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スクルプトゥーラが帰ってこないと母から聞いたのは帰宅してすぐのことであった。わたしは荷物をその場に置き、駆けだした。熱帯夜のなか冷や汗が背中を伝う。
ずっと頭によぎっていた「あれ」が実現してしまったのだろうか。
彼は故郷へと帰ってしまったのだろうか。嫌な予感が汗と共に流れ落ちる。
わたしは真っ先に湖へと向かった。街へ向かうには時間がかかるので、まずは近場から探すのが普通であるし、何故か湖に彼がいる気がするのであった。きっとわたしにとって、特別な場所であるのと同時に、彼と出会ったはじまりの場所であるからだろう。スクルプトゥーラとわたしの仲になにかあるとしたら、それは必ず湖で起きる。そんな気さえするのであった。
湖に辿りついたわたしはその光景に息を呑んだ。
湖に彼女はいる。
そう確信したのは湖が金色に輝いているからであった。湖自体が金の色を持って、煌々と輝いている。まるで夜空に金色の天の川が流れているようであった。風がその水面を揺らすと、星が瞬くように新たな煌めきを持つ。わたしはいけないと思いつつ、暫くその光景に見とれていた。屈んで指先を金に触れると、それに呼応して波打ち、発光するのがうつくしくてたまらなかった。口から恍惚のため息が漏れ出す。
わたしは湖に飛び込んだ。生ぬるい水に体が沈む。湖は漆黒ではなかった。細かい砂金がそっと水中を照らしている。遊泳していると、ふとわたしは湖の底でスクルプトゥーラが横たわっていることに気づき、急いで彼を引き揚げた。
わたしは草地の上に彼を寝かせた。水中で見たときに気づかなかったが、地上で見る彼はぼろぼろであった。一体、彼に何があったと言うのだろう。靴は脱げ、足は切り傷や擦り傷だらけになり、母の作った服は濡れていても目立つ染みや汚れだらけであった。何があっても滑らかであった髪の毛もきしんでごわついている。
スクルプトゥーラはすぐに目を覚ました。そんなに長い間沈んでいたわけではなさそうで、わたしは心を落ち着かせた。
その安堵のまま、わたしは彼の右手を握った。その手はほんのりと温かく、どくん、どくんと脈打つ鼓動を感じた。スクルプトゥーラの血流がわたしを更に安堵させる。
「何があったんだ」
「わからない」
スクルプトゥーラは静かにそう答える。
そのまま左手首を夜空に掲げた。そこにはなにもない、ただの白肌が姿を現した。あの手首を巡る金の流動体も、それを隠す腕飾りをも消えていた。
「……スクルプトゥーラ」
わたしは全てを察し、彼の名前を呼ぶが、彼は何も言わない。ただ瞼を何回か上下させ、左手首を呆然と捉えているだけであった。
「……明日の話をして」
スクルプトゥーラの言葉は大事そうにそっと口から出てきた。
「明日? 」
「うん」
わたしは少し考え、頭に浮かんだ言葉をそのまま吐いた。
「……おまえの隣にいるよ」
「それって、僕がどこにいたとしても? 」
「うん」
「ずっと隣にいてくれる?」
「うん」
スクルプトゥーラはわたしの瞳をまっすぐに覗いた。何かを見透かそうとする、あの目でわたしをずっと見つめていた。
「それはいいね」
スクルプトゥーラの声はどこかふわふわと浮いていて、少し寂しげであった。
スクルプトゥーラはそれっきりわたしの方を向こうとはしなかった。顔を背けて湖の方を眺めている。
湖からは完全に金が消えようとしていた。




