その妃は琥珀の酒と月に酔う
「ん、おいし」
透き通った琥珀の色、果物のような甘い香り。
これはいい出来の酒が出来たと、顔を綻ばせる。
私の名前は醉風。
都の外れの下町で、しがない酒屋に生まれた平凡な娘だ。
ある日、酒造りの腕と知識を見込まれて、何があったか下女を経ずに中級妃として後宮へ迎えられたわけだけど、日々やることと言えば主に専用の棟で皇帝陛下のための酒造りをするくらい。
中級妃という名の杜氏……それが実際のところだ。
中級妃といっても立場は弱く下女と何ら変わらず、そのせいで方方からは侮られている。
下女たちが運ぶ湯はわざとぬるく、宴の衣は袖に墨を垂らされるといった、命を脅かすほどではない小さな嫌がらせが多々あった。
また同じ中級妃はもちろん、上級妃さえも私を虐げた。
「下賤な生まれの女が、同じ妃を名乗るだなんて。身の程を知りなさい」
上級妃である静麗妃は、頬を叩くだけでは飽き足らず、侍女たちに虫の死骸をばら撒かせたり、頭から灰を被せたりといった、下女たちの嫌がらせよりも少しだけ過度なそれを命令した。
異例の昇進と待遇は、私を妬み疎む理由として十分だったんだろう。
元々立場が欲しくて受けた話ではなく、酒を造れるならどこででも、という単純な気持ちで後宮入りした私だ。
まあ、そういうかともあるんだろうと割り切り、気に留めることもなかったのだけど、その態度もまた静麗妃には気に食わなかったらしい。
「後宮ってめんどくさい」
めんどくさいのは後宮に住む女の方かもしれない。
夜になれば空を見上げて一献傾ける。
酒と月があれば、それで十分だっていうのに。
後宮に召し上げられて約一年。
今宵は望月の宴。
新たに即位した皇帝が、生涯で初めての酒を口にする神聖な夜だ。
その杯に注ぐのは、この日のためだけに私が醸した特別な酒。
私の家でのみ造られる秘伝のものだ。
黄金の月が照らす特設舞台。
厳かな空気の中、酒甕を乗せた盆を手に玉座の前に進み出ると、陛下が私をじっと見つめる。
(整ったお顔……)
やけに視線が熱いような気もするけれど、緊張でもしているのかもしれない。
「めでたきこの日、陛下に相応しい酒をご用意いたしました」
私が琥珀色の酒を注いだ杯を差し出すと、皇帝虎月はゆっくりとそれを鼻先に寄せた。
そして、眉が僅かに動く。
「……何の真似だ」
低い声が響き、周囲の空気が一瞬にして凍りつく。
「何の真似だ!!」
陛下は怒りの形相を浮かべ、酒が注がれた杯を投げ捨てた。
私はハッとして酒甕に鼻を近付けた。
「この匂い……薔薇……?」
ほんの少しだけど、酒に違う匂いが混じってる。
衛士が杯を調べると、やはり香水が混じっていることが判明した。
いったいどこで……決まってる。
酒を注いだ甕を置いておいたのは私の棟だ。
誰かが私を貶めるために酒に香水を垂らしたのだ。
「私の初めての酒を汚した者を、許すわけにはいかぬ」
怒りを孕んだ声色で剣を抜く陛下に、私は冷や汗を垂らして頭を下げた。
酒の出来に満足し後の管理を怠った。
私の責任だ。
少し考えればこんなことが起こりうることは予測出来たのに。
「も、申し訳ありません! このような不始末をおかし……」
陛下は頭を下げる私の横を通り過ぎると、一直線に静麗妃へと向かい、鼻先に剣を突き出した。
「きゃあああ!」
「へ、陛下! 何を!」
悲鳴が上がるが、陛下の声は冷ややかだった。
「この薔薇の香りは、お前が普段使っている香水と同じだな」
「そ、それは……」
「薔薇の香水を使っているのは自分だけではない。バレるはずがない。そう高を括ったか? 侮るな」
低い声が威圧感をもたらす。
恐怖に震える静麗妃と侍女たちに、陛下は非情な裁定を下した。
「私がどれだけ今日この日を、この酒を楽しみにしていたことか。貴様にはわかるまい静麗妃。どうせ誰かに命じてやらせたのだろう? この愚かな妃と、そして手を貸した者たち全員を重罰に処せ!!」
「お、お待ちください!! 陛下、これは違うのです!! ほんの少し、あの小娘を困らせてやろうと……出来心で……」
「そうか、出来心か。ならば私も、出来心で貴様らに沙汰を言い渡そう。泣き叫び醉風妃に赦しを乞うことだ。尤も、もう貴様らの声が彼女に届くことはないが」
「い、いや……待って、離して!!」
衛士たちが青ざめた妃たちを引きずっていく。
「お、お願い!! 助、助け……!!」
化粧が崩れながら手を伸ばす静麗妃から、私はそっと目を外した。
私を虐げるのはどうでもよかったけれど、丹精込めて造った酒を汚すなら話は別だ。
如何に香水といえど、口に含めば無害というわけにもいかない。
ましてや皇帝が口を付けるものに異物を混入させるなんて、毒殺を疑われても仕方がない。
私をそれほど貶めたかったのか、上級妃にしてはあまりに短絡的で軽率な行いだったけれど、もう私には関係がないことだ。
私はただ静かにその背を見送り月を仰いだ。
宴は騒々しさの中、続行不可能と中止となった。
後日また改めて催されるらしい、けど。
「今日が飲み頃だったんだけどな」
まあ、香水入りの酒なんて飲める代物でもないから仕方ない。
また作り直そう、とため息をついたとき、陛下が私に歩み寄った。
「酒はもう無いのか」
「あ、いえ……」
酒甕に移した分は全部ダメになってるかもしれないけれど、自分用にこっそり取っておいた分がある。
「あるんだな」
「まあ……」
「飲ませてくれ」
「よろしいのですか? 初めての酒は……」
「お前の酒がいい」
まあ、そこまで言うなら……と、人目を忍んで私の部屋へ。
隠しておいたそれを杯に注ぐと、今度は混じりけの無い純粋な酒の香りが漂い、陛下は柔和に表情を綻ばせた。
「同じだ。昔、一度だけこの香りを嗅いだことがある」
「気のせいでは? これは私の家の秘伝で造られた酒です。とはいえ下町で出回るほどのもので珍しくもありませんが。陛下のような高貴な方に届くようなものではありません」
「いいや、間違いない。十年前、先帝……父に連れられて訪れた市井の酒屋でこれと同じ香りを嗅いだ」
「先帝陛下……?」
「父は時たま、誰にもバレないようにとこっそり抜け出しては、身分を隠しその店で酒を買っていた。それを見かけてしまった私に口止めをする代わりにと、一度だけ一緒に連れていってもらったことがある。まあ、酒が飲めない子どもの私には如何せん退屈な時間だったが」
陛下は窓から差し込む月明かりに濡れながら私を見つめた。
「店主と楽しそうに話す父とは裏腹に、私は帰りたそうにしていた。そんな私を見かねてか、店の娘が話しかけてきた」
『つまんないよね。お酒は大人しか飲めないなんて。私もはやく飲みたいのに。ねえ君、大人になったら一緒に飲まない? 大人はね、一緒にお酒を飲んで仲良くなるんだって。だから』
「一緒に飲んで友だちになろうよ……。まさか、あの時の……!」
「今でも忘れられない。そこで嗅いだ甘い酒の香り。私に笑いかけてくれた娘の笑顔を」
「……どことなく、面影が……あります、ね?」
陛下は静かに笑みを浮かべ杯に口をつけた。
「これが酒か。良いものだ」
「ありがとうございます」
うん、おいしい。
ほんのりと酒気を帯びた息を吐き、陛下は私の名前を呼んだ。
「醉風」
「は、はい」
「初めての酒が、お前と共に出来たことを嬉しく思う」
「光栄……です。陛下……」
「名前で呼んでくれ。今は二人きりだ」
「虎月……様」
私を後宮に召し上げたのは、どうやら彼の意向だったようだ。
そのことは私の両親には報せてあったのだとか。
何故私に理由を話してくれなかったのか訊くと、
「いざとなったら照れくさくなった。一緒に酒を飲まないか……などと誘うのが」
「言っていただければ飲みましたよ。おかげで必要のない扱いを受けました」
「すまない。立場上特別扱いは出来なかった。だが後宮に迎える折、お前の両親かはは、「醉風は図太いので多少放っておいてもたくましく生きますから安心してください」と言われていた」
そのとおりだけれどなんだか腹が立つ。
先帝の退位……という名の隠居……に合わせ、結構好き勝手なことをやったようだ。
私を中級妃にしたのもその一つ。
「そういえば、なんで中級妃だったんですか? 酒造りなら別に下女でも出来たのに」
「本来なら上級妃として召し上げるつもりだった。上級妃の席が無かったのが大きな原因ではあるが、今回の事件で都合よくその席が空いた。今すぐというわけにはいかずとも、いずれお前には上級妃になってもらう。そう父にも話はつけてある」
「いや、そうではなく、なんで私なんかを」
「位が高ければ、誰の目にも憚ることなく一緒に酒が飲めるだろう」
素っ頓狂なことを考える方だ。
それだけのために。
「ただ、あの頃の約束はどうにも果たせそうにない」
「なんで……」
「私が友だち以上を望んでしまっているからな」
言葉の意図を汲み、私は火照りを覚えた。
「そう、ですか。友だち以上……それはなんとも、まあ」
夜がゆっくりと溶けていく。
甘い酒と声、笑顔に酔いながら、私は頬を紅く染めた。
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普段は百合をメインにいろいろ書いておりますので、興味がございましたら他作品も是非m(_ _)m