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いつものお散歩中、ひなげしが小麦畑から消えていることにスクルプトゥーラは気づいた。咲きたいときに咲けないで、決まった期間――それもとても短い時間――しか花でいられないのはなんて不便なのだろう。花も不本意であるだろう。せっかく美しい姿でいられるのに。スクルプトゥーラは晴天の中、ぼやっとそう考えていた。
「ひなげしがなくなったね」
スクルプトゥーラの言葉は宙に浮かんでいる。一歩、二歩歩いていくうちにも、その言葉が誰かに受け入れられることはなかった。エバはただ前を見て歩いている。
「ねぇ、聞いてる? 」
「あ、ごめん。なに? 」
この頃、エバがうわの空であることにスクルプトゥーラは気づいていた。というよりも、気づかざるを得なかった。こんな調子で自分の言った言葉が誰の耳にもとまらず、ふわふわと浮遊していくのをスクルプトゥーラは嫌った。その言葉が蝶ならばまだしも、完全に見えないものであるから、誰にも気づかれず、やがて消えていくそれを放った自分が馬鹿馬鹿しく思えるからであった。今も改めてエバに伝える気すら薄れている。
言葉とは花よりも短い時間で彩りを失っていくのだ。そうスクルプトゥーラは感じた。もう一度言葉にだそうなど、姑息な真似は効かない。伝えたいと思った瞬間に伝えて、それが望んだときに相手に伝わらなければ、新鮮な香りはなくなってしまう。しおれた花を咀嚼するようなものだ。そんな目に何度も合わされるこっちの身にもなってほしい。はやく僕の話を聞いてくれるエバに戻って欲しい。そんな風に思ったり、思わなかったり。スクルプトゥーラにとって、大体のことはどうでもいいで済んでしまうのであった。
真夜中、スクルプトゥーラは目を覚ました。
クララを起こさないよう、足を忍ばせる。ドアの取っ手に手を掛け、極力音の出ないよう、そっと開ける。控えめな軋みと共にスクルプトゥーラは身を滑らせ、洗面所へと向かった。勢いよく水を出し、そのまま両手にすくい、顔を洗う。すぐに横に掛けてあるタオルで水気を飛ばすとそのまま居間へ向かった。そして、ダイニングテーブルの席につく。
目が覚める夜はこうして窓の外をぼんやり眺めることがほとんどであった。特に意味はない。あえて言うならば、意味のあることをしようとしても、この世界で、この時間に何をしようかという話である。それに意味のあることだけの時間なんて凝り固まっている。こういう時間の使い方をスクルプトゥーラはまぁまぁ好んでいた。
突如、窓の外を影が横切る。それは見覚えのある影であった。スクルプトゥーラは迷わず、席を離れ、扉から夜の世界へと飛び出していった。
それは風すら音を立てない、とても静かな世界であった。
影は家の並びを越え、湖へと向かっていた。こちらに気づく様子も見せず、足早に進んでいく。スクルプトゥーラは真夏のぬるい風に巻かれながら、ご機嫌にステップを重ねていく。ひとつ足を踏み出す度に、ゆるやかな気体を腕や足に衣として纏うようで、スクルプトゥーラは心を弾ませた。
今夜は月が見当たらない。そのせいか、湖の主張はとても控えめに感じられた。一歩間違えたら、そのまま水に自由を奪われてしまうような、そんな捉えどころのなさを覚えたり、覚えなかったり、やはりそんなことはスクルプトゥーラにとってどうでもいいことであった。その姿を故郷と重ねたりなどはしないし、そんなことよりも、影の動向が気になっていたのであった。
「君、こんな夜更けに何をしているのかい? 」
湖を前にして座るエバに対して、スクルプトゥーラは茶目っ気をだして問う。しかし、スクルプトゥーラが覗いたエバの表情は想像以上に深刻なものであった。心の中に漆黒の種が根を張り、そのまま体全体を覆い尽くしたかのような表情であった。さすがのスクルプトゥーラもエバの異変を嗅ぎ取る。最近様子がおかしかったのもこれが原因であるのだろう、と。
「ちょっと、考え事だ」
エバは張りのない声で答える。スクルプトゥーラはなんとなくその隣に座った。草の感触があまり心地よくない、むず痒い。そして相変わらず、目の前にある湖は闇で覆われている。
二人はそうして長い時間を過ごした。二人がこの静かな世界に馴染んで透過していく。この世界そのものへとなっていった。息づかいが夜に染み出していく。揺れる髪が夜に溶けこんでいく。肌を滑る汗が夜に重なっていく。
「考え事ねぇ」
スクルプトゥーラは独り言のつもりで――出来れば受け入れてもらえたら良いかなと思いながらも――話し始めた。
「ここの人間は本当に大変だね」
スクルプトゥーラは頭で言いたいことを整理しつつ、ゆっくり話し始める。
「……でも、移ろいがあることは非常に興味深いことだと思うよ」
「あんなに美しく咲いた花は枯れ、人間と人間の関係も日にち単位で、いいや、分単位で変わっていく。僕にはまだその仕組みがよくわからない。うん。この地上の世界のことをまだよくわかってないけど、面白いとは思う。僕の故郷を模して作られた、ただの模型ではないこと、僕は理解したよ」
「きっと、その考え事も時間と共に移ろっていくんだ。それが良い方向へ向くか、悪い方向へ向くか。そんなことは僕には分からない。だけど、このまま永遠に同じ事で悩むことはないんだ。それなら、今思いっきり悩んでしまいなよ。幸い、今の君の隣には僕がいるし、何か話したいことがあったら、ちゃんと聞く」
ふとエバはスクルプトゥーラの方に顔を向けた。その気配を感じ、スクルプトゥーラはゆっくりとそちらを向く。そこには今にもほつれてしまいそうな、涙を両目にためた、苦しみに耐え抜いてきたエバの顔があった。スクルプトゥーラはじっとその瞳を見つめたまま、こう言う。
「僕は君のどんな姿を見ようと、なんとも思わない」
一筋、涙がこぼれ落ちる。一回許したそれはとめどもなく流れていく。顔を歪め、鼻水を垂らし、まるで約束されたお菓子を奪われた五歳児のように泣きじゃくる。そんなエバをスクルプトゥーラは目をそらさずに見つめていた。長い間見守っていた。
スクルプトゥーラは初めて涙というものを見たのであった。大人に近づく人間がこんなにも感情をむき出して、爆発させて、自己表現するさまを見るのは初めてのことであった。
ゆっくりと白い手を伸ばし、頬を流れる涙に触れる。
「綺麗」
指先に溜まるそれらを瞬きすることなく琥珀の双眸は捉える。白の頬は恍惚で赤く染め上がっていた。口角の上がった口からは真っ白な歯――特に犬歯――が暗闇のなか僅かな光を受け、上と下の歯の間にはよだれの糸が引いていた。
綺麗と口から漏れた言葉がエバに受け止められたかは定かではないが、そんなことどうでもよかった。今は、この言葉は、宙に浮かんだまま夜に吸い込まれてしまってもいいとスクルプトゥーラは感じていた。
エバが落ち着いたのは、朝日が昇る気配をちらつかせている頃であった。まだ夜の時間であると世界は言い張っているが、次第にその色は薄まっている。
「この地上には戦いがある」
エバは鼻をすすりながら語り出す。
「きっとお前の世界にはそんな醜いものないだろう。この国は数十年前から隣国からの攻撃を受けている。毎日海の向こうからやってくる彼らの侵攻を国の防衛隊は戦うことで阻止しているんだ。わたしは家計を支えるために今日までその訓練生をしていた。でも、それも今日でお終いなんだ」
語るその声に涙が染みる。
「明日から、わたしが、防衛隊の一員として人を殺めるんだ。わたしの放った大砲が一体何人の命を奪ってしまうのだろう。日常が、一日、一日が戦いの日々へと変わってしまうんだ。それに、それに、体の一部が欠損してしまうかもしれない。最悪運悪く死んでしまうかもしれない。情けないだろうけど、そう考えるだけで、どうしようもなく怖いんだ。本当は一家の大黒柱も何もかも投げ出したい。今の世を平和と勘違いしている他の皆のように、自分の人生を自由に選んでみたいんだ。特別取り柄があるわけでもないけどな。だけど、どうしようもなく、今の生活から逃げ出したいんだ」
色は急には変わらない。こちらを焦らすようにじっくりと移ろっていく。
「でも君は逃げないんだろ? 」
スクルプトゥーラは穏やかに口にした。エバは歯を食いしばり、暫く時間をおいた後に頷いた。それから二人はなにも話すことなく、ただ時間に身を委ねた。
朝日が昇り、そしてまた降りていく。体力も精神力も根こそぎ奪われたかのように見えるエバをスクルプトゥーラは笑顔で迎えた。
「おかえり」
エバはふっとその強面を綻ばせる。
「ただいま」