逃亡
母が高弘の異変を察し、一足先に裏口から宏次を逃がす。
宏次は深夜のプラットホームへと走った。
それは惨めな旅立ちだった。
乗り込んだ電車の中で、宏次はしばしの微睡みを得る。
夢の中で、父が歌っていた。
『主よ、いよいよ近づかん
輪が踏むべき 十字架の
道をさけて 行くべきかは
主よいよいよ 近づかん』
クリスチャンであった父は、子供の頃よく兄と自分を教会に連れていってくれた。
そしてよくこの歌を歌っていた。
―――罪の呵責?―――
今更、と自嘲する。
この歌は確か4番まであるのだが、2番は確かこうだったと思う。
「野を旅して 夕暮れに
我の石をば 枕に
野宿せしが 夢にもなお
主よみもとに 近づかん」
この歌詞の意味は、あの昔話の続きとなる。
―――兄エソウの長子の特権と神の祝福を奪い取った弟ヤコブは、兄に命を狙われ叔父のもとに逃れてゆくのだが、その旅の途中で石を枕に眠っていると神の使いが現れ、必ずヤコブを祝福すると約束する。―――
「神ねぇ・・・」
理不尽な存在だと思う。
―――あんたが俺を兄より先にこの世に誕生させてくれてりゃ、
俺はこんなことせずに済んだんだ。―――
朝日がのぼる美しい田園風景を眺めつつ、宏次は思う。
―――俺はヤコブなんて人とは違う―――
「神なんて、信じない」
―――俺が、神なんだ―――
信じられるのは己のみ。
運命というものを切り開くのは、己の才覚でしかない。
奪い取ってでも。
宛てもなく、宏次はある田舎町に降り立った。
田植えにはまだ間があり、しばしの休息を得たその土地に菜の花が咲き競う。
傷心からか、それは心に染み入る光景であった。
親切そうな老婆がひとり、その道を通りかかり、宏次に声をかける。
行く宛てがないことを告げると、快く自分の家に招き入れ、離れにある一室を供してくれた。
老婆が作ってくれたおにぎりを頬張ると、
涙が溢れて止まらなかった。
いつまでも好意に甘えていられないと、宏次は仕事を探す。
どんな仕事でも精一杯がんばるつもりだった。
程なく、観光客が多く訪れるという地元の鮮魚市場での仕事が決まり、老婆にそのことを告げると、自分のことのように喜んでくれた。