表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/35

卒業祝いと引っ越し

 卒業祝いと言う名目で、ヒース大佐とお店で食事を取る事になった。昼時は混みそうだが、これから行く予定のお店は席の完全予約制のお店だった。

 お店にヒース大佐が運転する車で移動した。移動中ヒース大佐に車の運転免許の取得は可能か、可能ならば取得方法についても尋ねた。現時点で車の運転免許取得は不要らしい。『現時点で』と言われたので、必要になったら取得する可能性が高い。

 ヒース大佐が運転しているところを見るに、マニュアル車では無いから運転技術の習得に時間は掛からないだろう。宝物庫に入れている魔力駆動車は地球で言うところのマニュアル車に近い。何度も運転しているので、運転方法は忘れていない。

 この大陸の乗用車はガソリン車では無く、電気自動車に近い。近いと言っても、これも刻印機の一つだ。

 ヒース大佐が予約したお店は、ちょっと敷居が高そうな二階建てのお店だった。利用し慣れているヒース大佐に手を引かれてお店に入り、タッチパネルを操作して予約席に移動する。

 予約席は個室で、ヒース大佐がドアを開けて入ると中にはフルード教官がいた。隣にいるヒース大佐を見上げると、頭を撫でられた。

「祝われた事なんて無いだろう? せっかくだから呼んだんだ」

「私はただの賑やかしだから、気にしなくていい」

「そう言う事だ。フルード以外の代金は俺が持つ」

 奢り対象外だと確定した事を知り、フルード教官はヒース大佐を見た。

「……たまには奢って下さいよ」

「お前の給料は少なくないだろ」

 ヒース大佐はフルード教官の要求を却下してから椅子に座った。自分はお礼を言ってからヒース大佐の隣に座った。ヒース大佐が三人分の料理を注文したが、出て来た料理はコース料理(フレンチ風)だった。

 出て来た料理は全て美味しく、最後に出て来たデザートは凝った見た目の小さなケーキ(直径十センチ程度のホールタイプ)だった。

 その味はレアチーズケーキに似ている。

 複数のフルーツソースを掛けてデコレーションしたレアチーズケーキと言えば解るかな? 

 フルーツソースはぶつかり合わず、混ざる事でより一層美味しくなっている。プロは凄いな。鑑定魔法を使っても判明するのは使用材料だけで、調理工程は解らず、味は盗めない。

 ソースに使っている果物の種類だけで判らないかな?

 そんな事を思いながらケーキをじっくりと眺めていたら、ヒース大佐から気に入ったのかと聞かれた。ソースに使っている果物の種類を考えていたと回答し、残っていたケーキを食べた。

 流石に、『味が盗めないか考えていた』とは言えない。果物の種類について考えていたのは事実だから、こちらを言い訳にした。

 自分がケーキを食べ終えたら、ヒース大佐に明日以降の予定を教えて貰う。


 卒業した自分の進路は、フルード教官とヒース大佐の所属――州内部調査室だ。

 学校側に『卒業したら、この学校を教えてくれた人が個人で経営しているところに就職する』と、一年生の頃から言っていたので、教員からは怪しまれる事は無かった。入学した時点で進路が決まっており、学校側で手伝う事が無ければ興味も持たれなかった。

 

 明日以降の予定は――引っ越しだった。

 荷物は少ないから、荷造りに時間は掛からない。引っ越し先は内部調査室が保有する寮だ。

 そして、ここで意外な事実を知った。それは、フルード教官の階級だ。今になって知る必要が有るのかと思わなくも無いけど、流石にこれから同僚になる人を『教官』と呼ぶのは駄目だろうね。

 四年ぐらい前に『ビル・フルード』教官の正しい名前が『ウィリアム・フルード』だった事を知り、本日階級が『大尉』だった事を知った。

 てか、大尉階級の人に、教官役をやらせていたのか。別の意味で凄いな。

「荷造り以外にも、日用品で買い足すものとか有るだろ? 明日からの三日間で荷造りと買い出しを済ませろ。迎えに行く前日には必ず連絡を入れる」

 荷造りに必要なものは明日届けるとヒース大佐が締め括り、食事会は終わった。



 ヒース大佐に送られて部屋に戻った自分が最初に行った事は……冷蔵庫の中身のチェックだ。

 実は最後に買い出しを行ったのが五日前で、本日買い出しに行く予定だった。そこに、引っ越しの予定を聞いたので、予定を変更しなくてはならない。

 残り十一食分(三日分の三食と今日の夕食と引っ越し当日の朝食分)をどうやり繰りするか。日用品の買い出しをするついでに、サンドイッチ系のものを買って食べるのが良いかもしれない。

 こう言う時、インスタント食品とか、レトルト食品が販売されていれば便利なのに、無いんだよね。インスタント食品もレトルト食品は存在はするけど、軍人が作戦行動中に食べるものと認識されていて、一般家庭向けに販売されていない。

 一枚の紙とペンを用意して、買うものを書き出す。

 三年間の学校生活を制服で過ごしていたので、手持ちの『私服』が少ない。大陸の気温が激しく変化する事が無かったので、年中薄手の長袖ワンピースを着て、寒い時にはカーディガンを羽織る程度で快適に過ごせていた。学校に通っていた間は制服を着ていて、買い物は学校帰りに済ませる事が多かった。

 だが、学校を卒業した今、これから私服で行動する機会が増える。

「私服と、食事、日用品……シャンプーとリンス、コンディショナー、ティッシュ? あ、靴も買わないと無い。この際に色々と買い足すか」

 口に出しながら、買うものを列挙して行く。ついでに冷蔵庫の中身も書き出す。

 冷蔵庫の中身は調味料を中心に残っていた。

 お米が無いから、フォカッチャやロールパンを食べる直前に焼いていた。日中、学校にいた時は購買部でお昼を買って食べていた。休校日と朝と夜は自炊していた。

 そんな生活を送っていたので、調味料だけは確りと揃っている。

 次に、残っていた食材は、卵、牛乳、ベーコン、ブロックチーズ、芋、数種類の野菜だ。沢山残っているように見えるけど、肝心の量が少ない。全部を使えば一回分の食事が作れる程度の量しか残っていない。

 食材も調味料も使い切ってから購入するようにしていたが、残り三日で調味料を使い切れるか怪しい。調味料は、使い切れなかったら廃棄を考えないとだな。いや、食材を追加で購入して調味料を使い切るのも手だ。

 悩んだ末に、今日の夕食分を作り、調味料がどの程度残るかを確認した。

 残っていた食材を全て使って料理を何品か作ったが、芋とベーコンのクリームスープと葉物野菜のサラダとチーズオムレツの三品しか作れなかった。サラダとチーズオムレツを冷蔵庫に仕舞う。

 主菜と主食が無いのが厳しいな。でも、調味料を使い切る為の目安となる量が判明した。少量の食材を買い足せば三日分の食事は作れそうだな。最終日の朝食は作り置きか、前日に出来ているものを買えば良い。

 改めて、今日買うものを決めて別の紙に書き出し、戸締りをしてから手荷物を手に買い出しに出た。



  初日は食材の買い出しと買い足し品リスト作成で終わり、引っ越し準備は翌日から始まった。

 荷造りに必要な梱包用品などが届いたのは昼過ぎだった。家具と家電は元々置いてあった。逆を言うと、ここで生活するうえで買い足したものはそれ以外だ。

 引っ越し先に持って行く荷物は箱に仕舞い、今後持って行きたいものに関しては、道具入れ宝物庫に仕舞う。二つの仕分けを行って荷物をどんどん分けて行く。

 すると、道具入れと宝物庫に仕舞ったものの方が多かった。


 衣服も靴も、修繕しても駄目なぐらいになるまで使っていた。

 これは購入する機会が無かったからではなく、単純に気に入った一品に出会う機会が少ない。なので、多めに購入出来る時に、多めに購入する癖が付いた。

 特に履物関係は必ずと言って良い程に購入していた。軽くて丈夫で履き心地と機能性を求めるのなら、それなりに技術が進んだ世界で購入するしかない。

 これは衣類にも言える事だが、世界によってはそれなりに良いものが低確率で手に入るので、下着でも無い限り買い溜めなどはしない。


 そんな感じで荷物を選別して、荷造りをしていたら、三日間はあっと言う間に過ぎ去った。

 昼前になって迎えに来たのは、数人の知らない大人を連れたフルード大尉だった。

 フルード大尉は荷物の少なさに驚いていたけど、引っ越し作業が楽になるのならば良いかとすぐに元の顔に戻った。ちょっと言いたい事が出来たけど、引っ越し作業が楽になるのは良い事だ。

 いざ作業しようと思ったが、荷物の運び出し作業はフルード大尉が連れて来た引っ越し業者に、掃除はこれから来る清掃業者に依頼済みで、自分がする事は無かった。

 貴重品を入れた鞄を手に、フルード大尉の運転で一緒に乗用車に乗り込み別のところへ移動する。

「スーツですか?」

「ああ、ウチの面々は軍服では無く、スーツを着て行動する事が多い。その分だとスーツは購入していないんだろ? 最初の一着だけは制服として、経費で購入出来るんだ」

 意外な事を聞いた。

 それにしても、スーツか。

 スーツを着るのは久し振りだ。ファンタジー系の世界に転生する事が多かったので、これまでの正装は大体ドレスだった。でも、たまに制服を着る学校が存在したので、制服に関してはそうでも無い。

 フルード大尉おすすめのお店に向かった。これから着る事になる既製品のスーツを選ぶ。

 動き回る事を考えて、スカートは丈が少し短めのものを選び、ジャケットは少々袖が長めのものを選んだ。ジャケットが大きいのは、ボタンを掛ける時に胸が邪魔になったからだ。

 ……体が真っ当に成長したと認識すべきか悩む。

 個人的な悩みはともかく、ブラウスとストッキングとパンプスを含むスーツ一式を購入した。太っ腹な事に、そこそこ良いお値段のするこれが全部経費で落ちる。仕事内容を考えてかは知らないけど、ありがたい事だ。

 フルード大尉と一緒に適当な飲食店でお昼を食べてから、引っ越し先の寮へ向かった。

 


 到着先は『屋敷』とか『邸宅』と言うに相応しい、外観と大きさの庭付き三階建ての『豪邸』だった。何と言えば良いのか判らず混乱するよ。

 豪邸と言えるぐらいに大きな家だが、ここが一等地である事を考えると、この敷地面積と家の大きさは妥当かも知れない。

 でも念の為に、フルード大尉に確認を取る。

「ここですか?」

「見た目は寮に見えないけど、ここが内部調査室の寮だ」

 駐車場に停めた乗用車から降り、フルード大尉の案内で寮の内部を歩く。

 一階は共用と客室(八畳ぐらいの少し広めの個室で、全部屋共通)、二階が男性用で、三階が女性用に分かれていた。洗面台とトイレは各階に二つ存在する。

 各部屋にベランダは無く、各階にテラスも無いが、屋上が存在し、ここも共用だった。

 浴場は一階にあり、当たり前だが男女で分かれていた。一畳程度の狭いシャワールームが五つ存在したが、こちらは男女共用だった。

 食堂と厨房は存在するが、厨房を利用するのは家事代行業者の人だけだ。別に厨房を利用してはいけないと言う事は無く、単純に料理が出来る人間がいないだけだった。

 これなら冷蔵庫の調味料とか持って来てしまえば良かったな。いや、家事代行の人が料理を作っているのなら、かえって邪魔か。

 実際に厨房を使うのなら、家事代行の人がいる時に使って良い食材や調味料について確認してからの方が良いな。無断で使って仕事の邪魔になったら悪いし。

 さて、寮内を一通り見て回ったところで、フルード大尉と別れて割り振られた自分の個室へ向かう。荷物は既に運び込まれているそうなので荷ほどきをしよう。

 割り振られた三階の個室のドアロックを、渡された専用のカードキーを使って解除して中に入る。

 天井の高い部屋だった。高さは三メートルぐらいありそうだ。室内の広さは八畳だけど、天井が高いので備え付けの家具があっても、更に広く感じる。

 室内の正面に両開きの大きな窓が配置されていた。高さ一メートル、横五十センチ、引き出しを三つ持つ、二つのチェストに挟まれるような形で仕事用の机と椅子もあった。入って右手、縦に備え付けられたベッドは高さ二メートルのロフトで、その下はクローゼットとなっていた。ベッドの縦が二メートル半、奥行きが一メートル半もあったので、ちょっとしたウォークインクローゼットと言っても良い程の収納力を誇る。

 そんな室内の中央に荷物が纏めて置かれていた。

 荷物と言っても、持って来た私物は少ない。 

 持って来た荷物は、衣服と履物に、作り掛けの刻印機に、私物の電子機器と雑貨と日用品、学生時代に使っていたものに、愛用の食器ぐらいだ。

 寮の室内がどうなっているか分からなかったから、洗剤(食器用、衣類用、掃除用)と食器を始めとした、独り暮らしに必要そうなものを持って来たけど、この分だと使わなそうだ。捨てるのは勿体無いから、全部道具入れに仕舞うか。

 備え付けのクローゼットに衣類と履物、チェストに雑貨と日用品、机の引き出しに電子機器と学生時代に使っていたものをそれぞれ仕舞って行く。買ったばかりのスーツもクローゼットに仕舞った。

 荷ほどきを終えたら一階に降りる。お茶を飲んで一休みしていたフルード大尉と合流し、今後の予定について尋ねるも、今日のやる事は引っ越しだけだった。

 なお、フルード大尉は引っ越し作業が完了した事をヒース大佐に報告しに行くそうだ。去られる前に梱包用品の扱いについて、フルード大尉に尋ねよう。

 質問の結果、梱包用品は一階の指定の廃棄場所に置けば良いそうだ。

 玄関でフルード大尉を見送ってから自室に戻り、梱包用品を手に一階に降り、指定の廃棄場所に置いたら部屋に戻る。

 部屋に戻ってから行う事は、道具入れの整理だ。引っ越しをするに当たり、衣類などを大量に購入したが、道具入れに入っているクローゼットに適当に放り込んでしまった。

 一度整理しよう。

 ついでに、購入したコートに簡易防壁の術式付与などの加工も行おう。学校に通っていた間は、やる気が起きなかったからやらなかった。

 でも、これからの仕事内容と、クローンの存在を考えると一着は加工しておいた方が良いだろう。


 トレードマークのように来ていたあの黒コートは、地味に手間暇が掛かっている。

 生地が薄目だったから、機織り機を使い魔法陣を織り込みながら、縫い付ける追加の布を一枚作った。やや大きめのタペストリーを作っている気分になったわ。

 機織り機で一枚の布を作るには想像以上に時間が掛かるし、卓上用でも糸の準備でそれなりの作業スペースを必要とする。糸の準備で廊下を利用する訳にもいかず、部屋の中で頑張った。

 後にこの作業を、粉末にした鉱石を使い加工して作った特殊な糸を使った『刺繍』に切り替えた事で、大幅な時間の短縮が可能となった。コートに直接刺繍する訳にもいかないので、別の布に魔法陣の刺繡を施してから、コートに縫い付けた。

 代わりに糸の準備に時間が掛かったが、機織りをする事に比べればだいぶ楽だ。

 ただの布を作るだけなら、『毛糸を編む要領』でやっても良かったが、織り目の大きさから機織りをする事にした。

 

 こんな経緯があり、コートの予備は作らなかった。軽いコートが入手出来る時に作って置けば良かったな。

 後悔先に立たずとはよく言ったものだ。

 幸いにも、軽くて機能性の高いコートが何着か買えたのだ。今作ってしまおう。

 そして、夕食が出来たと家事代行の女性のペイジさんに呼び出されるまで、作業に没頭した。



 夕食時に、この寮に住んでいる人達を紹介されるのかと思いきや、現在この寮を利用している人が少なかった。他の人は皆、仕事都合(潜入調査)で遠方にいるらしい。

 故に、現在この寮を利用しているのは自分以外だと、ヒース大佐とフルード大尉に、もう一人いるそうだが、今日は外で食事を済ませてから寮に帰って来るそうだ。

 そんな理由で、今日の夕食は何時かの時のように三人で取る。

 ヒース大佐から早々に『肝の小さい奴で済まん』と謝罪を受けた。何でも、ここにいないもう一人は『心の準備がしたい』と急に言い出して、食事を外で取る事にしたらしい。

「最後の一人はトミー・スウィフトだ。階級はウィリアムと同じ大尉だ」

 食事を取りながら、ヒース大佐よりここにいない一人に関わる情報を貰った。何でも、バックアップ系の仕事が得意だけどかなりのビビりらしい。

「極端なビビりで、銃火器系の扱いが下手で、滅多な事では前に出せない奴だ。情報整理や情報収集はこいつに丸投げして良い」

 ヒース大佐は笑顔でそんな事を言い切った。言って良いのかよと突っ込みたくなった。明日確認を取ろう。



 夕食は和やかに終った。

 食堂から去り際に、明日からフルード大尉と一緒に出勤しろと、ヒース大佐から通知を貰った。

 返事をしてから食堂を出た。食堂に残った大人二人はこれから晩酌をするそうだ。興味を持たずに大人しく部屋に戻ったよ。

 部屋に戻ったらコートの細工作業を再開し、消灯時間一時間前に一着終わらせた。

 

 とても古い、遠い昔の過去を夢で見た。

 転生してから十数回目の世界で起きた、皆と初めて再会する前の事だ。


 暗い森の中を一人で走る。

 私を捨てた、家族だと思っていた人達を、村の皆を追い駆ける。

 置いて行かないで。私も連れて行って。助けて。名前で呼ばなくても良いから。

 私の後ろには、黒い獣が沢山いた。

 皆に追い付いたと思ったら、村長でもある祖父の手で獣の方へ突き飛ばされた。

 ――お前が我慢すれば皆が助かるんだ。皆の為にここで死ね。

 そうだそうだと皆が言った。皆は後ろに倒れる私を見捨てて去った。

 そして、私は獣に噛み殺された。

 けれど殺された事で、私は菊理として覚醒してしまった。


 ――そして、私と、家族と村の皆の運命は逆転した。


 次に目を覚ますと、そこは柔らかな光で照らされた暖かい部屋だった。

 自分は柔らかいベッドの上にいた。

 起き上がって己の体を見下ろす。衣服が変わっていた。目を覚ます前は、ボロ布を巻き付けて服代わりにしていたのに、清潔そうな白いワンピースに似た貫頭衣を着ていた。

 袖から覗く四肢に深く残っていた傷痕が消えていた事に『あれ?』と首を傾げる。


 自分以外にも黒髪黒目の人はいたのに、『華やかさの無い見た目の女だから、嫁の貰い手何ぞ見つからないだろう』と言う理由で祖父と両親から大事にされず、金髪に近い明るい髪を持った妹だけが大事にされた。

 村の人達は『村長がやっているから、自分には何をやっても許される』と勝手に思い込んで、暴力を受け、嫌がらせを受け、皆の鬱憤晴らしの道具にされた。


 骨と皮だけだが、傷一つ付いていない手足を見るのは久し振りだ。

 ベッドから下を見ると、綺麗に磨かれた木板の床が視界に入った。 

 靴を探したが見当たらない。裸足で床に降り、室内を歩き回る。

 大人用の大きなベッドと机と椅子があるだけの、ドアの無い小さな部屋。横にも窓は無いが、天井の一部に取っ手が付いていた。多分、ここが天窓だろう。

 やる事が無くなり、床に座りベッドの足に寄り掛かった。ぼんやりと天井を見上げる。

 毎日、日が昇る前から陽が落ち切る頃まで、休み無くずっと働いていたから、何もせずに時を過ごすのは久し振りだった。

 ここには誰もいない。理不尽を押し付ける村の皆も、家族も、誰もいない。

 気づけば舟を漕いでいて、そのまま眠ってしまった。



 上下に揺れる振動で、意識が覚醒した。薄っすらと目を開けると、血のように赤く紅玉のような瞳と目が合った。赤い瞳が細められて、目尻が下がった。

「ふむ。起きたのか」

 聞くものを落ち着かせる低く柔らかな男性の声。艶やかで黒く長い髪。血色の赤い瞳。笑うと口元から僅かに見える牙のように発達した犬歯。男女問わずに見る人を魅了する容姿。

 ――今でも、この人の事は覚えている。

 この人と出会い、転生の旅が始まってから初めて得た、安らぎに満ちた日々は忘れられない。

 最期の別れは絶望に満ちていたけど、あの日々は幸せだった。それだけは断言出来る。


 

「――あ」

 聞き慣れたアラーム音を聞いて目が覚めた。

 起き上がって部屋を見回すと、そこは昨日入ったばかりの内部調査室の寮部屋だ。

 梯子を使ってロフトから降り、両開きの窓を開けて冷たい朝の空気を浴びる。

 窓枠に頬杖を突いて、雲がまばらに浮かぶ青空を見上げる。

 ……古い記憶を夢で見た。この世界に来るまで滅多な事では過去を夢で見なかったのに、何でだろう?

『世に偶然は無く全ては必然だけ』とかって言う格言があった気がするけど、脳内の情報整理の余波で見る夢にまで、偶然だの必然だのを、求めなくても良いと思う。

 

 夢の続きは覚えている。

 自分を拾った人は『吸血鬼の魔王』だったけど、自分はあの人に救われた。『研究』を理由に拾われたとしても、皆と再会するまで生きていたのはあの人がいたからだ。

 魔王を倒す役割を神々から与えられた勇者がやって来た時には、問答の末に自分が斃した。でも、まさか自分が『拉致された被害者』のように思われていたなんて夢にも思わなかった。

 拉致では無く『保護された』のに、どうして誰も理解してくれないのか。魔王の肩書を押し付けたのはそっちなのに。人を襲うとしても、領地内を荒らすなどの被害を受けない限り、何もしないのに。

 あの人とのあんな形での別れを齎した神を、協力者の皆を恨みもした。

 ……そう言えば、変なところに拘りがある人だったな。あの人に拾われてから一年も経たない内に『お兄様』呼びを強要されるようになったんだっけ? 

 拾われた当初、声が真面に出せない状態で、舌足らずで喋っていた。ちゃんと喋れるようになるまで時間は掛かったが、あの人だけが根気良く付き合ってくれたっけ。

 転生の旅が始まって、初めてと言える日々は二十年以上も続いた。


 大きく息を吐いて、思考を中断した。これ以上思い出すのは止めよう。今日から仕事だ。

 寝巻から簡素なワンピースに着替えて、身繕いをしてから朝食を取りに一階に降りた。

 階段を下りる際、陽の光を反射する己の髪を一房取った。

『お前の黒髪は長い方が良い。より美しく見える』

 かつてあの人にそんな事を言われた。思い出さずとも、その言葉を大切にしていたからか、髪の手入れは怠らず、ずっと伸ばしたままにしている。短く切った回数は少ない。

 また思い出してしまったと、軽く息を吐いて髪から手を放し、食堂へ入った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ