大矢廼人の話
「悲鳴を上げたわたしはヴェローシャの手を振り払うと部屋から逃げ出しました」
手に巻かれた包帯をさすりながらカーシャと名乗る女性はそう話を締めくくった。
約束通り最後まで話を黙って聞いていた私だが、しかしこれをどう評すべきか悩んだ。
すべてを信じるとすると、腐った豆腐を食べたウラジミール君の全身にカビが生えているようで、そして、今も私のアパートの一室で布団をがぶって居座っている、と言うことになるのだが……。
正直、信じられる話ではない。
さりとて、この初対面の女性がこんな嘘をつく理由も思いつかなかった。
もしかしたら、ドッキリみたいなもので、ウラジミール君と組んで、こんな与太話を聞かした後、私がどんな反応を示すかを隠し撮りして、その様子を面白おかしくSNSにでも上げようとしているのだろうか? と勘ぐった。
私は、まじまじとカーシャと言う女性を観察してみた。
ウラジミール君と同郷のロシア人なのだろう、白い肌に金髪が美しい。ただ、顔色は青白く、表情も硬く強張っていた。
これが演技なのか本物なのか、私には判断がつかない。
右腕の手首から肘の手前までのところに包帯が巻かれていた。先ほどの話だと、ウラジミール君に腕をつかまれたと言われていたので、その手を振りほどく時に怪我でもしたのだろう。
服装にも注意を払ってみたが隠し撮りをするようなものを持っているようには見えなかった。ただ、すこし震えているようだった。
「どうしました? すこし震えているようですが?」
「ええ、はい。お話をしていたら、あの時のことを思い出して、なんだが背筋が寒くなってしまって」
「そのお話の出来事があったのがいつのことでしたっけ?」
「2日ほど前です。とにかくわたし、怖くなって一目散に逃げだして、その後、ヴェローシャには電話をしてみたのですが、何度電話しても彼は出てくれなくて……」
「なるほど。それで、私にどうしろと?」
「ええ、はい……、その、ヴェローシャの状況を見てきていただきたいのです」
「え? 私がですか? あなたと一緒に?」
「いえ、わたしはもう、怖くていけません。ですから、申し訳ありませんが、お一人で見てきてほしいのです」
「ええ?! 私が一人で様子をみてくるんですか? なんで?!」
「だって、あなた、大屋さんですよね。日本では大屋さんとアパートを借りている人は親子のようなものと聞きます。だからヴェローシャはあなたの子供みたいなものなのでしょう?
親が子供の様子に責任を取るのは当然じゃないですか」
「いや、まあ、そういわれればそうですが……」
なんとなく釈然としなかったが、あまり無下にすると、あそこの大屋は管理が悪い、なとどクレームをつけられた挙句、大切な資産に瑕疵がついてしまうかもしれなかった。それは避けたい話だ。
「分かりました。では私が見てきましょう」
渋々、承諾すると私はアパートの様子を見に行くことにした。カーシャはその結果を聞きたいとのことだったので私の家で待ってもらうことにした。
さて、私のアパートは自宅から歩いて10分ほどのところにあった。木造の2階建てアパート。各階2部屋と簡単な炊事ができる台所とトレイが共用スペースとして設置されている。風呂はない。それでも家賃は安いから入居者もいる。1階の2部屋は若い夫婦と年配の独り者が入っている。2階はウラジミール君だけでもう一部屋は空きになっていた。ウラジーミル君のところへ行く前に1階の人間に様子を聞いておきたいと思ったが、どちらも部屋も窓にカーテンがかけられていた。
留守のようだ。
仕方なく2階に上がることにしたのだが……
「臭いな」
カーシャの言った通り、カビ臭かった。しかも踊り場ではなく1階のところで既に臭いが鼻についた。
これは臭いの元を探して何とかしないといけないなと思った。行政処分とかになったら洒落にならない。
2階に上がったところで目を見張った。
廊下が雪が積もったように白いもので覆われていた。
「これはカビか?」
数ミリほどの厚さがありそうだった。こうなるとカーシャの言っていた話の信憑性が俄然高くなる。
いや、いや、いや。全身にカビが生えるとか。そんな病気もカビも聞いたことない
私は首を横にふると、カビを踏みつけながらウラジミール君の部屋へ向かった。
「ウラジミール君。ウラジミール君。居るかい?
大矢だよ。居るなら、ここを開けてくれないか?」
ドアを叩き、名前を呼んだが返事はなかった。ノブを回すとあっさりドアは開いた。
「ウラジミール、く、ん……居るかい?」
ドアの隙間から恐る恐る顔を覗かせる。一段とカビ臭い空気が鼻を刺激した。カーシャは目に沁みると表現していたが、その表現が決して誇張でも比喩でもないことが分かった。
部屋は薄暗く人の気配がなかった。
なにより部屋中が白いカビで覆われていた。
こんなところに本当に人がいるのだろうか、と思わなくもなかった。
見回していると部屋の片隅にこんもりとした蟻塚のような隆起があるところを見つけた。
『頭から布団をすっぽりと被っていた』
そんなカーシャの言葉が思い出された。
「ウラジミール君……」
隆起に近づき、声をかける。しかし、反応はなかった。もう一度声をかけるがやはり無反応。
表面のカビを払うと、布団が出てきた。
やはりこれがウラジミール君が被っていた布団なのは間違いない。
唾を飲み込み、その布団を剥がしてみると、そこには……ウラジミール君はいなかった。
ただ、白いカビの層があるだけだった。
「ふうむ……」
さて、ウラジミール君はどこへ行ってしまったのだろうか? 首を捻るばかりだった。
とにかく部屋の換気をしようと、私は窓へ向かった。そしてカーテンを開けた。
途端に部屋に傾いた西日が差し込んだ。
その瞬間、背後でザザザッと波音というか虫が這いずるような音がした。何事かと振り向くと床に積もっていたカビが差し込んできた日差しを避けようと蠢き、波打ち、脈動していた。
白いカビの塊は部屋の隅の日が差し込まないところに集まっていった。ひとところに集まったカビは隆起して、更に細かな塊に分かれていく。
「おおおう……」
それは人の形をとった。
ぶよぶよな胴体。それを支える二本の足。肩口から左右に伸びる腕。人の形を模したカリカチュアだ。
胴体の上に載る顔にあたる膨らみには……ああ、なんということかウラジミール君に似た紋様が現れたのだ。
いや、だが、それだけならばまだ耐えれたかもしれない。単なる偶然と正気を保っていられただろう。だが、しかし、それは口(にあたる単なる窪みだと思いたいが!)を開いて言ったのだ。
「おお……や……さん、こ…にチわ」
私は一目散に部屋を飛び出した。転がるように廊下を走り、1階へと降りた。1階に降りると、それを待っていたかのように1階の2つの部屋のドアが開いた。
ああ、留守だと思ったけれど両部屋とも在宅していたんだ。ならばすぐにこのアパートか、待避をするように言わねばならない。と思った。
「皆さん! すみません。2階の方で少し問題がありまして一旦アパートから待避……を……してもらわないと……」
私は言葉をそれ以上続けることが出来なかった。なぜなら、ドアから姿を顕したのは白いぶよぶよとした何かだったからだ。
「うわっ!」
腰が抜けて私はその場に尻餅をついてしまった。その間に、カビ人間たちはよろよろと私の方へ近づいてくる。もうダメだと思った。けれど彼らはあるところまで近づくとなぜだかそれ以上近づいては来なかった。
「太陽の光か」
丁度私が倒れ込んだところは日の光が差し込む場所だった。
さっき、カーテンを開けた時の挙動と今目の前の奴らの行動から考えるに、奴らは太陽の光の下では活動できないのだ。ならばやることはひとつしかない。と思った。
私はガクガク震える膝を懸命に立ち上がらせるとアパートの外へと逃げ出した。いや逃げ出したというのは正しくない。私はその足でアパートの裏手に向かった。そこにはアパートの備品を入れる倉庫があった。倉庫から灯油缶を取り出すとアパートの周囲に灯油を掛けて回った。一通り灯油をかけ終わると火をつけた。あっという間赤い炎が立ち上った。燃え上がる炎を見ながら、これしかなかったんだ、と自分に言い聞かせた。
日が落ちれば奴らはアパートの外に出てしまう。だいぶ日が傾いたと言え、また、日の光がある内にアパートごと焼かなければ、さっきの得たいの知れないカビ人間たちが町中に溢れてしまうだろう。
もちろん今後の生活や放火の罪に問われることとか気の重くなることが待ち構えているだろうが、それはそれでしょうがない。
自分の決断が人類を救ったのだと思おう。
おそらくこれは『ティアトロフ豆腐事件』として後世に伝えらると事になると思う。
とにかく今日は疲れた。
遠くから近づいてくるサイレンの音を耳にしつつ、一旦家に帰ることにした。まずは熱い風呂に入り、このカビまみれの体をなんとかしてからこの先のことを考えようと、思った。
家に帰り着いた頃には日はすっかり暮れていた。
街灯に浮かぶ自宅の玄関を見た時に私はカーシャを待たせていたことを思い出した。ウラジミール君のことをなんと説明したら良いかと考えると気が滅入ってきたが、ともかくあったことを正直に話すしかあるまいと腹をくくった。
「カーシャさん、いるかね?」
居間で待っているはずの彼女の名前を呼ぶ。居間は灯りもついておらず暗かった。暗闇の中、ちゃぶ台に向かって座る彼女の背中がぼんやりと浮かび上がって見えた。
なんとなくの違和感。
私は目を擦り、もう一度彼女の背中を見た。なんとなく仄かに光っているように見える。そんな馬鹿なことがあるものか、と思いつつ、私は居間の電灯のスイッチを入れた。
「カーシャさん?」
もう一度名前を呼ぶと彼女はゆっくりと振り向いた。
そして、私は見たのだ。彼女の顔一面にびっしりと白い綿毛のようなカビが生えていることに。
思わず「あっ!」と声を上げると、その途端彼女は砂山が崩れ落ちるようにさらさらと崩れ、居間一面に広がった。その後ら白いカビと化した彼女は波打ちながら私の方へ向かってくるではないか!
私は脱兎の如く外へ飛び出した。逃げ出しながら、彼らを抑制する日の光は当の昔に失われていることに、気づいていた。次に復活するのは数時間以上先の話だ。
果たして『ディアトロフ豆腐事件』を後世に伝えるくれる人類はいるのだろうか?
明日は? いるだろう。
1週間後は? また、いるだろう
1年先、10年先は? どうだろうか? 分からない。
願わくば、人類はこの白いカビの脅威に打ち勝ってこの事件のことを永遠に語り継いで欲しいものだ
夜の路地を懸命に逃げながら、私は切にそう願うのだった。