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1.戦利品の偽りの花嫁、暗殺者として敵国へ


 私は、暗殺者。

 敵国の将軍貴族ノイハルト・クラウゼを殺すために、サフリア王国にやってきた。

 戦利品である貴族令嬢ジュリアナ・ファンティーネとしてである。


「かならずやり遂げてみせるわ」


 私は、鋭いナイフを握りしめながら、そう呟いた。


コンコンコン。


 屋敷のベッドで待っていると、足音が聞こえてきた。

 

キィ。


 扉が開いた瞬間――

 私は、渾身の力を込めて、ナイフを彼の胸に向かって突き刺した。


 だが、彼はナイフをするりとかわすと、逆に私を抱き寄せる。


「ただいま、エリシア。遅くなって、すまない……会いたかったよ」


 月光が窓から差し込む部屋で、彼の口づけが私のおでこに降りてきた。

 その甘さは、私の覚悟と夢の境界を曖昧にする、神秘的なものだった。


 心臓が早鐘を打つ。温かい腕の中にいるだけで、力が抜けていく。


 自分の手からナイフが滑り落ちる。

 床に落ちたナイフが、カチンと甲高い音を鳴らし、私は我に返った。


「ああ、おかえりなさい。あなた」


 私は、思い出したように演技を開始する。

 ……だけど、この演技に、もはや何の意味もない。

 

 だって、彼には私の『エリシア』という本名もバレてしまっている。


 この暗殺は失敗である。

 今日だけでなく、今までもずっと。


「ああ、君は今日も美しい」


 ああ、どうして……。

 こんなにも簡単に私の心を乱してしまうの?


 頬が熱い。

 演技ではなく、なぜだか分からない気持ちの高ぶりによって。


 どうしてこんなことになってしまったのだろうか?


*:;;;::;;;:+♥+:;;;::;;;:+♥+:;;;::;;;:*


 時は遡り、数日前。

 エリシアは、身に余る煌びやかなドレスの裾を持ち上げながら、揺れる馬車の中で一人息をついた。

 窓の外に広がるのどかな田園風景は、見知らぬ敵国のもの。


「……本当に、ここまで来てしまったのね」


 誰に言うでもなく呟いた声は、馬車の中に消えていった。

 思えばあの一言から始まった。


「お前には、これから初任務にあたってもらう」


 自国の暗殺組織『影の手』の総統が告げた言葉。

 エリシアは、幼いころから暗殺者として育てられてきた。


 ごくりと生唾を飲み込み、総統の指示を聞く。


「お前は、敵国が人質として指名してきた貴族の令嬢ジュリアナ・ファンティーネに成り代わり、サフリア王国の将軍ノイハルト・クラウゼの妻になれ。そして、機を見て彼を暗殺するのだ」


 ジュリアナ・ファンティーネは、戦利品としてサフリアに差し出される貴族令嬢である。

 その美しさは、まるで日の光を纏った白百合のようだと噂されていた。絹のように滑らかなプラチナブロンドの髪に澄んだ青い瞳。気品あふれる立ち振る舞いと、儚げな微笑みは誰の目にも忘れがたい印象を残すという。


 そんな彼女と髪と瞳の色以外は容姿がよく似ていた。変装魔法を使えば、色を変えることぐらいは容易い。

 完璧に模倣できるのは、幼いころから暗殺者として育てられたエリシアだけだった。


「いまこそ、先生に御恩を返すとき、怖がってなんていられないわ。私がこの役目を果たさないと」


 拳をそっと握りしめる。けれど、胸の内に広がる不安を完全に拭い去ることはできなかった。


 やがて馬車は王都の門をくぐり抜けると停止した。

 エリシアが馬車を降りると、目の前に広がるのは、荘厳でありながら静かな佇まいをした美しい屋敷だった。白を基調にした外壁は、日の光を浴びて柔らかく輝き、精緻な装飾が施された窓や柱は、さながら芸術品のよう。広大な庭には、季節の花が咲き誇り、手入れの行き届いた並木道が屋敷への道を優雅に彩っている。


 だが、その優美さとは裏腹に、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っていた。まるで、この屋敷の主そのもののように。


「ここが……ノイハルト様の住まい……」


 エリシアは息をのみながら、胸の内に広がる不安を押さえつける。やがて扉が開くと、彼女は運命に導かれるように足を踏み入れた。


 その瞬間、彼女の視線は一人の男に引き寄せられる。


 黒髪に鋭い漆黒の瞳、長身に纏う漆黒の軍服。どこか冷たさを湛えたその佇まいは『戦神』の名にふさわしい。将軍貴族ノイハルト・クラウゼ。彼こそが彼女の標的。


「……ジュリアナ・ファンティーネです。ノイハルト様」


 エリシアは微笑みを浮かべ、優雅にカーテシーで挨拶をする。少し緊張した雰囲気まで含めた完璧な演技。


 ノイハルトは一歩彼女に近づいた。その漆黒の瞳が、彼女をじっと見つめる。


「……偽物だな」


 その一言に、エリシアの心臓は凍り付いた。


「な、何を……」


「その変装魔法が仇になったな」


 低く静かな声に、エリシアの背筋はぞくりとした。


「俺は、ジュリアナとやらに会ったことはないが、魔法は得意だ。変装魔法の痕跡ぐらい、見破られないと思ったのか?」


 しかし、逃げるわけにはいかない。

 標的までは、数歩の距離。


「覚悟!」


 素早くナイフを取り出すと、渾身の力を込めて、突きを放った。


「ほう? 逃げるのではなく、殺しに来るか。おもしろい」


 あっさり躱されると、ナイフを取り上げられる。


「……くっ!」 


 エリシアは、死を覚悟した。

 だが次の瞬間、ノイハルトはナイフを手放すと、彼女の顎をそっと持ち上げた。


「美しい……気に入った」


 彼の指先は驚くほど優しくて、触れた瞬間、エリシアの胸がかすかに高鳴る。


 その後、彼はエリシアを解放すると、何事もなかったかのように微笑んだ。


「では、屋敷を案内してやろう」


 その言葉に、エリシアは戸惑う。何故、彼は正体を見破ったはずなのに、何も咎めず、むしろ微笑みを浮かべているのか?


「……なぜ私をそのままに?」


 問いかける彼女に、ノイハルトは冷静に答える。

 

「理由は簡単だ。お前が俺の花嫁だからだ」


 その声音はどこか甘さを含んでいて、エリシアは無意識に息をのんだ。

 彼は、エリシアが暗殺者であることを気づいているはずなのに。


「お前が何者であろうと関係ない。お前は俺の妻になるためにここに来た。それだけで充分だ」


 その言葉に、エリシアはますます混乱する。彼は一体何を考えているのだろう? 敵であるはずの自分をなぜこんなにも優しく受け入れるのか。


「……いつか私は、あなたを殺します」


 つい、そう口にしてしまう。だけど、ノイハルトは微動だにしない。


「ならば、いつでも俺の命を狙えばいい。だが、今は――お前は俺のものだ」


 その冷たくも甘い声に、エリシアの心は再びざわめいた。


 こうして、エリシアの偽りの花嫁生活が始まった。

 そして、それは同時に彼女自身の心を大きく揺さぶる日々の幕開けでもあった。

  

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