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「あーあ、本当に〝枯れ〟てしまったね」


 スクルプトゥーラは数時間前に摘んだひなげしの花をひらひらさせながら、まっすぐ歩いていた。日が沈みかけているのと同じように、花の寿命も尽きかけている。あの青を彩る鮮烈な赤は消え、皺が生まれ、赤茶色がかっていた。スクルプトゥーラと調和していた姿はもうどこにも見当たらない。今は彼が花弁を風に任せる度に弱々しくそよぐだけであった。


「仕方がない。そういうもんだ」


 わたしはそう返し、行きよりもずっしりと重くなった台車を押し続ける。


 夕暮れの赤は地平線からこちらに伸びているように感じられた。コップからなかなか水が落ちないのと同じような原理で、スプーン一杯分の赤が空という境界を突破し、地上の世界にまで染み渡っているように思える。そこにはなんの不平等性もなく、小麦畑も道も生きたひなげしも死にかけのひなげしも、わたしとスクルプトゥーラにも赤はこぼれ落ちている。その事実がわたしの心を頼りない熱で照らした。


「つまんないの」


 スクルプトゥーラはそのままひなげしを道の端っこへ放った。そのまま振り返ることなく、ぐんぐんと歩みを速めていく。わたしも距離をあまり開けぬようにスクルプトゥーラの後をついていった。それからわたしは、夜が世界に染み出し、地上にある全てのものから赤が奪われていくのを帰宅する前に見届けた。



 珍しく朝からスクルプトゥーラが起きている。

 わたしが自分の部屋から出たとき、彼はダイニングテーブルの席に背筋を伸ばして座っていた。


「朝の清々しさはどこも変わらないね」


 わたしに気づいたスクルプトゥーラの第一声である。わたしは皆に挨拶をし、呆気にとられたまま洗面所へ向かった。


 皆(ひとりの傍観者も含む)で朝食を取り、わたしたちは各々のやるべきことに移行していった。既に母は静かに作業を始めている。妹のクララは昨日やった課題がないと騒いでいる。きっとまたベッドか机の下の隙間にでも落ちているのだろう。クララが家の中を縦横無尽に駆け回る中でも、スクルプトゥーラは席に着いたまま微動だにしない。何もすることのないまま朝早くに起きるなんて、昨日はよく眠れなかったのだろうか。しかし、そういった様子はスクルプトゥーラからは見受けられなかった。ただ平然と、そこに座っているのがさも当たり前かのような態度であった。


 わたしはその疑問を解決させることなく、家を出た。一日で最も鬱屈な時間は始まろうとしている。



 官舎であるテラスハウスを出れば、同じ生活リズムを持つ、同じような人間が同じ時間に同じ場所へと歩みを進めていく。なんて不気味なのだろう。現にわたしが歩き始めてさほど時間の経たないうちに、同じ官舎に住む同期が姿を現す。そこに意思の有無など関係ない。わたしたちはひとつの義務に引っ張られ、ただひたすらに訓練所へと足を進めていくのだ。


 湖に映る並木道の緑は朝に相応しく穏やかに揺れていた。どこからか鳥の声が聞こえ、そのどこまでも可愛らしい朗らかさがこれからわたしのすることの残虐性を表面化しているように感じられる。


 湖は変わりないその姿で今日も鎮座している。その輝きは快晴の空をまるごと受け入れているようであった。あの日、わたしが信じた湖の光は真実であるのであろうか。本当に、その表面を突き抜け、湖自体が煌めくことなどあり得るのだろうか。わたしは一度信じた。しかし一度わたしが信じたことによって、何かが変わってしまってはいないだろうか。


「それで、どこに行くのかい? 」


 聞こえた声を不審に思い振り向くと、そこには席に着いていたはずのスクルプトゥーラがいた。道を歩く同期がちらちらと彼の方を見ている。


「何故ここにいる? 」

「知りたかったのさ。何故頑なに午前中の話をしようとしないのか」


 スクルプトゥーラの柔い視線が今は鋭い。こちらを余興代わりに見透かそうとしているのが分かる。わたしが隠しているものが良いことであろうと、悪いことであろうと関係がないと言いたげであった。ただ自分は知りたいのだ、と。それでもわたしは言うつもりはなかった。


「何回も言っただろ? 駄目なものはだめだ」

「じゃあ、隠す理由くらい言ってくれたって良いじゃないか」

「駄目だ」

「じゃあ、勝手についていくしかないね」


 息が詰まる。即座に言葉にし難い何かが沸々と体内で湧き上がる。ただ一つ言語化しなくても分かることは、その感情は到底美しいとは言えないということだった。


「いいか。絶対に来るな」


 スクルプトゥーラは見開いた目でわたしを見つめた。こんなに気を荒らしたことが今までにないから、面を喰らったのだろうか。そんな表情も一瞬にして溶け落ち、いつもの悠々とした表情が戻ってきた。


「はーい、お手上げだよ。お家で大人しく待ってるね」


 スクルプトゥーラはそう言うと、そのまま踵を返し、並木道を楽しむかのような足取りでわたしから離れていった。わたしは胸をなで下ろし、スクルプトゥーラが湖の先へと歩いて行くのを確かめると再び目的地への歩みを始めた。周りを見渡すと、同期の数が減っている。わたしは少し駆け足になった。もうそれすらも義務のようだ。わたしは葉の匂いと共にそう感じた。




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