を奪った。そしてその命までも」
命ニハ・・・命ヲモッテ・・・。
宏次が美恵子の細い首に手をかける。
美恵子の瞳が見開かれる。
康祐は「おやすみなさい」を言い忘れたのを思い出した。
両親の寝室のドアの前に立つと、
何かを言い合っているような声が聞こえた。
そっとドアの隙間から中を伺うと、父が母の首に手をかけている。
「あ、あああ、やめてよ!!!」
康祐がその間に割ってはいる。
父の目は充血し、赤く濁っている。
その様を康祐は赤鬼のようだと思った。
康祐は恐怖のあまり震えが止まらない。
宏次が手を離すと美恵子は苦しそうに咳き込んだ。
それ以後
―――母の存命中、父は一度もこの家に帰ってくることはなかった―――