二章 高い塔 5
「ピクニックに行かない?」
ヴィオは病室に入るなりそう言って大きなバスケットを見せてきた。
「今日はとてもいい天気だし、とっておきの場所があるの。私の好きな場所よ」
ビジャンにその提案を断る理由があるだろうか? いや、ない。ビジャンはうなずくとヴィオは弾けるような笑顔を浮かべた。
「だけどさ、二人で行くのは難しくない? あれを連れて行くの?」
ビジャンはそういうと目線を入り口の扉に移した。病室の外、扉の脇には護衛が二人、つねに直立不動で見張っている。こいつらはトイレにもいかず───きっと鋼のような膀胱の持ち主なんだろう───不審な人間が決してヴィオに近づかないように見張っている。 朝、彼女を塔から病室に送り届け、夕方鐘の音がすると彼女を再び塔へと送り返す。護衛の目を盗んでどこかへ行くことは不可能だった。ビジャンが歩行訓練に外へ行く時も金魚のフンのようについてくる。この前の墓地へ行った時も当然ついてきたのだが、ビジャンが襲われた際には何の手出しもしなかった。あくまでヴィオの護衛であるためビジャンはその対象ではないらしい。医師の話では瘴気病を発症して生きている者は貴重な研究対象だという話だが彼らにとってはそうでもないらしい。雇い主からの指示を忠実に守っているのだろう。
ヴィオはいつになくテンションが高く、窓の方へくるように手招きした。窓から下を見るとハンスが手を振っている。ヴィオは後ろでベッドのシーツを外し、予備のシーツを結びつけ手早くロープを作ると片方をベッドにくくりつけ、窓の外に放り投げた。
「ヴィオ、二階だよ、ここ」
何を当たり前のことを言ってるの? という表情のヴィオ。
「別に護衛がピクニックについてきても僕は一向に構わないんだけど…」
「私がいやなのよ、あの二人、冗談が通じないのよ。さぁ行きましょう」
先にバスケットを下ろし、まずビジャンがおっかなびっくり降りていく。強度は問題ないようだ。下ではハンスがロープを支えていてビジャンが下まで降りると二人はハイタッチをかわす。ヴィオがロープで降りてくる。最後、着地でよろけたのでビジャンが支える。ヴィオはガラス細工のように華奢で羽根のように軽かった。
「ありがとう」
ヴィオは言った。二人は恥ずかしくなりすぐ身を離す。後ろで何故かハンスが照れている。ハンスは入れ替わりに上がろうとする。ビジャンは慌てて呼び止める。
「一緒に行くんじゃないのか? ついてこいよ」
「次の機会にしとくよ。上がさ、もぬけの殻だったら村中大騒動になっちゃうだろ。見つかったら俺がうまく言いくるめておくよ。夕方までには戻ってきてくれよな」
ハンスは本当に優しい青年だった。村では馬鹿にされつまはじきにされているが本当の彼は聡明でビジャンはハンスとすぐに親友になった。ビジャンは彼からは一切他人に対する嫉妬や悪意を感じることはなく、その純粋さはビジャンの心を温かくした。
外は嘘のように晴れ雲ひとつなく、時々吹く風は心地よく、夏草のいい匂いがする。何より隣にとても綺麗な女の子と一緒で、つねに笑いかけてくれる。
ヴィオは真っ白なワンピースを着て風で長い髪がなびき、帽子を手で押さえている。まさに天使のようだった。その姿は美しくキラキラと光り輝いている。ビジャンは柄にもなく緊張してしまう。あまりにも美しく直視できない。顔が赤らんだが仮面でわからなかっただろうから助かった。
ビジャンは遠慮がちではあったが思い切って手を繋ぐ。初めは少し驚いた顔をしたけれどヴィオはそのまま離さない。温かなヴィオの体温を感じ、少し高鳴る胸の鼓動は抑えるのに苦労するけれど、生きている中で最も満たされている瞬間だった。今日が永遠に続けばどんなに素敵だろうと。
ヴィオは行き先を教えてくれなかったので従って歩くしかなかった。救済院をでると壁に沿って南に進み、黄金の穂が揺れる小麦畑を抜け橋を渡り南門の近くまで行く。ここら辺はもちろん来たことがないエリアで、主に農業区なのだろう。
薄暗い手入れのされていない藪にはいる。こんなところにピクニックなんてできる場所があるのだろうかと自分の背丈ぐらいある生命力溢れる夏草をかき分けながらヴィオの後をついて行く。川から畑に水を引き込んでいる水路が見えてくるとそれに沿ってさらに進む。壁内といっても知らない場所は多い。ビジャンは自分が普段遊んでいる壁外の森を思い出して少し懐かしい気分になった。
その場所は突然現れた。藪の中にぽっかりと何もない円形の空き地だった。あたりはベリー系の藪が密集して生えているが円形の空き地は綺麗に刈り取られたように整地されている。
「良くこんな場所知ってたね」
「今はね、スダリアスのせいでお父様が心配して護衛なんていらないものをつけてくれているけど、以前は一人で村の中をよく散歩していたの。ここを見つけたのは偶然だけれど、一人になりたい時はよく来ていたわ。秘密の場所だから他の人に言っちゃダメよ。ハンスには別に言っても良いけどね」
空き地の中央にヴィオは布を広げた。周りは緑で囲まれているためかどこか秘密基地のような雰囲気があった。バスケットの中から新聞紙を取り出すとその上に次々と食器類を並べ始める。カトラリー、陶製のコップ、パンや野菜、容器に入れられた肉やパテ類、チーズもある。水筒からお茶を入れたカップを渡される。爽やかなジャスミンの香りがする。
「まるで魔法のようだね」
ビジャンは驚きそう言った。ヴィオは器用にバゲットをナイフで半分に切るとパテを塗り肉と野菜、チーズを挟みサンドイッチを作った。
「こんな美味しいものは生まれて初めてだよ」
大袈裟ね、と言いながらヴィオは笑っていた。野菜はシャキッとして新鮮で肉は肉汁が溢れるほどジューシーでチーズは乳の風味が濃厚で驚くほど美味しかった。あまりにも急いで食べたので喉に詰まる。ビジャンは渡されたお茶を飲み干した。
「そんなに急いで食べなくても大丈夫よ」
「果物を持って来るのを忘れたわ、ごめんね」
ビジャンはヴィオの手を取ると周りの茂みに向かう。茂みは密集し棘だらけの枝と丸びを帯びた葉をかき分けると鈴なりで緑のベリーがなっている。ビジャンはベリーをもぎとり一粒口に放り込んだ。まだ獲るには少し早いせいか実は小さく固い。舌に乗せると芳醇で酸っぱい味が口の中に広がった。少量食べるなら十分だろう
「棘に気をつけてね」
ヴィオも同じようにベリーを摘む。
「こういうのってそんなに食べれないのに意地になって集めたくならない? なんていうのこれ?」
一際酸っぱいのに当たったのかヴィオは顔をしかめた。鼻の頭に皺がよりそれもまた魅力的だとビジャンは思った。
「スグリって僕は呼んでるけど本当の名前はグースベリーていうらしいよ。いくらでも取れるんじゃないかな」
食べ終わり片付けが済むと二人は布の上に寝転んだ。
「ここは故郷を思い出すわ」
ヴィオはベリーをつまみながらそう言った。
「故郷ってどんなところなの?」
空は思っている以上に高く澄んでいた。
「緑豊かで海が近くて美しい街よ。建設王の出身地だから彼の設計した洗練された建物が多いし、美術館や博物館、図書館も沢山あるのよ。北の海は南の海と違ってクリーチャーがほとんどいないから漁業が盛んで料理も美味しかったし。冬は長く厳しいけれどその分夏が来たら本当に解放されて皆で夏を楽しむのよ。この広場は故郷の夏を思い出すわ。ちょうど十歳ぐらいで故郷から王都に引っ越したからもう八年以上は帰ってないのよね。ここの生活もいいけど願いが叶うならもう一度、故郷に戻りたいわ。もちろんここが嫌だっていうわけじゃないんだけれど、あの夏の広い空の下で緑の香りを胸いっぱい吸えればどんなに素晴らしいかなと思うの」
ヴィオの吐息がかかるぐらいの距離で話すので平静を装うのが難しい。なので勢い余ってビジャンはこう答えた。
「僕が、いつか連れていってあげるよ。一緒に行こう。いや、松葉杖なしで歩けるようになったらさ、すぐに二人で行こう」
「ふふ、嬉しい。楽しみにしておくわ。あなたは、何か願いがあるの?」
正直に言えば両親に会いたいということだったが、それはもう二度と叶わない望みであることはわかっていたし、ヴィオの少し困った顔を見るのも嫌だったので黙っていた。
何か願いが叶うなら、
「塔の上から村の景色を見せて欲しいんだ。もしかしたら僕の住んでいた集落も見えるかもしれないし」
「そんなのでいいの? それだったらいつでもかなえられるじゃない」
そういってヴィオは笑った。
帰り道、あたりは急に暗くなり大粒の雨が降り出した。辺りがけぶるほどの雨で二人は急いで歩く。雷であたりが目がくらむほど明るくなった。しばらくして遠くでゴロゴロと音がなる。まだ距離はあるが近づいているようだ。雨脚は激しくなる一方で丘の上の見晴らしのいい場所にぽつんと取り残されたようにたたずむ古い風車小屋をみつけ二人は雨宿りをさせてもらうことにした。外からは明かりは見えない。元から鍵などついていなかったので二人はドアを開ける。。
「お邪魔します」
二人はそう言って中に入った。中は薄暗く人の気配はない。少し埃っぽいが特に問題はなさそうだ。どうやら収穫の時期にしか使っていないようで今は倉庫のようになっている。壁に小麦の刈り入れの道具がまとめて置かれている。小麦の収穫はひと月以上先なのでまだ出番はないのだろう。
「まったく、急に降って来たわね。嫌になっちゃう」
ヴィオはバスケットの中からタオルを取り出し髪を拭いている。ビジャンはそわそわとあたりを調べるふりをして視線を彷徨わせた。ヴィオはさっき敷いていた布を取り出すと頭からかぶりその場に座った。
「寒いからビジャンも入って」
布はまだ太陽と草の匂いがした。一枚の布を二人はかぶり体を寄せ合う。ヴィオの体温を感じる。鼓動が大きくなりヴィオに悟られてしまいそうでとても恥ずかしい。気づかれないようにと祈りながら小さく深呼吸をした。ヴィオの様子を横目で見てみるが静かにじっと前を見て何を考えているのかまったくわからない。そしてビジャンもこんな時、何を話せば良いのか皆目分からない。気まずい沈黙が流れ外の雨音だけが絶えず聞こえて来る。呼吸に合わせて静かに彼女の小さな胸の膨らみが上下している。
「すっかり濡れちゃったね」
ビジャンは毒にも薬にもならないことを言った。沈黙が耐えられなかったのだ。彼女は何も答えない。
「仮面を外して」
彼女は何かを決心したように小さな声で言った。ビジャンは仮面を外し傍に置いた。ヴィオは愛おしそうにビジャンの頬に手を触れる。
「皮膚がぼ…」
ヴィオは唇に手を当てて話をさえぎった。ビジャンはヴィオの瞳を見つめ顔を寄せ二人は静かに唇を重ねた。
彼女の長い髪に触れ頭を撫でる。柔らかい髪をいつまでも触っていたい。ビジャンは彼女を抱きしめる。その華奢な体は温かく彼女の鼓動がビジャンにも伝わってくる。彼女も同じように手を背中にまわしぎゅっと抱きしめる。彼女の体温が、体の重みが心地よい。これほど気持ちよくて安心することがあっただろうか。彼女もビジャンと同じ気持ちになっているのだろうか? 同じ気持ちだったら良いなと思った。とてもじゃないが恥ずかしくて聞けなかったけれど。
ビジャンは体を離し彼女の華奢な両肩を掴むともう一度唇を重ねた。