葛藤
日当たりの良いマンションの一室にベッドは据えられ、由香子は窓の外を見やる。
空の青さが、なんとも身にしみる。
「具合はどう?」と宏次が昼食を持って部屋に入る。
―――あれから2ヶ月が経過し、
彼女の傷心も、宏次の献身的な優しさのゆえに、ようやく快方へと向かっている。
あの日以来、二人は一緒に暮らしている。
今のところ彼女の身体と心を思いやり、挙式も入籍もしていないのだが、
もう少し彼女が回復したならば、と宏次は思う。
宏次特製の鍋焼きうどんを口に運び、「美味しい」と由香子が微笑む。
宏次は、由香子がつらい思いをした分、いや、それ以上に由香子を幸せにしたかった。
宏次の由香子への思いは、日を追って増していった。
美恵子は軽く催した吐き気に顔を顰める。
手帳を見つめ、その可能性に思いを馳せ、
―――今はまだ細い下腹部に手を置く。
「まさか」
と、その思いを打ち消してみるが、再度吐き気が美恵子を苛む。
意を決し、車を走らせドラッグストアへと向かう。
自分の前に一組のカップルがいた。
少し照れながら、しかし嬉しそうにそれを手にとってレジへと向かうその光景を見て
美恵子は素直に羨ましいと思った。
くっきりとしたラインが2本顕れ、それが陽性反応を示す。
美恵子の唇に歪んだ微笑が湛えられる。
夕方、宏次の携帯に着信が入る。
それは美恵子からの呼び出しであった。
宏次はぎこちない笑みを由香子に向け、
「すぐ戻るから」と部屋を出た。
待ち合わせの場所は市内のホテルのラウンジで、
すでに到着していた美恵子は、優雅に紅茶を飲んでいる。
「子供ができたの、あなたの子よ」
とそう唐突に切り出すと宏次の頭は真っ白になった。
「もちろん産むわ」
と微笑む美恵子は美しく、そして誰よりも残酷に思えた。
宏次のなかで思い描き、膨らませていた幸せが踏みにじられ、
空虚なものが宏次の心に満ちる。
「だけど―――俺はあなたを愛してなど、いない」
真っ直ぐに美恵子を見据えると、一瞬美恵子の顔が苦痛に歪み、
「関係ないわ、愛なんて」
と吐き捨てるようにそう言った。
「私はあなたと結婚できれば、それでいいのよ」
美恵子は愛を知らなかった。
愛することも、愛されることも知らなかったから、
自分がそれを切望していることも知らなかった。
あるいは、知っていたから―――それを遠ざけたのか。
―――ならば、お前は私の奴隷となれ―――
あの日、垂水が低く囁いた一言が、宏次の耳に鮮やかに蘇った。
―――いつまでも宏次さんの好意にばかり、甘えてちゃ駄目だ。―――
あの出来事は確かにつらく悲しくはあったけど、ちゃんと前を向いて生きなければ。
最近ようやくそう思えるようになった。
由香子は窓を開けて部屋の空気を入れ替える。
「気持ちいい」
そういって由香子はひとつ大きく伸びをする。
洗濯物を干し終えるとインターホンが鳴った。
訪れたのは思いがけない人物で、由香子の瞳は大きく見開かれる。
「お姉さん」
「久しぶり」
と美恵子が微笑む。
ソファーに腰掛けると、まだほとんど目立っていない腹を大儀そうに擦る。
由香子は紅茶を美恵子の前に置き
「お姉さん、ひょっとして赤ちゃんができたの?」
と嬉しそうに問う。
「ええ、順番が逆になってしまったのだけれど、
式にはあなたにも是非来ていただきたくて」
美恵子は招待状を取り出し、由香子に手渡す。
由香子はそれを受け取り絶句する。
―――新郎 真田宏次―――
礼拝堂に厳かな賛美歌が流れる。
花嫁は美しく、勝ち誇ったかのような満面の笑み。
十字架を前にして宏次は自分の罪を思う。
―――かつて自分は父と兄を騙し、この地に逃れてきた。
そして、今自分の隣にいる花嫁とその父に騙され、
愛してもいない相手と結婚する―――
それは神が与えた自分の罪に対する報いのような気がした。
そして今日自分は、この厳かなる場所でもう一つ罪を重ねる。
「汝病めるときも、健やかなるときも生涯その妻を愛することを誓いますか?」
宏次の唇が乾く。
「・・・はい、誓います」
―――それは偽りの罪―――
鐘が鳴り響き、人々の祝福を一身に受ける新郎新婦が、姿を現した。
由香子は誰にも気づかれぬように、遠巻きにそれを見つめる。
ため息の出るような豪華なドレスに身を包み、
満面の笑みを浮かべる美恵子を、由香子は美しいと思った。
羨望、憧憬、そして嫉妬。
そんな感情を持余している自分を、由香子は「卑しい」と思った。
自分が宏次ではなく、他の男の人を好きになっていたなら、二人の結婚を素直に喜べたであろうに。
しばらく屋上で空を眺め、由香子は少しだけ泣いた。
式を終えた宏次と美恵子がホテルの自室へと引き上げる。
宏次は一刻も早く由香子のもとに急ぎたかった。
―――どういう気持ちで、由香子は今日という日を過ごしたのか―――
宏次は胸が締め付けられるような気がした。
宏次はシャワーを浴び、手早く服を着替える。
美恵子はソファーに座り、大儀そうに腹を擦る。
美恵子は宏次を騙したことを悔いていた。
自分と一緒にいるとき、
彼は決して笑わない。
彼は怒っているのだ。
だけど彼は、時折私に優しさをくれる。
彼の眼差し、
掌の温もり
美恵子は宏次に惹かれていた。
―――今日は、宏次とたくさん話をしよう。―――
たくさん話をして、少しでも彼の怒りが和らぐように、
努力をしよう。
自分たちは夫婦なのだから。
「今日は君もお疲れだったね。ゆっくり休むといいよ」
そう言って宏次は部屋を後にする。
「あっ、どこへ?」
美恵子は下を向く。
こうして―――もう何度宏次の背中を見送ったことだろう。
そして気づく。
―――自分は寂しいのだ―――
幼い頃、愛人の家に赴く父の背中を見送ったときと同じ。
美恵子の頬をとめどなく涙が伝う。
今日は宏次は帰らない。だって今日は―――。
由香子は夕食にカレーを作った。
宏次は帰らないとわかっていながら、だけど、もし帰ってきたときにすぐに食べられるように。
カレーならすぐに温められるし、保存もきく。
インターホンが鳴る。
息せき切って走ってきた風情で宏次が佇む。
焦ったように由香子を抱きしめ
「ごめん」
と切ない声で詫びる。
宏次は抱えてきた大きな包みを由香子に渡す。
包みを開くと、それは純白のウェディングドレスだった。
「いつか、二人きりで式をあげよう」
と約束すると、由香子は宏次に口付ける。
瞼に
鼻先に
そして唇に
キスキスキス―――それはキスの雨。
そして二人は愛し合う。
由香子が口を開く。
「宏次さんは、もう行かなくちゃ。」
「もう少し・・・だけ」
宏次は由香子を抱きしめるが、由香子はそっとそれをとどめる。
宏次はのろのろと身体を起こしシャワーを浴びる。
「すぐに戻るよ」と軽いキスを交わし、宏次が部屋を後にする。
その背中を見送る由香子は、やっぱり涙が溢れてしまう。
「嬉しいのか、悲しいのか、もう・・・わからないよ」
お腹の子は臨月を迎えた。
美恵子は大きく膨らんだ自分の腹が気味悪かった。
―――一体自分はどうなるのだろう―――
相変わらず夫は留守がちで、自分に心を開くことはなかったが、さりとて喧嘩になることもなかった。
だけど、空しい。
と美恵子は思う。
ぼんやりと窓の外をみやると、
不意に下腹部に痛みを感じ蹲る。
「あっ、ああ!!!」
痛みの波が押し寄せる。
「奥様、陣痛です。しっかり気をお持ちになってください!」
家政婦に伴われ病院に着いたが、
美恵子は先ほどから、一人でその痛みに耐えていた。
「あっ、ううう」
ベッドの柵を握った手が白む。
美恵子を病院に伴った家政婦は、入院の手続きや、
方々への連絡のために席を外している。
「痛い!痛い!痛い!誰か助けて!」
痛みと恐怖のあまり涙が出る。
だんだんと増してくる痛みが一層不安を掻き立てた。
「―――っあああ!!!」
言葉にならない呻きが漏れる。
苦痛のなかで、美恵子は宏次の姿を思い描いた。
どうして、あの人は来ないの?
あの人がいて、この手を握っていてくれたらいいのに。
それだけで、自分はこの痛みに耐えられるような気がした。
またも強い痛みの波が押し寄せる。
「うっううう!!!」
自分ひとりでは、気持ちが萎えてしまう。
玉の汗とともに涙が流れ落ちる。
分娩室の椅子の上でライトを浴び
医師たちが見守る中
美恵子は恥ずかしい格好をさせられる
苦痛の中で意識が薄れる。
―――これは私の罰なのだ―――
私が彼を騙し、彼女からその幸せを奪ったから。
美恵子の瞼に由香子の面影が過ぎる。
黒髪が風になびき、幸せそうに笑っていた。
だけど―――
美恵子は彼女に「ごめんね」ということができなかった。
「おめでとうございます!
元気な男の子ですよ。」
朦朧とする意識の中で美恵子はそれを聞いた。
差し出された赤子を、愛しいとは思えず、
それは美恵子にとって、夫を自分に繋ぎ止めるだけの道具でしかなかった。
―――これで、夫は自分を愛するようになるだろう―――
美恵子はしばしの微睡みに落ちた。