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わたしが日々行き来する道のわきには湖がある。


それはどんな光も通さない。自身の深さのせいか、鋭利な日光であれ、嫋やかたる満月の光であれ、全ての光はその水面に薄く纏うのみであった。自然に蔓延るどんな光でさえ、湖自身を輝かせることはなかった。一度浮き出る膜を剥がしてしまえば、どこまでも底の見えない暗闇が続いている。そして、その暗がりが変化することはない。


わたしはその湖を見る度に、どこか心を落ち着かせて目的地へと足を運ばせていた。例外なく、今日も訓練を終わらせて帰路へついている。この並木道を抜ければ、視界が開け、いつもの湖が顔を出すのだろう。


しかし、何故だろう。胸騒ぎが止まらない。鼓動が鳴り止まない。日常が壊れる音が体内からわたしを蝕んでいた。



 うつくしい。うつくしい人がいる。


 視界が開けたと同時に、わたしの目にまっすぐに飛び込んできたのは湖でなく、人であった。遠目から見ても分かる。純白の長髪をもつその人間は見知らぬ者であった。湖のほとりで所在なさげに座っている。その髪の長さから、あの人間は女性だろうか。いいや。女性であろうと男性であろうと関係ない。わたしはあんなにも生活を感じさせない人間を初めて見た。艶やかなその白の髪と頼りない後ろ姿から、わたしはあの人間がこの世で何の目的も持たずにただ浮遊を続ける何かしらの生命体であるような気がしてならなかった。


旅路の者なのだろうか。道に困っているのであろうか。わたしはそんなことを脳裏に浮かべ、一歩一歩その人間に近づいた。困っている人を無視するような真似は許されない。人助けと言う大義名分があって、わたしはその人間に近づいているのだ。


しかし、わたしは気づいていないふりをしていた。別にあの人間は退屈そうであるだけで、決して悲しんでいる様子はないことに。純粋にその人のもつ鮮烈な、漠然とした美しさに惹かれているだけであることを、わたしは自身に気づかない素振りを見せていた。蛙の声がどこからか聞こえ、足首に触れる青の草は露で濡れている。



「道に迷っているのですか?」


 わたしが声をかけても、彼女はこちらを見ようとはしなかった。シルクのように滑らかな髪の奥にある眼はぼんやりと湖の先を映しているのだろう。不思議なことに彼女から受ける印象は並木道を抜けた直後に感じたものと変わりなかった。近づいたことで、より一層強く感じるなにかがあるだろうと無意識に考えていたことを自覚する。彼女は変わらず、創りもののようにうつくしかった。


「迷っている――強ち間違ってはいないかもね」


 人間は微動だにせず、そう言った。全てのことがどうでもいいとでも言いたげな声の調子である。まるで何も知らないわたしに対して、皮肉の矢をいい加減に放ったかのような、そんな乾いた声であった。


 ふと、白の髪が揺れ動く。まだ高い位置にある太陽をわたしはこの人間の髪の中に見た。

人間はこちらにその顔を見せた。わたしは特別うつくしさに執着し、好むような人間ではないが、この人間の精巧さには思わず息を呑んだ。髪と同じく陶器の白肌に全てのパーツが繊細に仕舞われている。神はこの人間を生み出すのに一体どれくらいの時間と集中力を必要としたのであろうか。なかでも目を引く琥珀の双眸はわたしへとまっすぐに注がれている。この人間が瞬きをする度に、縁取られたレースの睫毛がゆっくりと上下していく。


 わたしはあからさまに動揺しながらも、それを顔に出すまいと努めた。元来、心の機微が表に出にくいたちである。体中を駆け巡る鼓動だけがわたしを焦らせた。


 「君、醜いね」


 人間の口がぱくぱくと動く。口でないところから声が聞こえてくるような、ある意味不自然な口の動かし方にわたしは、今自身が言われたことに気づくまでに時間を要した。


「え」


「君みたいな醜い人間、僕初めて見たよ。くるくるのくせ毛にたっぷりのそばかす。そのぎこちない顔。流石、地上の人間は違うってもんかな」


 風がすっと通り、蛙の鳴き声が重なる。


「――それはつまり、どういう意味だ」

「ん?そのままだよ。君はみに……」

「そうじゃない、地上の人間とはどういう意味だ」

「あー」


 人間は一度わたしから目を離し、湖へと視線をやった。そして、またわたしの眼を覗く。


「僕はこことは違う世界の人間なんだ」


 その言葉を受け、わたしは湖を一瞥した。なんだか、漂う光は湖の底まで行き届いているのではないかと思いたくなってしまった。水面を見ている分には、それが定かなのかはわからない。しかし、わたしは期待したくなったのだ。それも唐突に。光はわたしの範疇を飛び越えて、どこまでも照らしていくと。


 わたしは一度ゆっくり頷いた。異なる世界、目の前の人間が溶けこむ世界があるのだと思うと揺るぎない事実を理解させられた。現にこの地上で、この人間はあまりにも浮きたっている。あまりにも強い光を放っている。


「あれ、ちゃんと信じてくれるんだ。優しいね」


 変わらぬ表情でそう言うと、人間は自身の左手首をこちらに掲げた。その左手首は明らかに普通の人間でないことを物語っていた。手首を一周、金の流動体が巡っている。人間が少し手首を揺らすとその流動体も滑らかに動きを共にする。密度の濃い金の流れ。この蠢きに地球も宇宙も銀河も、この世のなにもかもが漂っているような、そんな不思議な感覚に陥った。


「綺麗でしょ。所謂これが、僕の世界の住民であるためのアイデンティティだよ」


 人間は左手首を下ろすと、こう言った。


「僕はスクルプトゥーラ。しばらくは家に帰れないんだ。だから君の家に居候させてよ。それで君の名前は?」


「わたしはエバ」


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