黒歴史トリミングサロン
一人で飲める店を探して渋谷道玄坂の裏通りをウロウロしていた。
“黒歴史トリミングサロン”
店の前に出ている電飾スタンド看板。
店構えは、まさに犬や猫のトリミングサロンのようだ。
大きな窓から、トリマーコートを着た若い女性が、にっこりと微笑むのが見えた。
僕は吸い寄せられるようにその店に入った。
「いらっしゃいませ。当トリミングサロンにようこそ」
「あの……店名から察するに、ここは忘れたい記憶をトリミングしてくれるお店ですよね」
「はい、その通りです。よくおわかりになりましたね」
生きていると、忘れたい失敗談や恥ずかしい思い出が積み重なる。
最近はそれに耐えきれず、毎晩、酒の力を借りて脳の記憶領域を麻痺させていたのだ。
女性はラミネートされたメニュー表を指し示しながら説明する。
「当店では、お客様のご要望に応じて、お好きなだけ記憶をトリミングすることができますが、あまり消し過ぎては、思い出のほとんどがなくなってしまう懸念もございます」
僕もそうなってしまう危険性が高い。身震いした。
「お勧めは、お客様の記憶を探り、一番消したい記憶だけをトリミングするプランです」
「そんなことができるんですか?」
「はい、お客様に自覚がなくても潜在化している辛くて苦しい記憶は、心に大きな負荷をかけますので。お時間は一時間ほど頂戴しますが」
ボクは上着を脱ぎ、トリミングテーブルに乗った。
バリカンのような器具を頭にあてがわれる。
壁に備え付けられているモニターにぼんやりとした映像が映し出され、やがてその画質が鮮明になってきた。
視界には、競技場のトラック。観客席は、白いシャツに赤と紺のハーフパンツの男女で埋め尽くされている。
これは、そう、中学時代の記憶。全校陸上大会の風景だ。
確かにコレは、記憶から完全に消し去りたい。
消し去りたいはずだが……
中学男子の価値は、運動能力の優劣で決まる。
だから、僕のヒエラルキーは最底辺に位置していた。
ホームルームで出場種目を決める際、スポーツ万能な生徒から優先的に希望種目が埋まっていく。
あみだくじの結果、誰にも選ばれなくて余っていた2kmの中距離走が僕にあてがわれた。
そして当日。2km走がスタート。
出場者は各クラスから選出された、僕のような運動能力とくじ運のない生徒ばかりのようだ。
意外と走れる。足が軽い。僕は後続を距離をあけながら先頭を走る。
観客席から、歓声が聞こえる。気分がいい。
しかし当時の僕は、こんな距離を走ったことがなかった。
ペース配分というものを知らなかったのだ。
400mのトラックを1周回ったころ、それに気がついた。
後続の集団が一気に僕は抜き去られる。
歓声が、どよめきと笑い声に変わる。
トラックを2周回ったころには、僕の走るスピードは、普段の早歩きぐらいだったのではないか。
出場者は次々とゴールしていく。
苦しい。正直リタイアしたい。
「どうする?辛かったらやめてもいいぞ。次の種目もあるし」
先生が側に走り寄り、棄権を勧める。僕の体を気遣うというよりは、競技の進行時間を気にかけているのだ。
「……最後まで走ります」
意地だけで、息絶え絶えにそう答えると先生は主催者のテントに戻って行った。
やがて、次のトラック競技を始めるアナウンスが入った。
トラックの中に出場選手が集まると、僕の存在は忘れられた。
きっと、ゴールしてもしなくても、一人残った審判員役の生徒以外、誰も気づかないだろう。
5周目。
カランカランカラン
ラスト1周の鐘の音。
審判員役の女の子が鳴らしたのだ。
観客席の一部が、僕の存在を思い出す。
鐘を鳴らした赤いハーフパンツの女子生徒が僕に走り寄る。
あっという間に追いつき、僕と併走する。
「あと周、がんばろ」
そう言って、八重歯を見せ、微笑んだ。
観客席からはヤジや冷やかしも聞こえてきたが、彼女は気にすることなく、僕のリズムに合わせて隣を走る。
確かこの女子生徒は同級生で、1年2年と続けて市の中学連の100m走で優勝した子だ。
何とかラストスパート、と言っても早歩きのスピードが少し上がったくらいだと思うが……をかけて、彼女と一緒にゴールした。客席からはまばらな拍手が聞こえた。
中腰で膝に手を置き、ゼエゼエ息を整えているボクの肩をポンと叩き、
「がんばったね!」
と笑顔でホメてくれた。
モニターに映された映像は、そこで終わった。
その後日、なぜかわからないが、彼女は可愛いノートを僕に差し出し、当時流行っていた『交換日記』なるものを始めた。運動能力ヒエラルキーの最底辺にいるこの僕と。
僕らの初恋は卒業するまでに何となく終わり、その初恋自体の記憶も何となくウヤムヤになっていた。
「これが、お客様が一番消し去りたい記憶のようですが、いかがいたしましょうか?」
トリマーコートの女性が、モニターのスイッチをオフにしながら、僕に尋ねる。
「……いや、この思い出は、そのままにしておいてください。」
「よろしいんですか?」
「あ、料金は払います……大切なことを思い出させてくれて、ありがとう。」
店員さんはハンガーにかかっていた上着とバッグを持ってきて僕に渡した。
「大切なことを思い出してくれて、ありがとう。」
彼女はそう言って、八重歯を見せ、微笑んだ。




