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スクルプトゥーラはうっとうしくて、わずらわしい。彼がいる毎日はわたしの規則正しい平凡な日々に風穴を開けた。それが面倒でたまらない。だが、わたしはスクルプトゥーラを邪険にすることはしなかった。それが彼を蔑む理由にはならないし、別に気分を害したわけでもない。ただ竜巻の如く、毎日が過ぎ去っていった。
「母さん、ただいま」
わたしは日々の訓練を終わらせ、帰宅した。これから母と食事をし、午後は足の悪い母に代わって買い出しに行く。母は家で手編みかごや麻の服を作って売っている。丁寧に作られたそれらは長持ちするといって、街の人々に好評だ。妹のクララは学校に通っているため、帰ってくるのは夕方になる。なので、昼食は母と二人で済ます。これがわたしの毎日である。
「おかえり、さぁご飯にしましょう。手を洗っておいで」
わたしは母に返事をし、洗面所へと向かった。そこには先客がいた。勢いよく水を出し、バシャバシャと音を立てて顔を洗っている。
数日、彼と過ごして気づいたことがある。スクルプトゥーラの所作は決して褒められるものではない。たまに見せる動作が粗野であった。しかし、あまりに外見が整っているせいか、それすらも彼を無垢で愛らしい無頓着な人間にみせ、かえって気取らない印象を周りに与えていた。
スクルプトゥーラは掛けてあるタオルで顔をふくと鏡越しにこちらを見た。
「おかえり」
「ただいま。というか、おまえ今頃起きたのか?」
「美肌の秘訣は極上な睡眠であるからね」
スクルプトゥーラはいたずらげに笑ってみせ、洗面所をあとにした。
「本当に、スクルちゃんはご飯食べなくていいの?」
母はサヤエンドウのスープを口に含め、心配げにスクルプトゥーラを見つめている。
「ええ、お腹が空かないので大丈夫です」
彼は貼りつけた笑顔で食卓の席に座っていた。どうやら本当にスクルプトゥーラは何も食べなくても生きていられるらしい。栄養を取る必要がないということは、果たしてどういうことなのだろう。学のないわたしには、まったくもって意味不明だ。
家族に彼の正体を話してはいない。左手首のあれも、使わない布きれで作った即席腕飾りのおかげでばれていない。話して得になることなどないし、波風立たないのが一番であろう。
彼を家に連れてきた当初、母と妹の二人は歓迎していた。しかし、母だけはどこか不安げであった。今三人で生活しているだけでぎりぎりであるのに、他人を養うことなど出来るのだろうか。自分たちの生活が破綻しないだろうか。そんな不安がひしひしと伝わってきた。だが、彼が食事もしない変人だとわかった今はすっかり彼を心から受け入れているようだ。
わたしたちは食事を終わらせ、各々のやるべきことに取り組み始める。わたしは今日買う物をリストにし、受け渡す商品を整理し、家の中を動き回っていた。スクルプトゥーラはわたしの準備が終わるのを食事の席についたまま、じっと眺めて待っていた。
「スクルちゃん、お願い。これを着てって」
母がスクルプトゥーラに渡したのは、麻の服であった。街の女の子が着るようなドレス型の服だ。
「前にスクルちゃんが着てくれたおかげで、注文がとっても増えたの。無理強いはしないけど、良かったら着てくれたら嬉しいわ」
スクルプトゥーラは当たり障りのない笑顔で答える。
「勿論、良いですよー。僕、おばさんの作った服好きです」
そのままスクルプトゥーラはクララの部屋に入っていった。これもクララの部屋で予備のマットレスを引いて、毎晩寝ているからである。
僕は作業を進めながら、ひとつの疑問を喉につっかえ、その一連を横目で眺めていた。
彼は本当に女性であるのだろうか。スクルプトゥーラに会う皆は最初から彼を女性と見て、当たり前に接していた。しかし何故だろう。わたしにはスクルプトゥーラが女性とは思えない。だからといって男性とも思えない。まぁ、スクルプトゥーラはわたしたちとは異なる人間であるから、自分たちの基準で物を考えても無意味なのだろう。
そんなこんなで、スクルプトゥーラが認識の誤差で問題を起こすような真似をしないと考えてはいるものの、何故他の人間は一目で彼を女性と見たのか好奇心が働いた。実はわたしの認識が間違っているだけで、本当は女性であるのだろうか。まだ直接問えるような関係でもない気がする。また少し時間が経ったら、彼に聞いてみよう。わたしはそう心に決め、準備を進めた。わたしとスクルプトゥーラは家を出た。
「前から思ってたけど、ほんと同じような家が続いているね。ここ」
スクルプトゥーラ両腕を頭に回し、ぶっきらぼうに歩みを進めていた。
「同じような人間が住む場所であるから」
わたしはそう答え、台車を押しながらスクルプトゥーラの後をついていく。自宅から出て暫くは、まったく同じ外観の漆喰が塗られた家が建ち並ぶ光景が続く。わたしはこの異様に整った眺めが不気味であまり好きではないが、道が補整されている分、台車を押しやすくて好都合であると考えている。
訓練所は並木道を抜けた目と鼻の先にあるにも関わらず、街に行くためには長い道のりを歩かなくてはいけない。ひとりでこの道を往復するのは苦痛であったが、今は目の前にスクルプトゥーラがいる。それだけで午後の買い出しが色づいているものに最近は感じていた。いつかスクルプトゥーラが帰ってしまうことが心から惜しい。
家々がなくなり、周りの景色が麦畑に変貌した頃、スクルプトゥーラはふらっと僕の視界から消えた。慌てて彼の残像を目で辿ると、彼は麦畑に足を踏み入れようとしていた。
「なにしてんだ。そこは麦畑だから、踏み入れるなよ」
「赤い花が咲いているんだ。ほら、昨日は咲いてなかったのに」
スクルプトゥーラの指さす方には確かに赤い花――ひなげしの花が青々しい麦に混じって幾つか咲いていた。毎年この暑さが増す季節に咲き出す花であることをわたしは知っていたが、特別気にかけるようなことはしなかった。花を愛でる趣味はないからだ。
「ほら、こんなにも可愛らしい、でしょ?」
道に戻ってきたスクルプトゥーラの頭には一輪のひなげしが飾られていた。彼はそれを存分にわたしに見せつけた。確かに可愛らしい。スクルプトゥーラにある微少な可憐さを小さな赤が増幅させているように感じる。だがしかし、あまり心が晴れない。
「今日やっと咲いた花なのに、もう摘んでしまったのか」
そうだ。根はまだ地に張っているから、植物自体が駄目になってしまうことはないが、折角今まで花を咲かすためだけに準備してきた彼らを思うと少し心が曇る。
「なにそれ。どういうこと?」
スクルプトゥーラはわたしの心情が理解できないとでも言いたげに眉をひそめる。
「どういうこともなにも、お前が摘んでしまったから、その花は夕方頃には枯れてしまうだろ。今日咲いたばっかりというのに」
気にくわないと言う意思を前面に押し出すスクルプトゥーラを前に、わたしの語気はだんだんとしぼんでいった。
「枯れるってなに?」
スクルプトゥーラは更に眉をひそめ、顔をしかめた。一歩ずつわたしに近づき、二人の距離を縮めていく。
『枯れるってなに?』わたしは今言われた言葉の反芻を続けていた。咀嚼しては、飲み込み、まだ消化できる硬度ではないと判断し、また口内に戻す。その作業をずっと脳内で続けていた。
「この花はずっとこのままで保たれてるんじゃないの? 僕の世界では花が、俗に言う『枯れる』なんてこと絶対に訪れやしないよ」
「ねぇ、枯れるってなんだよ」
何も口に出せないわたしを前にスクルプトゥーラは次々と疑問を口にした。
「枯れる、というのはっ――」
わたしはスクルプトゥーラの美麗な顔面に唾を飛ばす勢いで口を開いた。本当に飛んでしまったのか確かではないが、彼は一歩後ずさった。
「枯れるというのは、すなわち色褪せて、消えてしまうということだ」
一語一句、自身で確かめるように、ゆっくり口にした。枯れるということ。本当にわたしが言った言葉であっているのだろうか。間違ったものをある意味無知なスクルプトゥーラに吹き込んではいないだろうか。わたしの不安を察したかのように、青い麦が柔い風でなびく。
「はぁ……」
スクルプトゥーラは吐息混じりの相槌をうつ。実像を結んでいないその目線は普段スクルプトゥーラが見せないものであった。
スクルプトゥーラはいつも飄々としている。何事にもあまり感情を働かせない。花を摘んだり、女性用の服を着て笑ったり、一見感性豊かに見て取れるが、わたしには何処かよそよそしく見える。別にそれがスクルプトゥーラの素でないと言いたいわけではない。ただ、彼の心の奥はもっと冷えきっているように思えるのだ。
「つまり、有限ってことだね。あーあ、なんてつまらないのだろう」
そう。どちらかというと、こうやって悪態ついている方がスクルプトゥーラは生き生きとして見える。
スクルプトゥーラはそのまま踵を返し、道を進んでいった。わたしは再び歩みを始める前に、彼の後ろ姿に目をやった。白の髪はキャンバスの如く、空も太陽も風も麦もひなげしも、なにもかもを受け入れ、更に各々の色彩を高めているようだ。全てのものが生き生きとしていた。