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しかし、それからわずか数日後のこと。セナに待っていたのは、これ以上ないほどの絶望だった。
「――これからはいっしょに帰れないって、どういうことですか?」
いつものように騎士学院の校門前でエーベルを待っていたセナに、エーベルは「もういっしょには帰れない」と言い放ったのだ。
「急に、どうしてですか……?」
ついこの間は、あんなに甘い雰囲気だったのに。あれは嘘? 作り物の笑顔だったとでもいうのだろうか。
「私、なにかしましたか? もしかして、孤児院にまで行っていたから?」
「違うよ。セナは悪くない」
「じゃあ、どうして……」
縋るセナから、エーベルは目を逸らした。たったそれだけの仕草でも、セナは心をズタズタに引き裂かれたような心地になる。
「……それじゃあ俺、まだやること残ってるから。気を付けて帰って」
エーベルは一方的にそう告げると、セナを残して学院に戻って行ってしまった。
それからセナは、フリードが出てくるまでその場に立ち尽くしていた。
***
「おい、セナってば、いったいいつまで落ち込む気だよ」
エーベルと会わなくなって一週間。セナは未だ落ち込んでいた。
「学院側から言われたんじゃねーの」
「学院側から?」
その可能性は、ないことはない。騎士学院は女人禁制だし、校門前とはいえ、女子学院の生徒がいるのは目立つ。
「この前の孤児院でのイベント、エーベルさん以外にも何人か騎士学院の奴らがいたし、そっちも噂になったんじゃないか」
フリードは頭のうしろを掻きながら「そんな気を落とすなよ」とそう言った。
「……でも、学校帰りしか会う時間ないのに……私、うざかった? やっぱり、嫌われちゃったのかな……っ」
小さく震えるセナの頭を、フリードがぽんぽんと撫でた。
「そんなことないって。エーベルさんは学院の代表だから、せざるを得なかっただけ」
それはそうかもしれないけれど。
「エーベルさまは、私に会いたいって思ってないってことなのかな……」
泣きそうになっていると、フリードの大きな手がセナの頭を覆った。
「……そんな顔すんなって。暇なときは俺がこれからも付き合ってやるし……あ、そうだ! 夜会行こうぜ! そうすればエーベルさんに会えるだろ? だから元気出せよ。な?」
しかし、そうはいってもセナの沈んだ心が浮上することはなかった。
***
エーベルとすれ違い始めて数日。
セナは淡いピンク色のドレスに身を包み、騎士学院に来ていた。
今宵は、騎士学院とセナが通う女学院合同で行われる夜会当日。
セナは気が向かないながらも、フリードに押され、渋々参加していた。シャンパングラスを手に、会場の隅で煌びやかな世界をぼんやりと眺める。
――みんなきれい……。
セナが通う女子学院は、爵位を持つ子女のみが入学を許される。同じく騎士学院も爵位を持つ子息のみが入学を許される。そのため基本、生徒は上流階級の者しかいない。
ドレスが鮮やかだ。まるでじぶん以外のひとたちすべてが幸せそうに見えて、セナは俯いた。
――と、そのとき、ふと視界に見知った横顔を見つけた。
「!」
エーベルだ。
エーベルは、セナの知らない女子生徒と談笑していた。セナと違って、細いのに出るところは出た豊満な身体つきをした女子生徒だ。おそらく、セナよりも歳上なのだろう。
女子生徒はエーベルに寄り添いながら笑っている。エーベルは拒絶するどころか、女子生徒の腰に手を回していた。
あんなふうに触れてくれたこと私にはないのに、ともやもやしながらその様子を見ていると、すぐ近くにいた女子生徒たちの会話が聞こえてきた。
「見て。エンバー侯爵家のアリスさまよ」
「アリスさまに言い寄られたら、エーベルさまだってぞっこんになってしまうわよ」
女子生徒たちは、エーベルを見つめながら話していた。どうやら、アリスさまというのはエーベルと話している例の彼女のことらしい。
エンバー侯爵家といえば、かなりの名家だ。だが、セナの実家と比べると、格が違う。
「あら? でもエーベルさまって婚約してなかったかしら?」
「婚約と恋愛はべつ。ただの契約よ。ここだけの話、エーベルさまが婚約を決めたのは、出世のためらしいし。今どき、本妻にこだわる女はいないわよ」
「じゃあ、エーベルさまの本当の本命は、アリスさまってこと?」
「きっとそうだわ」
――なるほど。婚約は、契約……。本妻は、ニセモノ。
「……ふふっ」
思わず笑ってしまう。
なんだ、そうか。ようやく、これまでのエーベルの態度に納得した。
エーベルははじめから、セナに愛情なんてなかったのだ。ただ、シュミット家の後ろ盾がほしくてセナと婚約したに過ぎなかった。
それ以上ふたりの様子を見ているのがつらくて、私はバルコニーに出る。
月を見上げる。じわじわと月のかたちが滲んでいく。瞬きのたび、ほろっと目からなにかが落ちていく。
――もう、終わりにしよう。
契約の関係なんて、いやだ。
セナはエーベルと違って、そこまで大人ではない。生涯でたった一度の婚約を、そんなふうに割り切った関係に考えることはできない。
涙を拭って、セナはバルコニーを出た。
会場を歩き、エーベルを探す。
探しながら、心のどこかでエーベルの姿が見つからなければいい、と願った。見つけてしまったら、おしまいになるから。けれど、そんな願いも虚しく、セナの目はいとも簡単にエーベルを見つけてしまう。
静かに歩み寄る。
「……エーベルさま」
背後からそっと声をかけると、エーベルだけでなくそばにいた女子生徒たちもそろって振り向いた。
「だれ?」
「さあ?」
近くにいた女子生徒たちが、セナを見ては半笑いを浮かべる。このひと、声をかける相手を間違ってるんじゃないの、みたいな顔だ。セナのことをエーベルの婚約者であると知らないのだろう。
しかし、エーベルはそんな周囲の雰囲気などまったく気にせずに、セナに笑顔で歩み寄った。
「セナ。会いに行くのが遅れてごめんね」
思いもよらない優しい言葉をかけられて、複雑な気分になる。
ふられたはずなのに、この笑顔はなんなのだろう?
セナは、固まった。それまで告げようとしていた言葉がどこかへ吹き飛んでしまったのだ。
呆然としていると、エーベルが心配そうにセナの顔を覗き込んだ。
「……セナ? どうかした? もしかして、気分悪い?」
「……いえ……あの、私、エーベルさまに話したいことがあって」
「話?」
ドレスの裾をぎゅっと握る。うつむきかけて、いけない、とセナは奥歯を噛んでエーベルを見上げた。そして、言い放った。
「私、セナ・シュミットは、エーベル・フレート・クスターさまと……こ、婚約破棄いたしますっ!!」