六章 排泄するだけの猿じゃないといえるかい 17
早朝の森の中でしか嗅ぐことのできない朝露と緑、そして土の匂い。森には道らしい道はないが、タパには目的地があるらしくドゥラは黙って後ろをついて行く。危険な斜面や薮などは 意図的にさけてくれているようで比較的歩きやすい。歩きはじめて数分で背中に汗をかく。歩きながら水筒の水を飲んだ。思っていたより乾いていたらしく、一息で半分程の水を飲んでしまった。
「森へはよく来るのか、そういえば放課後お前の姿を見ないよな」
タパの肩越しにドゥラは話しかける。
「あれは家の手伝いをしているからだよ。そんなずっと森へ入っているわけじゃないさ。墓守の仕事は一人でやるから急いでやれば一時間は自由な時間ができるからね。その時間を利用して森に入ってる」
学校では歳が近いこともあってか、勝手に仲が良いとされてきたけれどそんなことはなかった。実際まともに話したのは昨日が初めてだったかもしれない。タパのことを自分は何も知らない。歩きながらタパは生い立ちを話してくれた。タパの家は代々墓守を続けてきたそうだ。その前は壁外のしかも森の中で住んでいたらしい。今はもういないが、壁外にも集落がいくつかあり、杣人として木材や炭を村に売ったり、狩猟で生計を立てていた者が少なからずいたらしい。学校でも教えてもらっていないし、村にも記録は残ってはいないのでドゥラは初めて聞く話だった。
タパは村の産院で産まれたそうだ。と、言っても村には一つしか産院はなく、救護院という村に無償で提供された場所だ。かなりの敷地で大聖堂の近くに立地している。村の子供は皆同じ場所で生まれ村全体で育てられる。ドゥラは王都で生まれたので疎外感はここから来ているのかもしれないなと思った。どこまで行っても余所者なことは変わらない。
村の外は壁に近いせいか村の中で見る草花とそう大差はなかった。しかしそれでもこれだけ広大な森の中を歩くことは初めてだったのでワクワクしたし、小さな花ひとつとっても森の中では自然が主役であり、人間の存在がいかにちっぽけかということがわかる。
聞いたことのない鳥の声や見たことのない草花を見つけるとタパは立ち止まり丁寧に教えてくれた。ドゥラは素早くスケッチを取り詳細を忘れないように走り書きをし、頭の中に焼き付ける。しかし本質は情報ではないとドゥラは考える。なぜなら情報には実体がないからだ。知りたいのなら図鑑を見れば事足りる。しかしその場合、ああそんな花もあるのね、で終わってしまうだろう。自分が実際に見て何を感じ何を思ったかが重要なのだ。
タパは学校での勉強はさっぱりだったが草花や鳥や獣など生物への造詣が深かった。知らないものはないんじゃないかとさえ思える。───気を遣って言わないのだろうがきっと昨日見たスケッチブックも知っていることばかりだったろうと思う───また目が良いのかドゥラが見逃すような小さな物事を即座に発見する能力にも長けていた。
少し進むとタパの言う通り紫のアイリスが群生となって咲いている。まるで花の絨毯だ。昨日慰霊碑に手向けた花はここで採ったそうだ。ドゥラはたまらずスケッチをする。村の環境下と違うためか花弁の端に黄色い網目模様が見える。種類が違うのだろうか。ドゥラは色までつけたかったが道具を持ってこなかったのが悔やまれる。タパはそんなドゥラを静かに見守っている。
「俺のことが煩わしくはないのか?」
ドゥラは気になっていたことを聞いた。
「なぜ? そんなはずないだろ。煩わしいやつとこんな場所に来ると思うか?」
ドゥラの質問にタパは即答した。
「でも俺は村で幅を効かせている土地貸しの息子でさ、その…嫌煙されてみんなに嫌われているだろ」
ドゥラはスケッチしていた手を止め顔を上げた。
「俺が嫌煙するのはお前の父親であり、現在恐れているのは自分の父親だな。お前はまるで関係ないだろ。というかそんなに綺麗な絵がかけるんだ、それは素晴らしいことだろ。俺にはとてもじゃないが無理だ。まるで魔法だよ。俺は文字を見るだけで目眩がして気持ち悪くなるんだけど、親や先生はそんな俺をやる気がないとか言うけどさ、少なくともお前は俺を否定しない。それに美しい絵を見るのは好きなんだよ」
褒められてかなり動揺したが嬉しかった。すべてはタパの言う通りだった。そして自分もタパを避ける理由などないのだった。照れ臭くてスケッチに再び目を落とした。初めは先入観からかタパを低く見ていたことは確かだ。しかし自分の知らないことを多く知るタパに対して今は尊敬の念を抱いていた。
「ドゥラってさ、いつもイライラしているね。何が気に入らないの?」
タパは辛辣だ。
「イライラしているわけじゃ…いや俺はイライラしているんだろうな、なぜかすべての物事に腹が立つんだよ。きっと自分がさ、何もできやしないからでそれを他の物や人のせいにしているからなんだと思う。自分に対して苛立っているんだよ」
なぜだかタパには自分の心の内を吐露しても恥ずかしいとは思わなかった。
『常緑小低木。蔓を持ち、葉は卵型。フウチョウボク科? 葉柄に棘、花は単性、薔薇色の四枚の花弁』走り書きでドゥラはスケッチブックの端に書き留める。いつもはリンネの『植物の種』という本を持ち歩いているのだが、絵の具と同じく重いので置いてきたのだ。ドゥラにとってバイブルともいえるその本はすべての植物の種を属に分類したもので、命名法の原点となっている。誕生日に王都から取り寄せた宝物だ。
「この花はケッパーって呼ばれてる」
タパが答えた。初めて見る花だったのでドゥラはタパに聞いた。
「見たのは初めてだけど名前は聞いたことがある。他にもケイパーとかカープルとか、棘風蝶木とも言われるんじゃないかな。粘土質の丘陵地の岩場や壁面で見られるはず」
ドゥラが言いたした。
「その通り! 俺より詳しいね。なんだか申し訳ないよ。でもさこの花は咲くと価値が落ちるんだ。丸く小さい蕾を酢漬けにするとピクルスとして重宝するんだよ」
タパは説明してくれるがそのほとんどが食べられるか否かだった。その知識は自分で経験したことだから血となり肉となっているのだろう。ケッパーは見たところそのほとんどが花を咲かせている。ドゥラは『開花時期は八月迄?』と書き加えた。
「もしかしたら…あ、あったぞ」
するとタパが嬌声を上げた。タパはテンションが上がっている。卵型の果実を見つけてタパは拾う。熟し、身が弾けて中身が露わになっている。両手に一つずつ果実を持ってこちらに見せてくれる。
「果実ができるのはほんと稀なんだ。俺も初めて見た。貴重だよ」
タパはそう言って大事そうにリュックにしまった。
「二つも見つかるなんてこれだけで来た甲斐があったよ。あと一時間遅れてたら動物に取られてただろうからね。これも後で食おうぜ」