5
セナの婚約破棄宣言に、しんと静まり返った会場内。だれも、ひとことも発さない。会場中の視線を一身に受け、徐々にいたたまれなくなってきたセナは、一歩下がる。
こんなときばかり頭は冷静で。頭のなかのもうひとりのセナが囁いた。
言うことは言った。あとはもう、逃げるしかない。
セナは、勢いよく会場を飛び出す。
「セナ!」
背後からエーベルの声が聞こえたけれど、セナは無視した。走りながら、両目からはとめどなく涙があふれてくる。
だめ。せめて建物を出るまでは、泣いちゃだめ。こらえないと――。
「あっ……!?」
その瞬間、視界がぐらりと傾いた。ドレスの裾を踏んだのだ。勢いづいた身体はそのままつんのめる。
――まずい、転ぶ……!
衝撃を恐れて、セナは思わず目をぎゅっと瞑った。しかし恐れていた衝撃はいつまで経ってもやって来ず、代わりにセナの身体は、だれかのぬくもりに包まれていた。
恐る恐る目を開き、顔を上げる。
「っ……エーベルさま」
セナを抱き止めてくれたのは、エーベルだった。
相手を認識した瞬間、セナの身体は本能的にエーベルを拒絶する。
「……っ、セナ! お願い、逃げないで」
腕から離れようともがくと、逆に強く抱きすくめられた。ひゅっと息が詰まる。
「は、離してください……!」
「……どうして? 俺のこと、きらいになった?」
エーベルの声は、こちらが苦しくなってくるくらい、悲愴に驚いた。セナはぶんぶんと首を横に振る。
「きらいじゃないです」
「じゃあどうして……?」
「……きらいじゃないけど、もういやなんです……っ!」
「いや?」
セナは震える声で、思いの丈を吐き出す。
「……本当は、ずっと気付いてたんです。私とエーベルさまのあいだには、大きな温度差があるって」
「温度差……?」
ずっと気付かないふりをしてきた。けれど、この一年セナとエーベルは一ミリも関係が進んでいない。
「エーベルさまはいつも、私たちはまだ学生だからとかもっともらしい理由をつけては、私に触れてくれませんでした」
きっと、セナを傷つけないための配慮なのだろう。エーベルは、優しいから。でも、こんなにまっすぐ想いを伝えているのに、いつまでもそんなふうに遠ざけられたら、セナはつらいだけだ。理性の外側で愛されたって、そんなの、恋とは言わない。ただの、愛だ。ほかのひとへ向けるふつうの愛。特別なんかではない。
セナは泣きながら続けた。
「私は、割り切った関係はいやです。エーベルさまが好きだからこそ、エーベルさまが違う女の子と仲良くしてるところなんて見たくない。契約の結婚なんてぜったいいや。耐えられない。だから……」
別れたい。そう告げようとした瞬間、手を強く引かれ、言葉が途切れた。
驚く間もなく唇に柔らかいなにかが触れて、セナは硬直する。
――キスされてる。
気付いたときにはもう、セナの後頭部はエーベルにしっかりホールドされていた。
「っ……」
驚く間もなく、エーベルの唇が離れていく。呆然と離れていく唇を見上げていると、エーベルと目が合った。その瞬間、エーベルの顔色が変わった。
「……ご、ごめん! 苦しくなかった……?」
顔が熱い。顔面が爆発しそうになりながらも、セナは一度だけ小さく頷いた。
なにがどうなってこうなったのか、理解が追いつかない。
「……ごめん」
エーベルはなぜか、両手で自身の顔を覆っている。後悔しているような態度だ。
「あの……エーベルさま?」
「……ごめん、突然婚約破棄なんて言われたから、ちょっとパニックになっちゃって」
「パニック……? エーベルさまが?」
「……そりゃ、好きなひとに婚約破棄なんて突き付けられたら、焦るだろ」
「好きなひと……?」
え、と思う。
「私のこと、好きじゃないんじゃ……?」
そろりと訊くと、エーベルは眉を寄せて、解せない、という顔をした。
「そんなわけないだろ。俺がどれだけ我慢してると思ってるんだ! この前だって、セナが男とふたりでいたからつい不安になって……でも、セナはずっと余裕がある俺を好きだって言っていたから、必死に我慢してたんだよ……」
でも、最近は家に呼ばれたりしてさすがに限界だったから、ちょっと頭を冷やそうと思って距離を置こうと思っていたのに。と、エーベルは恥ずかしそうに呟いた。
「……じゃあ、私のこと、興味ないわけでは……」
ないんですか、と聞く前に、エーベルは被せるように言った。
「当たり前だろ! 婚約まで決めたひとのことなのに!」
「……じゃ、じゃあ、エーベルさまは私のこと、好き……?」
思い切って訊ねると、エーベルは目を泳がせ、ごくりと喉を鳴らす。
「……好きだよ。ずっと、好きすぎて嫉妬で狂いそうだった。でも、セナのこともセナの友達のことも大切にしたかったから、必死に抑えてたんだ」
そう言って、エーベルは恥ずかしそうにセナから目を逸らした。
信じられない。だって、あのエーベルが、嫉妬? しかも、好きすぎて?
「エーベルさまが嫉妬……」
改めて呟くと、
「……そうだよ。悪い? 君はいつだって想像以上のことばかりするから、調子が狂うっていうか……どうしたらいいか分からなくなるんだ」
エーベルは罰が悪そうな顔をして、そう言った。
「……す、すみません。……でも、嬉しいです」
セナは微笑んだ。
「本当? 幻滅してない?」
「幻滅なんて、有り得ません!!」
はっきり答えるセナを見て、エーベルは心底安心したように息を吐いた。
「よかった……」
セナはドギマギしながらエーベルの様子を見守る。エーベルは何度か深呼吸をすると、セナを見た。
「……じゃあ、君はまだ俺の婚約者でいてくれる?」
あんなに追いかけていたエーベルに不安げに見つめられていることがなんだかおかしく感じて、セナは笑った。
うそみたいだ。昨日まであんなに避けられていたのに。てっきりきらわれてしまったと思っていたのに。
「もちろん。婚約破棄は、破棄でお願いします!」