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カーシャ・メンデレーエフの話

「わたしが最後にヴェローシャと会ったのは3日前、彼のアパートでした。わたしも忙しくて、例のトウフを食べてから1週間ほど過ぎていました。

 梅雨に入って、じくじくと雨が降る嫌な天気がずっと続いていました……




 ヴェローシャの部屋は、ご存知だとは思いますが、2階の廊下の突き当たりの向かって左です。

 わたしは2階への階段を上りましたが、踊り場のところですでに顔をしかめることになりました。アパートの所有者であるあなたの前で言うのもなんですが、臭かったのです。

 湿気のある埃臭い、いえ、カビ臭さでしょうか? その臭いがじっとり粘り気を持って鼻腔にまとわりついてきました。

 ええ、ええ、その時にあのカビがびっしりと生えていたトウフを思い出しましたとも!


「ヴェローシャ、いるの?」


 返事はありませんでした。ドアに手を掛けると鍵はかかっていなかったので、開けて中に入りました。


「うっ!」


 わたしはうめき声を上げてしまいました。

 カビ臭さが一段と濃くなったからです。

 なんだか空気も目に沁みる感じがして、何度もまばたきをしました。

 暑く湿った空気でした。

 ワンルームのその部屋は締め切られて、窓も厚いカーテンで閉ざされていました。灯りも点いていなかったので部屋は薄暗く、なにもかもが灰色のぼんやりした輪郭線で描かれた絵のように見えました。


「ヴェローシャ……」


 わたしは彼の姿を求めて部屋に踏み込みました。途端にグニャリと柔らかいものを踏んだ感触がしました。

 驚いて下を見ると、床に転がった食べかけのパンを踏んでしまったようでした。

 良く良く見ると床中にトウフやパン、惣菜パックがいたるところに転がっていました。しかも、それらはみな一様に白いカビが生えているではないですか!

 わたしはヴェローシャの姿を探し求めました。嫌悪感で、一刻も早く逃げ出したかったのですがもしかして体調を崩した彼が部屋で倒れていたら助けなくてはいけない。そう思ったのです。


「ここだよ、カーシャ」


 何度か彼の名前を呼ぶとくぐもった声がしました。見ると部屋の片隅にこんもりと黒い影ありました。

 思わず悲鳴を上げそうになりました。

 まるで巨体なキノコに見えたからです。

 でも、それはどうやらヴェローシャのようでした。布団を頭からすっぽり被っていたのです。


「ヴ、ヴェローシャなの? そんな格好でどうしたの? 暑くないの?」

「あ、ああ、ちょっと寒くてね。それでこんな格好さ。いや、本当に最近は冷えるね。」


 冷える? わたしは全身汗ばむほどの暑いのに、寒いと彼は言うのです。


「寒いって、あなた、熱があるのじゃなくて?」

「いや、いや、熱はないよ。喉も、鼻も悪くない」


 喉の調子は悪くないというのですが、その声はくぐもっていて、とても聞き取り難くかったのです。まるで口の中に綿を詰め込んで喋っているようでした。


「声の調子が変よ。本当に大丈夫なの? コロナとかインフルエンザじゃないの?」

「コロナだって? そんなことはないさ。心配はいらない。

味覚だって正常で、食欲だってある。むしろお腹が減って、減ってしょうがないくらいさ」


 不意に布団から手が伸びると床に転がっていたパンをひっつかむとすぐに引っ込みました。そして、くちゃくちゃと咀嚼しているような音がしました。


「ヴェローシャ……、あなた、食べているの?」


 返事はありませんでした。ただ、くちゃくちゃという不快な音がかすかに聞こえるだけでした。

 本当に食べているのでしょうか。でも、さっきのパンにはびっしりとカビが生えていたのをわたしは見ていたのです。暑さで全身にじっとりと汗をかいているのに二の腕が粟立つ感じがしました。


「えっと、なんでこんなに暗いの? 窓もカーテンも閉め切っちゃって。すこし空気を入れ替えたほうが良くない?」


 わたしは話題を変えることにしました。

 とにかく、この嫌な臭いも雰囲気もすべて入れ替えたい。心からそう思ったのです。だからカーテンを開けようとしました。


「やめろ! 光が目や体に沁みるんだ。カーテンを開けるんじゃあない!!」


 布団から手が出て、カーテンを開けようとした私の腕をつかみました。

 その感触ときたら、なんと表現したらいいでしょうか。ふわふわした綿毛で腕をくるまれたよう、と表現するのが一番合っている気がします。ただふわふわの感触が綿毛よりももっと細かく密度のある感じで、とにかく、男の人に腕をつかまれた時とは異質な感触だったのです。

 なぜだろうと思いつつ、掴まれた腕へと目を向けました。

 そしてすぐに理由が分かりました。わたしの手をつかむ彼、ヴェローシャの手には白い綿毛のようなカビがびっしりと生えていたのです。


「きゃあ!!」


 わたしは悲鳴を上げました。

 

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